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事例1 水をちょっともらいに来ました
昔、統一教会員たちが伝道に出て、「どこから来たのか」と聞かれれば、「どこから来たかって、どこから来るんですか? 通り過ぎて、水をちょっと飲ませてもらいに来ました」。(笑い) このように言いました。それは、気分がいいですか、悪いですか? (悪いです)。これからは、胸を張って行こうというのです。(四四―二〇五)
事例2 あなたは本当に班長ですか?
町内に行くと、班長がいます。その班長を訪ねていって「あなたが、班長ですか?」と聞けば、「ええ、私が班長です」と言うでしょう。「自分が班長に間違いない」と言っても、本当に班長かと何回か聞くようになると、そこで逆にはたかれるようになるのです。「本当の班長は、この世間にいないような気がするが」と言えば、「なんで本当の班長がいないなどと言うのか、人をそんなふうに無視してもいいのか?」と言うでしょう。「では、私の言うことをよく聞いてください。本当の班長は、こうしなければならないのです。ところであなたが、そうしましたか?」と聞いてみてください。聞いてみると、初めて聞く言葉です。本当の班長なら、自分の息子、娘より町内をもっと大切に思う心で、早朝でも夜でも追いかけるようになれば、その町内で追い出されるようになるでしょうか、好かれるでしょうか? (好かれます)。
昼も夜もなく、狂ったように町内を歩き回りながら、「町内に不便な点はないか」と、声を張り上げたといって、法に引っかかりますか? 無事通過だというのです。引っかかる法はないというのです。この不義の因縁に従って、からまった世間の法に引っかかるでしょうか? 引っかからないというのです。自然解放圏をもてる、自然な天国の舞台は、そういった場から広がるのではないだろうか、というのです。これは、理論的に妥当なことです。
ですから、狂ったように人を愛せというのです。狂うのは、真昼にだけ狂うのではありません。早朝でも、いつでも、町内を愛したくて、愛する父母、兄弟、妻子よりも、もっと町内を愛する心をもって、泣きながらその町内を自分の願望舞台と考え、汗を流せというのです。汗を流すのも、有り難く、悪口を言われるのも有り難く、追い出されるのも有り難いのです。これが私の愛の度数を立体的に築くための一つの調和法です。そういう心をもって、一年が過ぎ、三年だけ過ぎるようになれば、その町内は、その人の前にひざまずくようになるのです。これが天地法度だというのです。(四四―二〇五)
事例3 霊的な触感を発展させなさい
ある人を、慕う心情をもっていれば、その人に対せないように、塀を築いておいてもその壁を越えたなら、事が起こります。霊界で、その間隔を埋めてくれます。私が興南刑務所にいる時にも、言葉で伝道しませんでした。言葉を使わずに伝道しました。霊界が動員され、協助してくれました。しないと、大変なことになるからです。
同じことなのです。ですから、皆さんが地方に行っても、このようにしなければなりません。地方は、どうですか? 先生は、一九六〇年代に、名の知られた所はみな行ってみました。私は今、過去にはだしで三千里江山(注:韓半島)を横断できなかったのが恨です。この村、あの村、全部……。今、そうしようとすれば、すべきことができないので仕方ないけれど……というのです。
部落の家々を回りながら、水を一杯もらいたい気分です。この部落に行けば、どんな家があるでしょうか。あの村に行けば、どんな人が住んでいるのでしょうか。気がかりではないですか? そうしない限り指導者にはなれないのです。
今日、私が道を歩いていって、どんな人に会うか考えてみて、最初に会う人はどんな人だろうか、二番目に会う人はどんな人か、三番目に会う人はどんな人か考え、「お父様、どんな人ですか? 私はこういう人に会いたいのですが、どんな人ですか?」と、祈祷しなければなりません。私が考え、私が祈祷した、その基準とぴったりと合うならば、気分がいいのです。こういう体験をすることにより、皆さんの霊的な触感が発達するのです。
道に出ると既に、「きょうはこんな人に会うだろう」という感じを覚えるのです。人の霊は無限に通じるのです。きょうは、こういう人に会うだろうと考えたが、実際に、そういう人に会うと、「アイゴー!」と言ってびっくりするのです。このように、自分の考えと、霊界で教えてくれた霊感が、実際の事実としてぴったり合う時が多いのです。このような体験を積んで上らなければなりません。何のことか分かりますか? (はい)。
そういう直感と予感で、体験を通して、人の感情を知ることができ、国家なら国家の運勢を予測することができるのです。こうした体験で、霊的触感を発展させなければならないのです。そうすれば今後、この国がどうなるかということも浮かぶようになるのです。私が歩いていきながらも、それを考えることができ、空虚な場や、厳粛な場にいたとしてもいいというのです。(三〇―一五〇)
事例4 サタン世界を釣る神様の餌
伝道は、網で魚を捕るのと同じなのです。網を広げておいて、入れ入れといって、魚が入ってきますか? 魚が入ってこれるように、ついて回りながら、追い込まなければならないのです。それと同じように、伝道も人を追い込まなければならないのです。
魚をたくさん捕まえる人は、どんな人でしょうか? たくさん努力する人です。いろいろ方法を使ってみて、どんなにしてでもしようと、たくさん努力して、その時間の比例と方法いかんによって、漁獲量に差が出るのです。道理は全く同じです。(九六―一三一)
教会長であれ、地域長であれ、勝共講義をするようになれば、昼は頂いて食べるようになるのです。そして、うまくいけば夕飯も飢えたりはしません。それだけでなく、講義を上手にして感動を与えられるようになれば、封筒までくれるというのです。その封筒がサタンの餌だということも分からず、ひらひらさせながら……。それは一時的なものなのです。しかし、神様の摂理において、神様が私を餌と見て、サタン世界を釣ろうとされるのが分からなかったというのです。皆さん、神様の餌になりますか、なりませんか? (なります)。皆さんを餌と見て、釣りをしようというのが、神様の伝道方法です。そうでしょう? (はい)。皆さんは、餌にならなければならないのです。餌になり、食べられてこそ、サタンをつかむでしょう? そうでしょう?
悪が、善をのみ込んで、残る法がありません。のみ込まれるようになれば、むしろその善の種が入って、その体を肥やしとして、育つというのです。
私も大きくなり、それ自体も新しい姿で復活するのです。そうでしょう? 父母が子供を育てようとするならば、お母さんが乳を飲ませなければならないでしょう? 自分のすべての良いものを与えてこそ、それを与えてこそ、子供も生き、お母さんも生きるのです。二人、みな生かされるというのです。お母さんが子供に乳を飲ませないと、大きな病(注:気病みから生じる病)にかかるのです。このように、神様がサタン世界に対して釣りをしますが、餌の使命をするのが皆さんです。
餌の役割をしようとすれば、どうしなければならないでしょうか? 関心をもつようにしなければならないのです。そうするためには、本質が良くなければなりません。味だけ見て、「えいっ!」と言ってしまってはいけないのです。味を見て、いいようなので来たけれど、教会長の味を見て、「えいっ!」としてはいけないのです。そうすれば、神経を遣って来た人たちが、みな出ていってしまうのです。何の罪もない人をつかんで食べたということになるのです。死んだということなのです。来てから何日もたたずにさっさと去っていくでしょう。次に訪ねていけば、会わないようにと先に逃げていってしまうのです。(四七―三三七)
事例5 決めた家以外は行くな
もし皆さんが、孤児として育ったなら、孤児でしかないのです。孤児。未亡人の息子は何と言いますか? 何と言いますか? 父がいなくて育った人を何といいますか? (親のない子供)。「父なし子、母なし子」と言うのでしょう? 母なし子として育った者は、母なし子でしかないのです。ですから兄弟が必要なのです。必ず必要なのです。皆さんは、教会内の大人たちにも侍って暮らし、そうしなければならないのです。分かりますか? (はい)。
今からこのように伝道しなさい。今から伝道する時は……。そうすれば今や皆さんは、そういう神様を好きになり、人を好きになるそういう姿勢をもって、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くす姿勢をもたなければならないのです。その次には、伝道をどうするのですか? 軽々しくせず、重点的にしなさいというのです。今、全世界的に指示したのです。ニューヨークでは、一人が百二十世帯の責任をもったのです。全部私が記録しました。百二十世帯をみな配置して、一年十二カ月その家以外に行かず、時間さえあれば、行ってノックして訪ねていきなさい。そうすれば、十回にもなり二十回にもなり三十回にもなり五十回にもなるのです。そういうものではないですか?
