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1 何のために生きるのか
私はだれのために生き、何のために生きるのかということが問題です。このことを考えるとき、私自身を問題として、私は今、何のために生きているのかと反省してみなければなりません。皆さん自身は、今まで何のために生きてきましたか? 地のためにいきましたか? 天のために生きましたか? 地上において、創造主のみ旨を成すために完全に生きたと自信を持って言える人は、今日までの歴史路程において見つけることはできません。
これはどういうわけでしょうか? 宗教的に見ても、あらゆる方面から見ても、人間が堕落したためです。堕落したために、人間は、善に生きることのできる本然の理念の園を離れ、全体のために生きうる環境から離れるようになりました。心ではそのように生きたいのに、体がそうできないことが、この地上に生きている堕落人間が置かれている状態であることを知らなければなりません。
こうした立場に置かれつつ、私たちは生きています。本来人間は、固着的な理念の世界で生きるべき人間ですが、そのような位置から落ちることによって、尊貴であるべき人間が形容しがたい悲惨な場所で、もがき苦しむようになったのです。
しかし皆さんは、より豊かに暮らしたいという感情を持っていることでしょう。もう少し豊かに暮らしたいし、もう少し大きく、もう少し広く、もう少し高く、もう少し無限の価値を感じつつ生きたいという気持ちがあることを、否定する人は一人もいないでしょう。
このように生きたいと願いつつも、実際にそのように生きることのできる生活の内容、生涯的な理念といった、そういう目的に向かって進んでいくための内容がありません。生きているとはいいますが、皆さんは堂々と自信を持って、「天よ、地よ、神様よ、協助してください。」と言えますか? そのような皆さんになれずにいます。
自分自身は創造本然の生の内容を知らず、天の多くの霊人たちと、地の被造万物と、創造主である神様の前に自信を持って堂々と発言することのできる存在になれずにいるのですが、天の多くの霊人たちは、今この時間も皆さんのために、地もまた皆さんのために、神様も皆さんのために働いていらっしゃるのです。にもかかわらず、人間は、そのような天があり、地があり、あるいは神様が、いるのかいないのかさえも分からないまま、その世界を慕いつつ、彷徨の歴史路程を苦しみさすらってきたということを私たちは知っています。
更には、ここに来た学生たちは今日を出発として、自分が何のために生きるのかということを、一度考えてみるべき時が来ました。もし神様が、「おまえは何のために生きるつもりか?」と言うとき、皆さんは何と答えますか? そして更に一歩進んで、皆さんの人生はだれのためにあるのか、と尋ねたならば、自分のためにあるのだということはできません。国はだれのためにあるのでしょうか? その国自体のためだけに存在するのではない、ということを知らなければなりません。なぜか? 大宇宙の目的圏内に入っている国家であり、民族であり、世界であるからです。ゆえに、いかなるものであれ、存在するものはすべて、それ自体のためだけに存在するようになってはいない、ということだけは、間違いありません。(八・四二)
2 だれのために生きるのか
皆さん個人は、だれのために生きているのでしょうか?「だれのために生きる? 自分のために生きるさ。」と言えば、それは落第です。自分のために生きるという人の前に、家庭がありえますか? 望みの家庭はありません。国がありえますか? 国は与えられません。そこに世界がありえますか? 世界はありえません。世界が現れるべき場所がありません。ありますか、ありませんか? 政治の公約は、「この個人主義の悪党よ、退け。」と制止するのです。個人を第一とするところに、家庭が入り込めますか? そこに理想の国が入り込めますか? 錐の先みたいな狭いところに入ることができるのかというのです。いくら入り込もうとしても入り込めないのです。(五七・六六)
3 愛のために生きる
人生はどのように生きるべきでしょうか? 人は、どこから、何のために生まれて、どのように生きるべきなのでしょうか? 簡単なのです。愛(神様を中心とした)のために、愛によって生まれたので、愛の道を探し、愛の目的地に行くのです。こうすれば宇宙の循環法則上において、永遠に回ることができます。愛は永遠的概念なので、愛を探してこの中心に来るのです。それは愛においてのみ成立することです。(一二五・六五)
ですから皆さんは、それを知らなければなりません。すべてのものが移動する目的、存在する目的は、愛であるということです。愛を探して動き、愛を探して存在するというこの鉄則を、皆さんは常にわきまえていなければなりません。鳥たちが互いに引かれて、さえずりながら飛び交うのも愛ゆえであり、磁石のプラス・マイナスが互いにくっつくのも愛でひとつになるためなのです。人が皆、だれかに出会うというのも、ひとつになるためです。
それでは、ひとつになる目的はどこにあるのでしょうか? お金、自分の欲、自分の息子娘のため…。そこに目的があってはいけないのです。神様の愛がなければ、すべてのものは成立することができません。これを知らなければなりません。
また、一生の間生きるのは何のためか? 自分のために生きるのですか? 神様の愛のために生きるのです。その目的のために、動き、生きているのです。それはどれほど、素晴らしいでしょうか。どれほど素晴らしいかということです。そんなふうに生きる人は、絶対に滅びません。苦しいことや、涙の出ること、あるいは悲惨なことがあるとしても、それは神様の愛のためであるので、悲惨でもなく、悲痛なことでもなく、悲しいことでもないのです。この原則が分かりますか?(はい)。
存在の目的がそういう内容として追究されているということを知り、それさえ中心として活用すれば、世界のすべてのことを活用することができるのです。それが創造の原則です。そういう心を持った人たちがこれ位いたならば、その人々はアメリカを動かすでしょうか、動かせないでしょうか?(動かします)。ただし時間が問題なのです、時間が。そうすれば、アメリカは動くようになっています。動くようなっているのです。(六七・一五九)
私たちは何のために生きるのか? 絶対的な真の愛、真の愛のために生きよう! それゆえ、自分の財布の中にあるハンカチも真の愛のためにある、自分が仕事をするのも、汗を流すのも愛のため、真の愛のためするのです。私が話すのも、真の愛のためであり、食べるのも真の愛のためであり、遊ぶのも真の愛のためであり、すべてがそうなのです。(一〇七・二〇五)