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この地上に生きる人々はだれしも、福を受けることを願っています。何か分からないけれど、ある絶対的な力に寄与して、祝福された道を行きたいし、それを所有したいのです。それは個人においてもそうであり、団体においても同様で、私であるならば私、世界であるならば世界においても同じことなのです。
人間は本来、原因的存在ではありません。人間からすべてのものが出発したのではないのです。(一八八・二五〇)
私たちはだれか? 神様とは、だれか? 創造主である。創造主とは、だれか? 宗教世界における概念では神様は父であり、私たちはその子女である、とこう見ます。では、父はどんな父であり、どのようになった父なのでしょう? これが漠然としているのです。借りて来た父ですか、隣近所の父ですか、それとも養父ですか? どんな親なのですか? そうでなければ妻の実家の親ですか、嫁ぎ先の親ですか? 父という言葉はたくさんあります。根本を解決できなくては、環境が拡大された世界において、いくら解決しようとしても、解決されないのです。いくら千年万年経っても解決されないのです。
ならば、人間と神様の問題となります、これが。人間と神様。本当に神様は私たちの父なのか、と問うとき、皆さんは神様が父であると感じますか? 私というものが存在する前に、私よりもっと確実なのが父母の一身です。父母が私より先に存在しているがゆえに、私がいるということを前提とするときには、私がいるということを主張する前に父母がいるということを主張しなければなりません。それが正しい定義です。父母をそっちのけにして、自分の存在を主張するのは、愚かなことです。
なぜか? 私たち人間は第一の原因的存在ではありません。第二の結果的存在なのです。それゆえ、私がいるという前に父母がいるというべきです。このように見てみると、根本までつきつめれば、宇宙の根本たる神様という問題を根本的に、いちばん最初に解決しておかなければならないのではないか、ということです。母親の母親のそのまた上の、先祖のそのまた先祖の、と上がって行けば、神様になるでしょう? こういう理論を追求するならば、私を主張する前に、神様を決定しなければなりません。ですから、神様がどのような方で、私の父であり、その父がどのような父であるということを、統一教会は簡単に教えてくれるのです。(一八八・一九〇)
本然の出発点をしっかり定めなさい。しっかりと定めろということです。人間は結果的存在であるがゆえ、原因の起点にまで持って行って合わせるべきです。原因の起点に合わせても、その起点が盲目的起点となってはいけません。神様が人格を持っているがゆえに、人格を持った人間においても、知情意のすべての良心的作用の内容を備えています。それゆえ、その動機も、原因的内容以上の動機でなければなりません。また同時に絶対的であるべきです。一度出発したものが間違えば、永遠に是正することができません。(一七二・三二)