その度数の比例によって、変わりない自分の態度によって、その百二十世帯は影響を受けるようになるのです。これが、今まで検討した結果です。
二十一カ都市伝道過程で、全部実験した結果だというのです。たくさん接触して、心から誠実に接触するその比率が、伝道数の比率に該当するということは間違いない事実なので、全世界に一元化しなければならないのです。英国で、百二十カ国の宣教師たちが集まりましたが、これを指示したのです。
それで、宣教師自身も伝道区域が決められないならば、今からは三十軒なら三十軒を選択して、決めた家以外には行ってはいけません。道端で他の人に会い、その人が三十分間くらいみ言を聞いて「いい」と言っても、流れていってしまえばそれで終わりますが、家を決めて、定着した場を探していくようになれば、三十分語ったなら、それはそのまま残っていくのです。十回会ったなら、十回加えられていくのです。そうでしょう?
街頭伝道時代を過ぎて、重点伝道時代、多方面伝道時代を過ぎ、重点伝道時代に、今集約させる時だというのです。これによって、今は私たちの数が必要なので、不可避的にこういう活動をしなければならないのです。これが先生の指示なのです。一年に十二カ月精誠を尽くせば、百二十軒の中で、十人でも歓迎するようになれば、十人伝道は問題ないのです。そうでしょう? 一軒の一人のおばさんが信じるようになれば、その家で、そのおばさんだけ引き抜いてこないで、その家に入っていけというのです。入っていって、そのおばさんの主人と、息子、娘を集めて、講義しなさいというのです。分かりますか? ですから、「一人が食口になったなら、その一人が私たちの食口だと考えず、その拠点を一家庭の食口として、認定できる基盤をつくれ!」このように指示したのです。
ですから、出張講義をしなさい。自分の主人を教会まで連れてくるのはとても大変なことなのです。一度行っただけでは、絶対駄目なのです。十回、二十回と行って、その婦人が「アイゴー、じゃあ聞こう」と言って、それほど苦心して話しても駄目だった場合、その次に話そうとすれば、何倍もの苦労をしなければならないのです。その心理的作用がそうなのです。
こういうことを見るとき、そういう時間の消耗、それ自体内に消耗せず、そのおばさんの家に行って、出張講義をしてあげなさいというのです。そうすれば、その御主人も、自分の奥さんとは違うので否定はできず、いいこと、聞いたことのない話を聞くので、関心をもつようになり、次第に……。その奥さんも笑みを投げかけるようになるのです。
そうして、統一教会に入ってきて、前より変わっていくなら、そこでは必ずだんなさんが感動して、比例的に感動するので、早い時期に、その家庭を中心に、主人が反対しない限り、一人のお母さんだけきちんと立っている限り、娘、息子の伝道は公式的になされるのです。分かりますか? (はい)。そうして姻戚のはとこがいるならば、何かの祝い事の日とか、還暦のお祝いとか、誕生日に、「みな集めて講義できる時間をつくろう」と言うのです。そうでなければ「いついつの何時に、姻戚のはとこまで全部集めて、食卓でも整えて、招待してください」と言って、訪問したお客さんになって話をするのです。行って、誰が紹介するのかというと、そのおばさんが「ああ、どこどこの教会の責任者ですが、一度聞いてみたくないか」と言いながら、「自分は食口だ」とは言わず、「私が聞いてみるととてもおもしろかったし、私が聞きたい内容がもう少しあるので、もう少し話してくれたらいいなあ。あなた方も一度聞いてみなさい」と言って黒板を持ってくれば、講義室になるのです。こういう活動をしなければなりません。
ですから因縁をもった人と一緒に、そこに入っていって、横的に四方を連結させる、伝道活動拡大を指示してきたのです。家庭を重点とした講義体制で、私たちの教会拡張運動を強化しなければならないというのが、今回先生が世界的に特別指示した内容です。分かりますか? (はい)。皆さんも帰ってそうしなさい。(七〇―一八三)
事例6 集中的な伝道をしなさい
私たちが活動するとき、時間があれば、小便をするのも活動地域に行ってしなさいというのです。休むのもそこに行って休めというのです。他の所で休むなというのです。休む日があれば、そこにけやきの木があれば、その町内のけやきの下で、昼寝をしなさいというのです。犬を吠えさせても、その町内に行って吠えさせなさいというのです。すべてのこと、弁当を食べるなら、そこに行って食べなさいというのです。歌を歌いたければ、そこに行って歌えというのです。とにかくそこに行って主力を成せというのです。
なぜそういった作戦をするのですか。先生が、今まで二十一カ都市、三十二カ都市で、ずっと作戦を立てながら、みなデータを出したのです。「あなた方は、どのようにして私たち統一教会の食口たちにつながったのか? マスコミを通してか?」と言って、新聞、ラジオ、テレビとみな分離して、○×式に全部調査するのです。その次に、自分の親戚が来ているので、親戚が勧めたのか。そうでなければ、統一教会の信者たちに街頭で出会って精誠を尽くされて勧められたのか、何回会って来たのかということを、統計をずっと出してみるのです。集会に参席する人の比率は、二回、三回、回数が多ければ多いほどそのパーセンテイジは上昇するのです。分かりますか? 何のことか。(はい)。
道端で一度会っただけでは、いくら精誠を尽くして会ったといっても、流れていってしまうのです。しかし、それと同じ効果を得たいならば、またそれほど努力しなければならないが、一度会ったその人を家に訪ねていって、通り過ぎる人に精誠を尽くすほどに精誠を尽くせば、それは逃げてはいかないのです。その次の日にまた行って精誠を尽くせば、空の器に水を入れるように、相手の心を満たすことができるようになるのです。
ですから二度、三度、精誠を尽くすようになると、その態度や純粋性や、今現在、米国で必要とする青年らしい青年であることを考えるとき、誰でも感動を受けるので、その若い人が、そのように切実に要求することを聞いてあげざるを得ないというのです。なぜですか? 自分の息子のようでもあり、娘のようでもあるからです。自分の息子、娘はヒッピーになっていて、自分の息子、娘は浮ついて回るような人間になっているのに、天地において、この人は、こんなに純潔でいられるのでしょうか? 「もしこういう人と、私が親しくなることによって、自分の息子、娘までも教化させることができる一つの道があるなら」と考えるようになれば、全部同意するようになるのです。それは、必ず関心をもってこの若者の誘いに乗るのが普通です。これは統計による決定的な事実なのです。分かりますか?
