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羅針盤なしで航海する船の前途を考えてみましょう。船はエンジンが回ってスクリュ・が作動すれば前進しますが、船を動かす航海士は、ただ舵だけとっていくだけでいいですか? そうすればどうなりますか? それは私たちが人生を生きるにおいても同じことです。あたかもスクリュ・が回るように、ただ朝起きてご飯を食べて、会社と家を行ったり来たりしながら、どうにかこうにか方向も定められずに生きていればいいのですか? そうして目的地の港に到着してはどうなるのでしょう? その目的地にどうやって降りるのでしょうか? それ以上の危機一発はありません。
先生は、あるとき道を歩いていて、年取ったおじいさんと話をしたことがありました。そのときおじいさんに、「どこへ行かれますか?」と尋ねたら、「行くってどこへ行くんだ。息子の家に行くのさ。」とおっしゃいました。「そうですか、行かれら何をなさるのですか?」と、また尋ねると、「ご飯とおかずを出してくれたら食べて、ひょっとして鶏を捕まえてくれたら、それもおいしく食べるだろう。」とおっしゃるのでした。そこで「では食べ終わって何をなさいますか?」と尋ねたところ、「その後は別に何もないさ。」と、こんなふうな答えでした。私たちの人生をこのように送ってもいいのでしょうか?
店の帳簿を整理するときにも、収入がいくらで支出がいくらであるかを正確に決算します。このように帳簿を整理するにおいても、収支決算を徹底してやるのに、皆さんの人生はどうですか? 一生の間暮らした内容を収支決算してみましたか? 赤字ですか、黒字ですか? 赤字ならば、地を打って痛哭すべきです。人間は、臨終の場において、楽しく歌いながら死ねるようでなければなりません。ところが死を前にして、生きようと、じたばたするのは、赤字人生である証拠です。私たちは絶対性を中心として、心情の世界において黒字人生を生きるべきです。
しかし、今だにそうなっていないために、これを解決してくれる宗教が現れなければなりません。その宗教は、漸進的ではなく爆発的であり、瞬間的にきっぱりと治してしまいえる原動力を持った宗教でなければなりません。このことを理解できますか? そういう宗教が現れたら、どんなにいいでしょうか?
今日まで、キリスト教の歴史は約二千年になり、仏教の歴史は二千年を越えています。しかし、二千年間生き続けた人間はいません。いないために、漸次的に歴史的な宗教を立てながら来たのです。ですから、私たちの願いは本郷の国を創ろうということであり、その国へ入るための橋を作ろうということなのです。
江原道の麟蹄に行ってみると、見かけは五分もかからないほど近い距離なのに、実際歩いて見ると二十里(日本での二里=約!.84kmにあたる)以上にもなる道がたくさんあります。「車に乗っても越えられないような道を、私はなぜ歩くといったのか?」と言いつつ歩いてみると、足が痛くてたまらなくなります。皆さんも、生きていけばそういう機会があることでしょう。ではそのときに皆さんは回り道を行くことを願いますか、直行する道を行くことを願いますか? ここにヘリコプタ・が必要であり、ロケットのようなものが必要なのです。何か変わらなければなりません。非常対策を取ることのできる心を持たなければいけません。こうした観点から見るとき、この地球上には、そういう宗教が現れなければなりません。(一九・二八九)
皆さんは何をしに朝っぱらからここに来ましたか? 何をしにここに来て座っているのですか? お腹がすいたからここに来て座っているのですか? 暑いからこの冷たい場所に来て座っているのですか?(違います)。それでは寒くて、ここに来て座っているのですか?(違います)。何のために来て座っているのですか? どちらが真の方向なのか分からず、高く行くべきか、下りて行くべきか、こっちに行くべきか、あっちへ行くべきかが分からないのですね。教会も多いし、宗教らしきものが本当にたくさんあります。真のよなものがたくさんあります。本物はたった一つなのに、偽物がざらにあるのです。
私たち人間というものをよくよく見ると、ひたすら、あちこち歩き回っているうちに、目もまひし、耳も麻痺し、臭いを嗅ぐ鼻もまひし、味を見る口もまひし、この二本の手もまひし、すべてまひしたのです。私の目が、私の耳が、すべての感覚器管が一致して、すべての神経線まで全体を総合して、自分をひとつに導くことのできる道はどこか? 陶酔して喜びを感じつつ生きることのできる道があるとするなら、それはどの道か? それが自分個人の人生、自分一人の道として自分が満足できるのみならず、自分に従う家庭が満足し、自分が属している氏族が満足し、自分が属する国が満足し、自分が属する世界が満足し、自分が属する天地が満足して、神様までも満足することのできる、そんな光の道は、どこにあるのか?
そういう道があってこそ人類が幸福な世界に行けるのであり、人類が皆ひとつとなる所に行くことができるのです。それは階級を超越してひとつの目的地に導くことのできる光でなければなりません。そういう光を目標とする、そういう光に向かう方向はどんな道なのかということです。それは必要でしょう?(はい)。それでその光とは、一体何なのかということです。何の光か?(真理です)。(九五・一八一)
世界の頂上に上がる最短距離は一つしかありません。二つではありません。一つです。それを通らずしては、一つの世界に到着することができないのです。人工衛星を打ち上げることなど、何でもありません。堕落した人類に向かって、福地の人工衛星を打ち上げて、その定着地を撃破させようとすれば、タ・ゲットを撃破する場合、勝手に行ってできますか? コンピュ・タ・に入力すれば、千年万年後にも、同じ動作で軌道に従うため撃破できるのです。それは二つの道ではありません。(一三五・二八二)