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六 生まれた目的

皆さん、人間は何のために生まれたのかという根本的なことが、今日まで歴史を通じて問題となってきました。なぜ生まれたのか? ある人は自分の国のために生まれたと考える人、ある人は自分の父母のために生まれたと考える人、人によって様々です。今日、信仰を持つ人は、「神様のために生まれた。」と、このように考えています。(八三・一五四)

皆さんは何のために生まれたのか、これが問題です。これについて考えて見ましょう。自分のために生まれましたか?(いいえ)。自分が動機となって生まれましたか?(いいえ)。また、その目的というのは、自分のためでしょうか? 相対なしに目的を達成…。相対的な問題なのです。自分のための目的ではなく、互いのための目的です。それなのに我を通そうとするのです。動機と目的、主体と相対的な関係を一致させるにおいては、自分を出すことができますが、そうでない場合は、自分を出したらそれは怨讐です。怨讐だ、ということです。(六六・二六四)

神様の愛の中では、世界と通じる愛は家庭と通じ、国と通じる愛は家庭と通じ、社会と通じる愛は家庭と通じ、家庭と通じる愛は自分と通じるのです。すべてが逆さまです。また、天も自分の行く目的と通じ、また、国も自分の行く目的と通じ、すべてに通じるのです。分かりましたか?(はい)。ですから、皆さんはどんな人になるべきか?「私は神様の愛を通じて、家庭で合格者となり、国で合格者となり、世界で合格者となり、天の国に行って合格者となり、神様の心情を中心として合格者となろう。それこそが人類がこの地上に生まれた本分であり、人間が生まれた目的だ。」こうあるべきです。それ以上はありません。それしかないのです。私が今生きているのは、神様の愛を中心として、神様の心情を中心として生きるのだということです。(九五・六〇)

では、人間が生まれた目的はどこにあるのでしょうか? 世界のために生きるところにあります。それゆえ私たちは、死んでもこの道を行かなければなりません。世界に代わって神様に侍リ、神様の前に世界を奉献すべき祭司長として、「あなたが探している世界をお受けください。」と言うべき使命が、今日地上に生きている人間たちにあるのです。このように、とてつもない使命を担って素晴らしく生きるべき勇士たちであるにもかかわらず、皆、お金のとりことなって首をくくるような、取るに足らぬ小心者となってしまったのです。(三二・二六五)