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神様は生きていますか、死んでいますか?(生きています)。悪魔も生きていますか、死んでいますか? 神様を見たことがありますか? どうして分かりますか? 悪魔を見たことがありますか? どうして分かりますか? そこで、共産主義でいう観念と実在が哲学の問題となるのですね。目に見えないものは皆すべて観念です。抽象名詞。良心も観念だと見るわけです。
では、愛を見たことがありますか? いわば愛も観念、抽象名詞です。しかし、愛は観念ではありません。実生活のあらゆる面で触れているのです。(一八六\六七)
神様は知恵深い方です。神様は自ら「見えない主人になろう」そういう考えができるのです。便利な道を選ぶとなると、人間たちの知らないうちに、そっと神様ひとりで思いのままにできるように、人間がいくら追いかけても捕まえることができず、見ようとしても見えない存在になるのがいちばん便利な方法でしょう。それでもって主人として君臨すればよいのです。分かりましたか? そうやって君臨するのが理想的なのであって、二百十億光年にもなる宇宙に「我が懐に抱かれよ、お前は我がうちにあれ」と言うそんな図体をした神様だったら、神様としてやっていられるでしょうか。その神様に心があるとすれば、心から体までの距離はどのくらいになるでしょうか。その大きな体と心が互いに訪ねて行くには、どれだけ時間がかかるでしょうか。神様がご覧になっても嘆かわしいはずです。
そのように考えると、知恵深い神様、全知全能であられる神様は、中央に立って思いのままに動き回れる、無形の存在としてこれを支配するのがいちばん便利だと考えたのです。では、だれか文句を言う人がいますか? 神様は無形であるだけに、存在世界を自由に通り抜けて行っても、少しの支障も感じる人はいません。皆さんにも体がありますが、神様が来て自由に通り抜けても分からないのです。神様が、うとうと居眠りしている皆さんの体を踏んで行っても気づかずにいるのです。だからとても都合がいいのです。いちばん都合がいいでしょう? 従って、神様はよく考えた末に、目に見えない存在でいるのがいちばん便利だということで見えない神様になった、という論理は妥当な論理なのです。
皆さん、空気が体を出入りしているのを知っていますか?(はい)。出入りしていますが、それを感じますか?(感じません)。感じないでしょう? 空気が出入りするのも感じないのに、神様が出入りするのを感じられるかというのです。こうして神様は、無形の神様でいることが最も便利な方法だと判断し、この宇宙を支配できる、宇宙を風呂敷に包んで余りあるほどの神様でなければいけないと考えたのです。無形の神様ですが、無形の神様の心はこの宇宙でさえ小さいと感じ、もっと大きなものを要求しているのです。分かりましたか?(はい)。(一三八\一六七)