ですから、散発的な伝道を止揚して、集中的な伝道をすると、決定的です。ですから、どれほど人に多く会うか。これを確定して、科学的なデータを使ってみれば、間違いない事実として現れます。
ですから、毎日三時間以上は、現地に行って、消耗しなければなりません。三時間の間何をするかというと、行ってベルを押したなら、「私、また来ました。おばあさんいますか?」と言いながら、別に話はするなというのです。
「なぜ、こんなに毎日のように来るのか?」と言えば、「おばあさんが、私のおばあさんのようで会いたくて来たのです」この一言でいいのです。こうして、そういう因縁を結ぶようにして、講義をするときは、多くの講義をするなというのです。五分講義しなさい。少したてば、十五分。十五分以上はするなというのです。そうして毎日行って、こういうふうにして因縁を結ぶのです。
その次には、いい人はすぐ……。一度回り二度回るようになれば、大概ある人、どんな家が良く、どんな家が悪質なのか、みな分かるのです。ある家は既成教会の側で、といいながら、ABC……グループに分けておくのです。ですから、反対するような所には行かず、私たちを歓迎する家に行くのです。家に行って、皆いれば、「おばさん、私、来ました」と言って、炊事場に行って掃除もしてあげ、御飯も作ってあげ、こんなことをしなさいというのです。それは、人の家ではないのです。こうして、自動的に回しておく、こういう作戦をしなさいというのです。今は、このように展開していくのです。(七二―五一)
事例7 子供たちを通して伝道する方法
私は清平で、魚捕りもたくさんし、洲の中で、かに捕りもたくさんしましたが、大したことはありません。駆り立てるのですね。駆り立てなければなりません。駆り立てるのですね? (はい)。駆り立ててみたことがありますか? 昔は、網が小さく門が小さくて、うさぎの子が飛び越えていったので、その門に入っていかなかったので、伝道されなかったというのです。今は門も大きく、網も大きいのに駄目だというのは、追いやれないから駄目だということなのです。そうでしょう。(はい)。さあ、追いやる自信がありますか? (はい)。自信がありますか、何で追いやるのですか? 何でですか? 考えで追いやりますか? 考えで追い、こぶしで追い、目で追い、鼻で追い、足で追い、そのように追いなさい。
皆さんは、伝道しようとすれば、子供たちの童話を研究しなさい。それが一番近い道です。町内の子供たちが三人集まれば、おもしろい童話の話をするのです。おもしろい昔話をしてあげるのです。こうしておいて、御飯だけ食べれば「お母さん、どこどこに行ってくる」と言って教会に集まってくるのです。三十人くらい、お母さんが悪口を言っても泣いてでも来るようにしておけというのです。その次には、間違いなく、お母さん、お父さんがついてくるのです。分かりますか? (はい)。教会が遠ければ遠いほど、もっといいというのです。そうすれば、町内のたんぼ道を行って、落ちるのではないかと、ついてくるのです。それはそうだというのです。
そのようについてきて「ここの教会の先生が、どんな人か分からないけれど、私たちの子供が、お父さんよりも好きになり、お母さんよりも好きになって……」と言えば、「ああそうですか、一度いらしてください」と言って招待し、両親を座らせておいて、子供を褒めてあげるのです。「あなたの子はどうだ」と言い、「見かけはこうだが、お父さん、お母さんよりいい顔をしている」と言うのです。「まず、顔つきもいいし、性格的にもしっかりしている」と言いながら、一通り褒めれば喜ぶのです。褒められて嫌がる人はいないでしょう? 皆さんもそうでしょう。明らかにそうでないことを知りながらも、褒めてあげれば、気分がいいのです。そうでしょう。そうではないですか? 息子を褒めてあげればみんな喜ぶのです。こうしておいて、その子の性格を全部分析しておき、「子供はこう教育し、こう教育し、こう教育しなければならないと思う」と言いながら、「ゆえに、こういう話もし、お母さん、お父さんも今後こうしてあげなければならないだろうと思う」と、「今まで、そうしてきましたか」と聞くのです。そうすれば顔が赤くなるのです。その次には、「なぜできなかったのですか、なぜ今までできなかったのですか?」と言うのです。その時は、くずした話し方で話してもいいのです。「姿が、私の姉さんのようだ」と言いながら、「私が子供のころ、私の姉さんに、いたずらもし、意地の悪いこともよくしたが、奥さんは、私の姉さんのようだ」、こう言ってから、話し言葉で、「これじゃ駄目だよ」と言うのです。そうすると、笑いがこぼれるのです。そう親しむのです。それでも嫌ではないのです。褒めたことより悪口を言ったほうが、何分の一にしかならないので、褒めた度数が、埋め合わせられるのです。そう言いながら、「こういう面でこう指導すれば、この子が、将来この町内を指導できるだけではなく、この国に必要な素晴らしい[徳望之子]になりますよ」と言えば、「これからは、そうでしょう」と言うのです。その時、「では、私があなたの家を監督する」と言えば、「ハッハッハッ」と言うのです。
「監督する」と言ったので、その次には、訪ねていくのです。それが伝道です。訪ねていって、部屋に入っていき、「御主人さんを紹介してください」と言って、主人を座らせ、奥さんを引っ張ってきて……。伝道はそのようにするのです。(七三―一三〇)
事例8 考えが行き詰まっては伝道はできない
考えが明確になってこそ、行動が起こるのであって、考えが行き詰まっては、伝道できません。なぜできないのですか? 例えば町内の犬がワンワン鳴けば、わざわざ行って「この犬がこうだから、この主人も悪いんだ」と言うのです。そうすれば、主人が出てくるでしょう。そういう時には、恥ずかしそうに「アイゴー、失礼しました。あなたのような方の犬の悪口を言って。犬はそうですが、御主人は百倍も紳士ですねえ」(笑い) と言えば、悪口を言おうと近づいてきても、笑いがこぼれて、友人になるのです。
また、時には、庭に牛がつながれていたら、その牛に乗って、町内に入っていくのです。(笑い) それが伝道なのです。私が綱をほどいたのを誰も見ませんでした。ですからさっと乗って入っていきながら、「ああ、この牛は、誰の牛ですか?」と言うのです。町内で、「ある田畑に行って、人の穀物を食べるので、私がこの町内の牛だと思って、乗ってきました。誰の牛ですか?」と言うのです。そうすれば主人が出てきて「ありがとう」と言うのです。こうして、夕方になれば御飯をもらって、伝道もするのです。
そういう時に言うことは、うそも、うそではないのです。作戦上、便宜上、方法上そうしてみるのです。人間の世の中を調査して記録を残すため、一度してみるのです。そういったとして、神様が「罪だ」と言いますか? そうして主人に、いい言葉をかけて、利益になるようにすれば……。利益を与えるのは、うそを言っても絶対罪にはなりません。損害を与えれば、罪なのです。
さあ、それでも伝道できませんか? これは網をたくさん編んだわけですが、なぜ伝道できないでいるのかというのです。町内に若者たちがいれば、「さあ来い」と言って、鉄棒もし、バーベルもするのです。早朝ごとに、「エイ、ヤー、エイヤー」(行動で示されながら)一人でしていても、若者たちは運動が好きなので、集まってきます。山から、聖地のような所から、五坪くらいでも土をならせば……。それをするのに、お金はいくらもかからないでしょう。そうして、何人かになれば、「エイ、ヤー、エイヤー」と言って、町内を回りながら、鉦を打てば、集まってくるのです。そうして教会に連れてきても運動するのです。伝道はそのようにするのです。教会でだけ伝道するのですか? まず、お互い親しまなければなりません。人同士が、親しまないといけないのです。みな、親しくないといけないのです。そうでしょう? 海では、海を中心としてもできるのであり、山に行けば、山を中心としてもできるのです。
ところで、なぜできないかというのです。ただ、うずくまって、目をぱちくりさせて、空想ばかりしていて、伝道ができるでしょうか? 二十四時間休まず、歩き回ってみなさい。虎も夕方四十里回りながら活動して、餌を探すのですが、神様のみ旨を成すという人が、座りながら来るのを待っているのですか? サタンの子たちがそのままほうっておくでしょうか。とんでもないのです。初めて会った人と、どのように十年、一生の間会ってきた友人よりも近い友人になるのか、それを研究しなければなりません。先生は、伝道をそれほどすてきにするのです。ですから伝道活動もそうなのです。歩いていく人を倒しておいて、起こしてあげながら、あいさつをし、そうするのは、若い時代に通じることなのです。そうなのです。(七五―一三二)
