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第二節 思春期の特徴と現象

一 思春期とはどのような時か

思春期とはどのような時でしょうか? 心が外に向かって出ようとする時です。心がすっかり成長したので、そのままでいては、アシや竹のように長く伸びることができません。というよりも、心が体の外に出ようとするのです。また、体は心を求めて入ろうとします。そのような時なのです。そうなる前までは心と体は平行してきたのですが、これがいつ一つになるかというと、思春期に一つになるのです。それゆえ、心は外的な世界のすべてを占領して関係を結ぼうと、しきりに外的な世界のすべてを占領して関係を結ぼうと、しきりに外に出ようとするのです。その反面、体は心の世界に従っていこうとします。このようになっているのです。(一四〇\二〇)

皆さん、思春期時代がなぜよいのでしょうか? 思春期時代はよい時です。結婚前の娘、青年時代がいちばんよい時なのです。ここにいる女の子たち、そうですか? 思春期時代がいちばんいいんですね。おばさんたちもそうでしたか? いくらそうじゃないと言っても仕方がないのですね。

その時がどんな時かといえば、皆さん自身が波長を与える時なのです。自分が波長をどんどん遠くに与え、遠くのものと因縁を結ぼうと、範囲を広げる時です。分かりましたか? 授け受けする道が広がるようになれば、うれしくなるのです。

ですから、思春期時代がどのような時かというと、あらゆることにおいて自分を主体として、「私がいちばんだ」と思う時なのです。皆さんもそうなのです。自分がいちばんだと考えます。マラソン競技場に行って堂々と格好よく一等でゴールインしたように思います。「私が一等なのだ」と考えるのです。どんな運動を見ても、全部やってみたいと思う時が、思春期なのです。

そのときは、皆自分なりの文学を持ち、詩人にならない人はいません。わけもなく心がそわそわして、鼻も歌を歌い、耳も歌を歌い目も歌い、口も歌い、腕も歌い、体も歌おうとするのです。そのため、じっとしていられないのです。目もじっとしていず、耳もじっとしていず、口もじっとしていず、手もじっとしていず、このように全体を動かして自分と因縁を結ぼうとする時なのです。

人間においてこうした心情は一度しかありません。老いて死ぬまで、そんな心情があるならいいのですが、その時さえ過ぎてしまえばすっかり冷めてしまって、一生の間に二度と無いのが問題です。自分の一生において、思春期時代のような結果の時代がなければならないのですが、その結果の時代はいつでしょうか? これが問題なのです。その結果の時代がまさに霊的世界なのです。神様の愛の世界だというのです。それゆえ、霊界に行けば、思春期時代と同じ美男・美女の姿で生きるのです。いいでしょう? そうであるならいいでしょう? そこでは顔は醜くなく、紅気を帯びた青少年時代のままです。いつでも思春期時代のようなのです。

思春期は、寂しい秋の日に、柿の木の枝先で木の葉が一枚揺れていたのが、風がひゅうっと吹いて、その葉がはらりと落ちれば、それを見てもアハハと笑う時です。それを見ればうら寂しいはずなのにもかかわらず、そうではないのです。深刻に考えてみれば、それはあきれるような光景ではありませんか? 皆落ちて、たった一枚残った葉さえ落ちるのを見て笑うというのです。人間に例えるなら、人々が皆死んでたった一人しか残っていないのに、その一人まで倒れるのを見てアハハと笑うのと同じなのです。その落ちた葉が風に転がっていけば、ついて行ってヒヒヒと笑うのです。このようにすべてのことに同化したい時であり、すべてのことを主管したい時が思春期なのです。

それでは、すべてのことに同化して、すべてのことを主管するものは何でしょうか? 皆さんの細胞を見てみれば、先祖から受け継がれた感情的要素がそれぞれ異なっていたのが、一度その因縁に従って与えうる運動をしてみる時が思春期だというのです。与えるだけでなく、受けてみようという作用をなしえる時が思春期であるため、思春期はよいというのです。(五〇\二六八)

思春期というのは、外的なあらゆる被造物を愛することのできる心が開かれる時なのです。(一三六\三二)