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五 神様は体恤しなければ分からない

では、「神様はいる」、漠然と「神様はいる」と言うと、私たちにはあまり関係がないような気がします。神様がいるならいるで、私たちと何の関係があるのかというのです。関係、リレイションシップ(relationship)というものが問題ですが、どのような関係を持つかということが重要なのです。(一三〇\二〇九)

「神様はいる、神様はいる」というのは、言葉だけではないのです。『原理』を通して主体と対象の関係を中心として見るときに、私たちは、神様が不可避的にいなくてはならない存在だという立場ではなく、「神様は私が考える以前から存在していたのだ。私のすべての感覚、私の一切のものを主管する神様だったのだ」という立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。

「認識して知る」のが原則ではないですか? 「知って認識する」のではなく、「認識して知る」ようになっています。私たちは、寒いなら「寒い」ということを知ってから感じるのではなく、寒いことを感じてから知るのですね。それと同じように、皆さんは、神様がいるなら神様がいるということを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。すなわち、体恤的立場をどのように確立するかという問題、これが問題なのです。(五八\二九一)

今日、私たちは、「神様の愛を受けたか?」あるいは「今、神様の愛を受けているか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか? 世界中の神学者の中には、神様がいるのかいないのか分からない人もいます。ムーニーたちはどうですか?

神様は頭で知るのではなく、心情で体恤しなくてはなりません。感じなくてはならないのです。私たち統一教会は、神様からいただくことのできる愛の取り分があります。その取り分をいただかなければなりません。(一二八\一三〇)

皆さん、これが問題です。皆さんは寝ているときも「お父様」、独り言でも「お父様」と言えなければならないのです。世の中の人々が自分の相手を慕う以上の慕わしさがこみ上げるようでなければなりません。そうして食べることも寝ることも忘れて、その生活の内面に天のお父様への慕わしさを持って「お父様」と呼べば、目の前にお父様の姿がなくてもお父様の手が握られるようになるのです。そういうことがあるのです。夢のようなことが起こるのです。「お父様」と呼べば、お父様の懐に抱かれるようになるのです。このような中で体恤的感情をいかに体得するかということは、信仰生活において何よりも貴いものであることを皆さんは知らなければなりません。

そのような体恤の感度、感じる度数、その量がその人の信仰の基準になりうるのです。そのような愛の心情を持ったならば、どこへ行ったとしても「私がこれをしなくてはならない」というときには、「天よ、共にいてください」と言う前に、すでに神様は共にいてくださっているのです。そのようなことを皆さんが感じるときには、「神様、感謝いたします」と言うようになるのです。(五八\二九九)