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三 終わりの日には成和が自覚するとき

終わりの日は何についていうのかといえば、一年中秋のような時を言います。秋になれば葉が落ち始めます。葉が落ちる際にはどこから落ちますか? 太い枝にある葉から落ちるのです。細い枝にある葉から落ちるのではありません。昔のもの、旧時代のものが先に落ちるのです。その権力が皆落ちていくのです。

それゆえ私たち大韓民国を見ると、韓国の三十代が世界を料理する時に入ってきたのです。そして、これから少し過ぎれば、十代・二十代が世界を料理できる時になります。だから今の大学生が問題なのです。昔は七十・八十代となってようやく国を動かすことができたのですが、それが六十代、五十代、四十代、三十代へとだんだん下がってきています。二十代を過ぎ、これからはそれが十代に入ってくるようになれば、高校生たちをどのように収拾するかが問題になることでしょう。大学生が問題ではありません。これから高等学生たちをどのように収拾するかが問題なのです。

世界を生かしたり殺したりというのは、年とった人々のすることではありません。それで最近では、年とった人々は旧世代だといい、相手にしてもらえないでしょう? 大学の教授たちの中でも、年のいった教授たちを旧世代のモデル・ケースとして扱うのです。三十代の教授であって、初めて学生たちが深い興味を示すのです。おかしいでしょう?

それは何かというと、葉が落ちるようなものです。人類文化を形成するにおいて、年を取った人が落ちていくのです。皆落ちていくのです。昔は年のいったおじいさんの言葉だといえば、村中が行ったり来たりしたものですが、今では村の犬さえおじいさんの言葉には反応しないのです。そのようになりました。  

          

今ではおじいさんの時代が過ぎ去り、お父さん・お母さんの時代が過ぎ去り、お兄さん・お姉さんの時代も過ぎ去り、私たちの時代が来たのです。今の時はどんな時ですか? 今は青春時代です。若い世代です。大韓民国で今いちばん頭が痛いのは何かというと、与党と野党が頭痛の種なのではなく大学生です。もう少しすれば高校生です。最後の土壇場に来ているのです。もう終わりの日が近づいているのです。

堕落の動機は何かというと、個人主義が発露することが堕落の出発点です。個人主義の発露が堕落の出発点なのです。世界や何かといったものはありません。その次に自由奔放の基盤を持ったことが堕落の要因です。「神様が取って食べるなというのはどういうことだ? 法とか何だとか無ければいいのに、法がなぜ必要なのか? 制約がなぜ必要なのか? 自分勝手にやってもいいだろうに」というのですが、そのように自分勝手にすることが自由ですか? それではいけないのです。

自由なら自由なほど、その世界は秩序と規約が守られなければならないのです。精密な機械であるほど、縦横に原理原則による秩序の通りに法則的な軌道に従って動くのです。このような法則に従うとき、自由活動の結果が出るのです。これは今日の科学文明と社会制度を中心に見るときに、否定することができないのです。この社会の構造も自由な形が必要です。人間だけ自由を必要とし、社会制度は自由を必要としていないのでしょうか? 社会制度は人間と相応するものなので、社会制度が組織と体系の規制の下で形成されたなら、人間はその体系化された制度に応じ、そこに備えることができなければならず、それを主体的な立場でむしろ保証してやらなければなりません。そのようにすべき人間であるという立場から見ると、勝手気ままな自由などありえないのです。

進むには、必ず道が設定されなければなりません。方向が必要です。今日、自由主義の思想は無方向的です。自分の思い通りにするのに方向がありますか? しかし、方向のない心がどこにありますか? そのような考え方は滅亡する考え方です。そのような退廃的な思想は絶滅させなければなりません。それゆえ、難しく高次的なものであるほど行く道が複雑なのです。皆さんは複雑なのがいいですか、単純なのがいいですか? 複雑なのがいいのです。

皆さん、人体の中でも目について考えると、単純なようですが複雑なのです。目の細胞も一つひとつはすべて複雑です。すべて複雑ですが、一つの生命体として生活をするにおいて、これが互いにぶつかり合うのではなく、互いに協助しながら共存しているのです。それゆえ、自分は目であれ何であれ皆嫌いで手がいちばんだということはできないのです。前後左右上下関係において、位置と階級に従って、必ず各々制約された法度と条件に順応しなくては行く道がないのです。通ずる道がないのです。(四九\一九〇)