事例9 人間と人間が親しくなければならない
さあ今からは、一九七五年、きょうは何日ですか? (二日です)。おしい、黄金のような一日が過ぎてしまったのです。ですから、今から帰れば、町内の人たちが、夜も寝れないように問題を起こしておけということです。そうしないと、その木ででも、眠りに落ちている町内に、二十四時間、一年間でも火をつける計画でも立てなさいというのです。腰かけて、芋でもさつまいもでも焼いて、行ったり来たりする人に「一つずつ食べなさい」とあげれば……。さつまいもを買うのに、お金はいくらもかからないだろうというのです。さつまいも一かますに、いくらぐらいかかりますか。いくらか買って包んでおいて、焼いて、「さあ、お食べなさい」と言うのです。それも伝道なのです。焚き火をして、芋を焼くのは、どれほど楽しいでしょうか。「アイゴー、熱い」と言えば、「熱いことは、熱いけれど、今薬用酒を飲むのだと思ってみてください」と言うのです。
伝道方法はいくらでもあります。それをしてみなさい。それはいくらかかるでしょうか。さつまいも、安いでしょう。(はい)。ひと月に一かますずつ焼いて食べさせてみなさい。(笑い) その町内はどうなるでしょうか? 「アイゴー、うちの町内が良くなるように、ああいう聖人が来たんだなあ」と思うのです。そうすれば、夕飯を食べるのに、その町内の人たちにさつまいもを焼いてあげたので、私が代わりに夕飯を食べることができるのです。夕飯の時間になれば、さつまいもを焼いてあげた人の家に行って、御飯も食べられるのです。冬になれば、焚き火にあたってから、すぐ教会に行くと部屋が寒いので、「お宅にちょっと泊めてください」と言うのです。さつまいも一つあげても、いくらでも行って寝ることもできるではないですか。行って泊まれば、朝御飯をよく食べ、おばさん、おじさんを集めて話をし、伝道方法は、いくらでもあるのです。
また、早朝ある家の門の前に行って、牛を土手に行って食べさせる時間が過ぎたのに主人が出てこず、牛が「モーモー」鳴きながら、御飯の時間が過ぎたというなら、さっと引っ張っていって、食べさせてあげるのです。そうすれば主人が出てこないはずがあるでしょうか? 出てくるのです。そうすれば、「小屋で一人主人を待つ牛がかわいそうで、私が今、食べさせてあげています」と言えば、主人が友人になるのです。さあ、なぜ伝道ができないかというのです。伝道がなぜできないのですか。
「商いの日」には、ただぼーっとしているなということです。商いの日になれば、伝道しようとする人と約束がなければ、商売している所に行けというのです。市場が遠ければ遠いほどいいのです。二里なら二里……。おばさんが行けば、「おばさんについていく」と言いながらついていき、その次には、話の中で、いい話をしてあげるのです。いいならただついていきながら……。それが伝道です。町内で、この人はと思う人なら、昼食の時、間違いなく会おうと約束するのです。そうして会って昼食をおごってあげるのです。うどんがいくらですか? 何百ウォンですか? それが、生活費に支障があるなら、うどん一杯おごってあげて、夕食は食べるなということです。もったいなくても……。それが福になるのです。人のために昼食を食べさせてあげ、生活費に支障があって夕食を一食食べなかったなら、神様が福を下さるのです。間違いなく福を下さるようになっています。善なる霊人たちが、必ずその人に感動するのです。昼食を食べ、その次に一回りして、夕方になれば、「涼しくて気持ちがいいので、見学を一度しよう」と言うのです。お金がなくても田舎の劇場に行けばいくらくらいか、このごろは安いでしょう。
そうしておけば、その次には、その家に行かなくても、「来い」と言うのです。「来い」と言えば、行ってその時には、他の話をするのではないのです。その町内に必要な話をし、その人に必要な話をするのです。統一教会を信じろという話はあとでしてもいいのです。原理講義をみんなしておいて、最後に「これが、統一教会のみ言だ」と結論を下せばいいのです。統一教会の看板をつける必要もないのです。話し終わってみると、「おもしろい話を聞いた」と言うのです。「ああ、素晴らしい話をするなあ、これはどこで習いましたか」と言うのです。そうすれば、その時「あなたも私よりもっと素晴らしくなれる、何か不思議に思う時、統一教会に来れば、こういう内容が多いので、全部教えを受けることができる」と言うのです。そうすれば、自然と動くのです。人間対人間が親しくなければならないのです。分かりますか、何のことか。(はい)。どんな方法を使っても行くことができるのです。なぜ駄目だというのですか。(七五―一三三)
事例10 問題を起こせ
私が、今回ヨーロッパに行って語ったことは、「問題を起こせ、私が刑務所に行ってヨーロッパ全体に、うわさを起こしてもいい。その内容を見て、ああ、そういう方法もあるなあという人が、半数を占めればいい。うわさを立てろ、うわさを」と言いました。先生もうわさをよく立てたでしょう? 「統一教会は、裸で踊って、踊りを踊る、異端だ……」。アメリカでもそうなのです。ですから私が「反対派がいなければ駄目だ」と言ったのです。反対派がいないとおもしろくないのです。反対派がいてこそおもしろいでしょう? お酒を飲んでも、見物する人がいてこそ、おいしいのです。そうでしょう? 一人で高級酒を飲んでも、見物する人がいないと……。こちらで「ぐっ」と飲めば、あちらでも「ぐっ」と言ってこそ、酒を飲むにも気分がいいでしょう?
同じなのです。仕事をするにもそうなのです。刺激を受けようとすれば、反対派がいないといけないのです。私は、既成教会が反対しなければ、統一教会は大変なことになると考えるのです。反対するので、がむしゃらに体面ばかりでなく、威信を立て、負けまいとするのであって、反対がなくなれば、みんなゆでた大根のように、かささぎが来て、いつでもつついて食べてしまえるというのです。
皆さん、考えてみてください。皆さんをじっと見てみてください。皆さんに汚れた心がありますか。世間に出て、人のように戦い、堂々と大きいレンガの家を建て、がむしゃらに暮らす自信がありますか? ありますか、ありませんか? ないでしょうというのです。見ると、たくみにおぼれて……。そういう者たちではないのですか。その代わり町内で、「あの人は良心的だ、間違いない」ということは、公認されるのです。そのようにうわさを立てれば、皆さんが悪いことをしたといっても、信じられないのです。
今、アメリカでもそうなのです。私たちの統一教会の人たちに会ってみると、とてもいい人たちなのです。ですから、悪いうわさが起きても、それを信じないのです。ある時は、何がどうしてどうしてと言い、興奮して来て、「この人たちに神様が天罰を与えたらいい」と言うのです。神様が天罰をなぜ与えるのですか。彼らが、そうでないといけないのに、罰をなぜ与えるのですか。絶対罰を与えないのです。罰を与える者たちは、(愚かな)人なのです。
宗教というのは、反対を受ける時に発展するのです。今まで宗教が、反対を受ける時は、必ず発展したのです。そうでしょう? (はい)。しかし反対がない時には、滅びるのです。分かりますか? そうであるならば、今から大韓民国が統一教会を支持し、反対しなければ、統一教会が滅びるのでしょうか? その時にはどうしますか? その次には、私が攻撃するのです。その時には、私が攻撃するのです。そうすれば滅びないというのです。今までのように、このまま続けたなら、そのように行けば滅びるけれども、私が休む間もなく二十四時間攻撃し、前進すれば……。
アメリカでもそうです。今まで、アメリカで学者たちが、反対がないので「アイゴー、死にそうだ」と言っているのです。ですから、その時には攻撃しなければならないのです。攻撃作戦ができないと、滅びるのです。攻撃を受ける時には、しっかり基盤をつくり、攻撃しなければならない時には、無慈悲にしなければならないのです。ですから、攻撃したのです。「言論界と闘争しろ。新聞社に行って戦え。行って、下の部下のような者に会うのでなく、編集局長、長に会え。会ってくれなければ、行って待っていろ。便所についていって待て」と言うのです。
彼は、シカゴ市長を二十五年した有名な人なのです。会ってくれないのです。その人は、民主党の資金を調達して、監獄に入ったのです。昨年「話を聞くか、聞かないか」と言って特攻隊を送ったのです。便所で見張っていたのです。そうでないと、そこに行って正門で待ち、家で待ち、どこに行っても全部……。秘書と組んだのです。秘書に「市長はどこに行きますか」と聞くと、「どこどこに行く」と言うので、その場を見張り……。さあ、ですから、会わないわけにいかないのです。その次には、激しく攻撃するのです。何で会ってくれなかったのですかと。民主主義世界は良いのです。人の人格を無視し、空の器を与え……。言いたいことをみんな言ったのです。少しずつ。そうして親しくなるのです。そうして前回行ってみると、祝電を送り感謝状を送ってきたりもしました。そういうことが起こるのです。そうするようにするのです。なぜできないかというのです。なぜですか。(七五―一三五)
事例11 伝道する方法はいくらでもある
伝道する方法はいくらでもあるのです。原理講義だけをしないといけないのですか? ラッパを吹くこともでき、道端でけんかもできるのです。けんかが伝道なのです。そうして人を集めて、その人が間違ったことを……。私が間違っていますか、正しいですか? 正義に立脚した証拠を提示しておいて、人は正義のために暮らさないといけないのです。この国の青年をかけて、この国の指導者たちをかけて、どれだけでも話ができないかというのです。なぜただ座っていながら「人がちょっと原理のみ言を聞きに来てくれたらいいのに」。これは何ですか。そうしては来ないのです。
そういう時には釣りにも出かけ、ハドソン川のような所に行って鯉のようなものを釣り、こういうことをしながら誰かが見物するようになれば、「プレゼントだ、持っていけ」と言って、伝道もできるのです。こういうほうが、むしろいいというのです。特に女性なら、大きな魚を釣れば男性たちを呼んで「アイゴー! 私は捕まえ方を知らないから、これ、ちょっと手伝ってください」と言えば、全部来るのです。そうすれば、「よし、おれも一度釣ってみるか」と言うようになり、そうすれば、すぐ友人になるのです。そうすれば、夕方私が、「うちに招待するから来い!」と言えば、「来るな」と言っても来るのです。
女の子たちがオートバイに乗ります。ブーン。君たち、オートバイに乗れるだろう、オートバイ? (笑い) 気分がとてもいいではないですか。どれほど気分がいいか、やってみなさい。そのオートバイ商店に行けば、若者が多いけれど、そこに座って、「あなた、オートバイによく乗れますか?」「何マイル走れるのか?」と言えば、偉ぶって、「私は百マイル、百五十マイル走れますよ」、「一度乗ってみよう!」といくらでも言えるのです。それが伝道です。
伝道するために、ある食堂に行けば、初めからカルビのようなものを買っておいて、お客が来れば……。それが伝道です。どれほど笑えるでしょうか、器をカンカンならしながら……。(笑い) その次に食べてからは、さっと高い所に上がっていって、こうすればみな注目するでしょうか、注目しないでしょうか。「お前たちは、この狭い空間で、私の作戦に完全に引っかかった」と考え、「ホホホ」と笑うのです。(笑い) 「ここに参席した人は、私に注目しない人は一人もいなくなる」と思って、一度にそうすれば、どれほど注目されるでしょうか。一度にできるのです。そうですか、そうでないですか。成功できますか、できませんか? (成功します)。そうすれば、聴衆が「ハッハッハッ」と言えば、その時はおとなしく……。(笑い)
さあ、これだけで終われば、おもしろくないでしょう? つまらないでしょう? 私がもう一度話しましょうか? 「はい、はい」こういうふうになっているのです。そうすれば、人間の問題を聞いてあげ、関心をもてる内容をつくって、そこからいくらでも原理講義もでき、説教もできるのではないかというのです。そんなとき、太った人がいれば、私がある時どこどこに行ったが、こういうふうに太った人は、どれほど……。そう歩き回るのが普通だといいながら、でもあなたはやせているほうです。そのように冗談も言いながら、いくらでも言えるのです。伝道はそうするのです。
また、学校の校長先生のような方に会いに朝早く、校長室に訪ねていって、「ああ先生! 私は先生にいついつ会った者ですが、私は先生の弟子かもしれません」と言い、そうでなくても、そう話すのです。私は先生に教えを受けた弟子かもしれないと、四日だけ訪ねていき、そう言えば、自動的に親しくなって、その事務室に自然に入っていけるのです。なぜできないかというのです。作戦はいくらでもあるというのです。作戦がないと伝道ができないのであって、なぜできないかというのです。(七七―二五)
事例12 三食の前に三人伝道
こういう作戦も立てられます。
さあ、御飯を三食食べる時です。朝食を食べるまでに一人に話をし、昼食を食べるまでに一人に話をし、夕食を食べるまでに一人に話をして、一日三人に間違いなく話せというのです。そうしなければ、食事をしてはいけません。こういう運動もしなければならないのです。そう決定すればどうでしょうか。御飯を食べるのは、何のために食べるのですか、体に肉をつけるために食べるのですか、み旨のために食べるのですか?
み旨のための時間を、朝便所に行く時間よりもたくさん取らないといけないでしょう? 昼食を食べる時間よりもたくさん取らないといけないでしょう? そうですか、そうでないですか? そういう運動をしなければならないのです。そうなれば、どうなるでしょうか? 食前に門前に行って。御飯、朝御飯! アイゴー……。朝、食べる前に、山でも見に行って、誰かに会って、食事の時間まで話をしないといけないというのです。そうすれば、健康にもいいし、みないいでしょう? そうせずには、御飯は食べるなというのです。深刻なことです。朝も昼もしなかったなら、夕食の時食べて、二食は食べずにいろというのです。そうすれば、しないでしょうか、するようになるでしょうか。こういう運動をしなければならないのです。
そうすれば、神様がそれをよくやったというでしょうか、駄目だというでしょうか。ゆえに、統一教会の信者たちは朝は、当然食べられないだろうというのです。伝道できないと食べられないでしょう? 伝道しに行って、もしおなかがすくなら、車を止めて、人がいる所に行って話をすれば、車に乗っていって昼食でも食べられるようになっているのです。こういう訓練をしないといけないのです。車に乗っていっても、車を止めておいて、人に会って、話を十分でもして、昼食を食べる準備をしないといけません。こういうこともしないといけないのです。こういったことをしてみますか、しないでおきますか? (しましょう)。これを皆さんからしなさいというのです。まず責任者からしなさい。この責任者がそうしないと、偽者なのです。
ゆえに、早朝に起き、散歩に行きなさい。朝行って食事をする前に、話をしに、散歩に行きなさい。食事は自分と同じ場に座る人がいる場合があるでしょう? この四位基台で、天的条件を立てて食べようというのです。朝食をしようとみな座っていればです。食事をしなければ連れて出て、人に会って帰ってくる順番に食べるように訓練するのです。そうして食事をしなさい。どれほど気分がいいでしょうか? 大したものでなくても消化がよくされるのです。おなかが痛かったり、そういうことはないのです。そうしたことをこれからするのです。(はい)。何年からは、そうしないと責任量を完遂できないのです。今回帰っていけば、帰ったその日から、夕方帰れば、その夕方から始めるのです。
皆さん、住所氏名を書いて、統一教会に関することを全部書いて、職業紹介所だとか、相談所だとか、ある個人相談ができるとか、何かを書いておいて、来る人ごとに一枚ずつ分けてあげなさい。電話番号を書き、それを全部持って街に出て、会う人に対し、「あなたの顔を見ると、何か心配事があるように見えますが、これを見て私を一度訪ねてください。相談してみましょう」といくらでも話せるのです。おかしな話が好きな人がいれば、「あなたをそれよりもっと楽しくしてくれる人を私がよく知っていますが、紹介しますから、一度訪ねてください」と言うのです。そうでもして一言言って、御飯を食べるそういう運動をしないといけないのです。次に来る時は、全部そういう、名刺を作ってきて、私に見せてくれないといけません。分かりましたか?
さあ統一教会は、全国的にこういう運動をしないといけません。全部ネームカードを作って、それをあげながら訪ねていきなさいというのです。そうすれば、訪ねてくるのです。各自の名刺を持って、「統一教会、何の責任者の誰々です」と言って。相談に乗るといって、全部書いて、何に優れた者だと後ろに書いておくのです。ビラと同じなのです。私たち、統一教会の信者なら、全部これを持たなければなりません。全部こういったことをしないといけないのです。分かりますか、何のことか。分かるのかというのです。(はい)。
そうして、伝統を立てるのです。時間は長くなくてもいいのです。十分や十五分に、これをみんなしないといけないのです。十分か、十五分に……。そうして「もっと知りたければ、私の所に来なさい」と言うのです。「次に会おう」と言って与えるのです。こういう運動をしないといけないのです。分かりますか?
そうすることによって、横的に連結される数が、朝、昼、夕と数えて一カ月なら何人かというと、三×三十全部で九十人なのです。九十人と語ったことになるのです。その人たちにカードをあげながら、「名刺でも一枚下さい」と言ってです。その次には手紙を書くのです。見なさい、通信でも募金運動をするのに、一パーセント、二パーセント、五パーセント来るのに、ここに一人も引っかからないというのですか。いや、手紙よりも、話を十分、二十分、三十分するのに……。考えてみてください。
伝道は食事の前に、十分ずつ出ていってしても、三十分くらい出ていってしても一カ月に一人は問題ないという結論が下されるのです。おなかがすいて御飯を食べたければ、通り過ぎていく人たちに、「ちょっとお話ししましょう」と言って近づき、「あなたの顔がいいので、一度見たくて声をかけました」。そうしてあいさつをすれば、食事までできるようになるのです。(笑い、拍手) あるおばさんに、そう声をかけるならば「あなたが、私のおばあさんに似ているので声をかけました」と言うのです。そうすれば嫌がるでしょうか。「ああ、そうですか」と言うのです。私のおばあさんのようなのでそうしたと、手を取って、「こちらに来てください」と言えば、みなそう……。そうなっているのです。
一カ月に一人伝道できませんか? アメリカを生かし世界を生かし、神様を生かすことでもあり、先生が、今こうして一日中話しながら、皆さんに、心からお願いしますが、それができませんか? できないと思いますか? (できます)。
今は、方法が分かるでしょう? 方法が分かりましたか? (はい)。やってみなさい。帰ってすぐするのです。(はい)。こういう風を全国的に起こせば、どれほど素晴らしいかというのです。
そうすれば、三万人以上伝道するのは、問題ないと私は思います。こう組織すれば、会社に通い、職場に通いながらも、いくらでもこれを成していけるというのです。いくらでも。……皆さん、門だけ開ければ、人がどれほど多いでしょうか。夜も昼もなく行ったり来たりするのに、なぜできないのですか? 一人を伝道して、一日に百食も食べることができるでしょう。(笑い) 「できない」と言うなというのです。私には通じないのです。
皆さん、これから帰るのに、地下鉄に乗っていってもです。伝道する人の所に行って、押しつけるのです。そうしておいて、こうして……。(体で表現される、笑い) それはいくらでもできることなのです。とにかく、いくらでもできるでしょう? それが罪になりますか? 神様が御覧になって笑うでしょう? 「やあ、こいつ、よくやるなあ」そう言われるでしょう? 「駄目だ」と言われるでしょうか。(笑い) 方法はいくらでもあるのです。一日に百人でも。私なら、百人でも会います。百人、それができませんか? 答えてみてください。それは易しいですか? 難しいですか? 駄目ですか? そうするのです。
さあ、こうして細胞組織、こうして、「やあ、私のような人を一人つくれば、コンビだけつくれば、二人でまたつくり、こうして十二人を私がつくって、会社に通いながら、七年間に八十四人は問題ありません。これは眠りながらでもやらないといけない」。こういった考えをもちなさい。それは、寝ながらでもすると考えなさい。
私たちの公式路程で、七年路程を行かなければいけないということを知っているでしょう? 一カ月に一人ずつ伝道すれば、一年に十二人なので、七年伝道すれば、八十四人になるのです。八十四人とは何かというと、イエス様の十二人の弟子と七十二門徒、この二つを合わせた八十四人なのです。イエス様がこれだけしていたなら、地上天国を成したのであって、死にはしないというのです。八十四人いれば、十字架に死んでいくでしょうか? ゆえに、地上天国を成そうとすれば、イエス様より優れていなければならないのです。(八九―三〇七)
事例13 近い友人や親戚のように対せよ
皆さんは、自分の地域で簡単に、特別な何かをしなさいというのです。鐘を一つ持って、夜十二時に打って回るとか、何かをしなさいというのです。起こそうと、ラッパを吹いて回るとか、そうでなければ、門をたたいて回るとか、何かをしなさいというのです。夜十二時になれば、どこに行っても一カ所に集まり、何をしてでも、有名になれというのです。
その次には、人が多い所に行って、講演もするのです。冗談も言ってです。友人になり、相撲もするのです。公園のような所に行けば人が多いので、二つに分けて、勝負もしてみるのです。こうして、押しのけ、殴ったりもしてみるのです。臨時に、こういった環境をつくって、百人でも二百人でも、全部指導して、運動するのです。じっと座って遊んでいるより、そうやって、好きなことができます。なぜできないのですか、なぜできないかというのです。全部そうすればいいのです。
そうして大衆を、私がどのように吸収できるのかを考えないといけないのです。できれば、その家に行って泊まってこいというのです。親しくなっては、「やあ、私は、お前が気に入った。お前は、自分の親戚のようで自分のいとこみたいなので、思い出したついでに、お前の家に行って一度泊まりたい」と言うのです。(笑い) そうすれば、なんやかやと言うでしょうか。好きだと、親しくなろうというのに、兄さんのようだというのに「来るな」と言うでしょうか? 一晩寝てから、早朝に起きて、庭を掃いてあげて、掃除を全部してあげるのです。そうすれば、「また来て、一晩泊まっていけ」と言い、「一週間に一度ずつ来て、泊まっていってくれ」と頼まれるようになるのです。そうだというのです。それがみな作戦なのです。
また、物を買いに行っても伝道するのです。何か一つ買えば、冗談を言うのです。「あなたの顔はとても美人だ。美人のような顔だ。私の妹に、とても似ているんだけれど」こう言うのです。自分の妹のようであり、自分の親戚のようでもあり、自分の親しい人に似ているというのに、「嫌だ」と言うでしょうか。見守ってくれるのです。「妹が思い出されるが、きょうこうして、妹のような人と偶然に会えてうれしい」と言うのです。そうして、「昼食を一度一緒にしよう」と言うのです。
こうなれば、「あなたは、誰だ」と言うのです。気がかりになるようになっているので、知りたがるのです。自分の家について、自慢をするのです。家に連れてきては、「私たちの家には、文先生がいて、こうして暮らしている」と話してあげるのです。全部話してあげるのです。その次には、土曜日に、「あなたのお母さんお父さんを、私たちが招待するからどこかいい所に遊びに行こう」と言って、乗せてブーンと行くのです。それがみんな作戦なのです。
これが多様でおもしろいのです。そうしてみれば、人はどうということもないのです。自分の損害にならず、必要なので「友人になるな」と言っても、友人になるのです。皆さんは、それを考えなさいというのです。ただ、ここに来て座れ! 創造原理! こうすれば、伝道できるものでしょうか? (笑い) それよりも、鼻をつかんで冗談を言い、「こいつ、こいつ」と言いながら友人になるのです。一、二時間に、二日、四日に、十年来の友人のように、親しくなれないといけません。
それを、どうするのでしょうか? 年の多い人なら、「年の多いおじさんのようであり、おじさんの背中、かっこいい」と言いながら乗っかるのです。「私のおじさんの背中とそっくりだ」と言いながら「一度乗っかってみたい」と言うのです。そうすれば、どうしますか。(笑い) 好きで乗りたいというのにどうしますか? そこで怒るでしょうか、にぎりこぶしでぶん殴りますか? (笑い) このように多様にするのです。そうではないですか?
目をパチクリさせながら、「誰か来るかなあ、伝道に行ってこないといけないかなあ」と座ってばかりいれば、全く……。(笑い) 男性は冒険をしないといけません。ですから、うちの孝進も、馬に乗ったり銃を打ってみたりするのです。お母様は、彼がお父様に似ているというのです。(笑い) オートバイに乗ったり、全部するのです。お母様は心配でたまらないのです。でも、することは全部しないといけないのです。そうしてこそ大きくなるのです。こんなふうに、本に挟まった虫のように細々としていてはいけないのです。
そうして、やるとするならば、私は十年間にすることを三年間でやってのけるのです。そうできるのです。では、どんなのがいいですか? 本を何ページか覚えて、べらべら言うより、外に出て、町内が騒がしくなるほど声を出す青年が必要なのです。今、それが分からないといけないのです。ですから皆さんも、そうならないといけないことを知らなければなりません。分かりましたか? ちょっと奇抜でないといけません。(九四―九七)
事例14 模範的な生活をせよ
行って教授たちに会えというのです。今は「科学の統一に関する国際会議」のために熟しているので、いくらでも会える風土が成されているので、行って会えというのです。行ってあいさつをしなさいというのです。有り難いとあいさつをし、「アイゴー! 教授は私のおじさんのようでもあり、お父さんのようでもあります」そう話をしてあげるのです。そうでなくても、「私が一人で外地に来ているので、おじさんも懐かしいのですが、おじさんのような教授の家に訪ねていくので、冷遇しないでください」と、笑いながら冗談を交えて話すのです。
ゆえに、皆さんは訪ねていってすぐ伝道する必要はないのです。親しくなるのです。親しくなればいいのです。そうすれば、「君は、なぜここに来ているのか? 何しにここに来たのか?」と言うのです。そういう時、「私が、なぜここに来ているかということを、あなたが知れば、あなたの息子たちも私と親しくなって、私と同じような人をつくるようになるかもしれないから話せない」と、いくらでも話せるのです。こうして、大変気がかりな材料をつくっておけば、来れば、話してくれというのです。そうして、その人に対して自分が責任をもつから話してくれといえば、話してあげるのです。
そして、その娘が幼稚園に通っているといえば、幼稚園に行ってみるのです。「おじさんが、とてもいい方なので、その娘がどういう子か会いたいのです」と言って、訪ねていくのです。そうして先生に会って「誰々教授の娘さんは、どの子ですか」と言って会って、「私はあなたのお父さんに会った」と言って……。その次は放課後に、さっと連れて帰ってあげるのです。それを何回かしてみなさいというのです。さあ、教授が「なぜ子供を連れてくるのか」と聞く時、「私は、先生の娘さんが好きで、息子さんが好きなので、子供さんたちのことがしきりに思われてそうしました」と言えば、嫌がる人が、どこにいますか? 「本当に善良ですね」と言うのです。やってみなさい。
ましてや男性なら、アメリカでは、車を直す技術だけあれば、伝道を大変たくさんするだろうというのです。その町内である車が故障したといえば、走っていって、直してあげるのです。一度さっと直してあげれば、完全に親しくなるというのです。そうしておけば、「誰々が車をよく直せるよ」と言って、車が故障したりすれば、呼びにくるというのです。その次には水道の栓も直せるし、電気も直せる……。みなこう言うのです。ある家に行くためにはそれがとても必要なのです。作戦上、一番必要なのです。
女性なら、編物のようなことをして、おもしろいものを作ったり、リボンのようなものも作ったり、帽子もかぶってみて道端で、学生たちに会い、あいさつをするのです。「どこの学校に通っているのか?」と言えば「高校に通っている」あるいは「どこどこの大学に通っている」と言うのです。そうして帽子を見て、「あ! この帽子……」そうすれば「そう? 一度かぶってみなさい。この帽子かぶると随分似合うねえ。私が一度作ってあげようか?」と言うのです。それは、いくらもかからないのです。次に、作ってかぶせてあげるのです。そうすれば友達になるのです。
先生は、靴下も作れるし、帽子も編めるのです。分かりますか? (はい)。ベンツのようなものも、私が一人で造れるのです。み旨のために、こういうことをするために、みんな準備してきたのです。分かりますか? 何のことか。(はい)。
その町内に行って、どこから手をつけたらいいかということは、一度さっと見れば、みんな分かるのです。この町内の者だといいながら……。私が、どんな教会に行っても、名も言わず、変装して入っていき、六カ月もあれば、その教会をひっくり返すことができます。そういったことは問題ないのです。六カ月以内に、間違いなくひっくり返すのです。それをするにはどうしたらいいのでしょうか? 全部生活から成していくのです。生活するのに指導者になり、生活に感動を与えることができるところから始めてこそ、それが安全だというのです。
先生は、写真の額のようなものも作ることができます。避難して、米軍部隊で、八カ月の間、大工の仕事をしたのです。それは習ったものではないのです。経験をたくさんしたので、すべての理論より先立つのです。普通の人は、専門家の三倍努力をすれば、ついていけるのです。彼らは早くしますが、私は精誠を尽くしてゆっくりするのです。
私が工場に行くと、工場を全部見て、指示するのです。そう訓練しました。見ることは、そのように見て回り、すべての事実が、理論に合うように訓練されています。何のことか分かりますか? (はい)。
生活の手本となりなさい。遊んでも友人になり、生活するのに友人になり、その次に、勉強するのに友人になり、旅行するのにも友人になり、狩りに行けば、狩りに行って友人になり、海に行けば、海に行って友人になり、農業をするなら、農業をしながら友人になれというのです。こうして、すべての分野で友人になれる能力があれば、理論的に説得する能力だけあれば、すべての分野の人をいくらでも引っ張って集めることができるのです。先生はそう考えるのです。そういう影響を与えようとすれば、自分がもっと勉強しないといけないのです。習うことにかかっているのです。勉強しに行って親しくなるのです。これを教えてくれといって……。
ですから、人と多く接触しなさい。そうしながら、その人が自分の深い秘密を話し合える場まで行けば、その人は「伝道するな」と言ってもいくらでも伝道できるのです。先生の学生時代にも、友達が全部自分の秘密を、私に話したのです。先生は、そういった秘密を、守ってあげたのです。そして解決方法を教えてあげたのです。伝道するには、原理のみ言だけ伝えたのでは駄目です。何のことか分かりますか? (はい)。模範的な生活をしなさい。生活として見せてあげなさい。生活的にさせるのです。言葉でさせようとせず、生活で行動させないといけないのです。話をすれば、話したようにするのです。(九五―二三八)
事例15 伝道も作戦を立ててしないといけない
伝道もそうです。「あの女性を私が伝道する」と思えば、時間を計って六カ月以内に伝道するのです。戦略を立てるのです。その女性は何が好きで、どんな文学書籍が好きで、と全部調べるのです。調査して、何時にどこに行って、何時にはどこどこの市場へ行き、と全部調査するのです。その次には会おうとして、電話しても会ってくれなければ、どのようにしてでも会うのです。会えば伝道するのです。方法はいくらでもあるのです。
全く会ってくれない時には、市場で何かを買って、帰ってくれば、偶然出くわしたようにして、ぶつかるのです。転べば、抱きついて転ぶのです。ハンドバッグを落として物を落とせば拾って……。それが、みな作戦なのです。ハンドバッグを拾ってあげれば、済まないと……。人がたくさん見ていれば、「御主人に会いましょう」と電話するのです。「私がこうこうして……」と言って説明するのです。こうこうして夫人に失礼したので、本当にすみませんと言って訪ねていって……。そう因縁を結び……。その家に行って主人と友人になり、その夫人は、「世間にああいう男性がどこにいる? ああまでして!」と言うのです。そうすれば、その家に出入りする環境も、思いのままにつくっておくことができるのです。
先生もそういう作戦を立てて、人の家に入っていって、一年半の間その家で御飯も食べながら、その夫婦を伝道したのです。その人たちが、み旨の前に必要な人ならば、そうするのです。私が十人兄弟のある夫人を伝道するために、その夫人の洗濯物までしてあげたのです。自分の娘、息子より、自分の夫よりも、私に相談できるように投入するのです。人に良くすれば、みな友人になるのです。そうでしょう?
皆さんが伝道できなければ、責任者が一カ月、二カ月過ぎても、伝道を一人もできなければ、それを見て、私が研究します。伝道がなぜできないのですか。伝道できないのは、おかしいのです。伝道しに行って空想するからです。私はそう考えます。空想するからそうなのです。なぜ伝道されないのでしょうか? 今月には、こうして駄目なら、次には反対にしなさい。学校に行って駄目なら、市場に行ってするし、方法は研究しなければなりません。先生がそう考えるので、伝道できない人に同情しません。できるようにするのです。できるように。何のことか分かりますか? (はい)。
皆さんも、三十歳になる前に。年が三十を過ぎた者、手を挙げて! 三十歳になる前にそういう準備をみなしておかないといけないのです。先生は二十六歳から……。平壌に行けば、平壌で騒ぎを起こし、ソウルに行けば、ソウルで騒ぎを起こしたのです。その時、私が行く所ごと、問題だったのです。それが、なぜ問題の対象になったのですか? 町内に行けば、町内の人が全部夜も寝ず、私がいる部屋にだけやたらと来ようとするので、問題の対象になったのです。町内の子供たちまでも、私のいる家の便所に来て、小便をしようとしたのです。それは不思議だというのです。
なぜそうかというのです。子供たちに会えば、とてもおもしろい童話を聞かせてあげるのです。御飯を食べるのも忘れるくらいにです。御飯を食べることも分からなかったのです。そういうことをできないといけないのです。子供たちを連れて、楽しく遊んだのです。一日に、何十種類も、何百種類も仕事を考案して、楽しく連れて遊んだのです。そうしながら子供たちに、「お母さんはどこに行ったの。お父さんは?」と言いながら全部調査して、子供たちを連れて、私の家に来て、遅くまで遊べば疲れるので眠ってしまうようになっているのです。そうすれば、さっとおぶって……。その家を伝道するために訪問できるのです。それは、どれほどいいでしょうか? 子供たちが、夜遅く遊んでから眠れば、お父さんの所におぶって連れていってあげるのです。その子をおぶっていってあげるので、有り難いことではありませんか。「ああ、お茶でも飲んでいきなさい」と言うのです。そこでも、問題が起こるのです。皆さんもそれが必要なのです。子供たちを連れて童話を話してあげ、子供たちの友人になれないといけないのです。
その次には、おばあさん、おじいさんの友人に……。家に行けば、おじいさん、おばあさんがいるのです。行けば、嫁がどうで、娘がどうで、他の家はどうで、その町内の誰がどうでというニュースを、みな聞けるのです。その町内をよく知らないといけないのですね。そうすれば、その町内の誰々はどの会社に勤めているのかみな分かるので、初めて会っても「誰々でしょう?」と言い、あいさつするのです。そうすれば、「何で知っているのか?」と言うのです。そうすれば「私はあなたをよく知っています」と言うのです。あなたの友人や姻戚になることができるので、「あなたの家に行きますから、一度お話ししましょう」と言うのです。みなそうして編んでいくのです。
さあ、その人が農業をするなら、農業についての話をするのです。農業をして、疲れて、力なく帰ってくれば、「アイゴー、あなたは、今年どんな農業をしているのですか?」と言い、「何はどうなり、何はどうなっていて……」と全部……。そういう話をしないといけないのです。「大変ですが、統一教会から来たのでみ言を聞いて……」と言えば、追い出されるのです。そうすれば追い出されるのです。
その人が、農業をすれば、「あなたの畑で、どんなものを作っているのか、一度行ってみましょう、連れて行ってください。何時に家を出ますか?」と言って、早朝についていくのです。そうして一日中、一緒に親しくなるのです。友人になりながら、稲束を結ぶのも手伝ってあげながら、昼食時には座って話をするのです。そうすれば、「あなたは何をする人ですか」と言えば、「本当に知りたいのですか? そうすれば、時間をつくってください。私の経歴を話せば、あなたがおもしろくて興奮して、私についてこようとして大変なことになるでしょう」。そう興味をそそる話をするのです。「アイゴー、聞きたいから時間をつくります」と言えば、「時間をつくってください」と言うのです。そうすれば、畑で仕事をして、ほうっておいて道端に出て、一時間、二時間、何時間でも話せるのです。伝道方法はいくらでもあるのです。
私たちが、その人たちを利用しようと、そうするのではないのです。その人たちを生かしてあげようと、そうするのです。作戦を立て、自分を統一教会で伝道したというとき、「エイ、こいつ!」と言い、「復讐する」と言うでしょうか、有り難く思うでしょうか? (九五―二三三)
事例16 認められる道をまず築かなければならない
見なさい。皆さんが町内で基盤をつくる時、町内で喜び、一緒に仕事をするのを好むように、「自分の家に来て、仕事をしてくれ」と言えば手伝いもし、そうできるように、道を整えておかないといけないのです。見たところはうぶで、何でもないけれど、出て話をするときには、町内の人が頭を下げるくらいにいくらでもできるのです。
町内に、白氏がいれば、「白氏、誰はどうで誰々はどうで、この町内で誰が一番良く、一番悪く、これは直さねばならず、この町内が良くなるためには、こうしなければならず、この息子、娘たちをしっかり育てないといけない」と全部話しながら「この町内が良くなる話があるが、一度聞いてみたいか?」と言い、その次からは原理を話すのです。
ゆえに、伝道する時、み言を聞きに来るのを望む人はちょっとおかしい人なのです。その人に会う日には、きのうよりもきょうは、必ずためになるようにして送らなければならないのです。それが鉄則だというのです。話ができなかったなら、私が食べるものを準備しては、食べさせてあげ、仲間になってあげないといけないのです。
そういう観点で、伝道するにはどういう人が一番いいかというと、若い人です。大学生たち、高校三年生から大学生が特にいいのです。その時は思春期なので、何でも吸収する、吸収性が強いのです。
その町内で、「ああ、あのおじさんはいいなあ!」という評判を受けるようになれば、町内の子供たちが、小さなことでも来て報告するのです。この町内で誰がどうだと、全部報告するのです。そうすれば、そういう報告を受けられる主人になるのです。おばあさんがそうであり、おばさんがそうであり、子供たちがそうであり、若い人がそうなら、その町内を完全に伝道できるのです。
おばあさんが車を運転していけば、「グッドモーニング」と言い、どこに行くのかとあいさつし、「ああ、おばあさんが運転されるのですか?」と言い、「私が運転してさしあげましょう」といくらでも言えるのです。「おじいさんの代わりに私が運転してさしあげましょう」と言えるのです。「どこどこに行かれるなら、私に電話してください。私が、市場に行く時、市場で買い物してさしあげ、同行してさしあげましょう!」と、そういうことをするのです。
今からは、他のことはするなというのです。そうしなさい。伝道することも、「私が州責任者ですが、私のほうに来れば、私はアベルで……」そういうつまらない考えは捨てなさい。王になろうとしても、民がいないといけないでしょう? 一人でいれば、何の責任者が必要かというのです。一人で座って空想していても駄目なのです。そういう人は、神様が絶対協助しないのです。何のことか分かりますか? 実質的に、そうつくりなさい。そういう風土をつくらないといけないのです。耕作を自分がしないといけないのです。一人でみんなしないといけないのです。(九五―二三六)
事例17 何でもできる能力を積みなさい
先生は、何の問題もなく、どこにでも行けます。お金がなくても何の問題もありません。先生は、すべてのことに訓練がなされているのです。そういう経験があるので、世界の多くの若者たちをリードできるのです。誰が最初に、ファンダレイジングを始めましたか? (お父様です)。先生だったのです。今、日本の食口たちがファンダレイジングをしていますけれども、先生が最初に始めたのです。皆さんが、私に弁明できないのです。「それをどうしますか? 自分はできない」と考えるなというのです。分かりますか? (はい)。こういうふうにしなさい。
先生は、伝道するためにありとあらゆることをしました。食品店に毎日行って、おばさんや、誰にでもぶつかってみて、転ばせて、家まで連れていってあげたり……。何でもして、会うことができるのです。(笑い) ついて行きながら、家に一度訪問するといえば、来なさいというようになっているのです。
皆さんが伝道できずにいるのが、とても良い研究材料なのです。昼食の時くらいに市街に行って、十二時になればひたすら痛哭して、一日中泣いてみなさい。毎日のように三人、四人、私を慰労するために訪ねてくるのです。「一度私の話を聞いてくれれば、この涙が止まり、この切なさがみな解けるのですが、あなた、二時間か三時間、時間をくれますか?」と言えば、時間をつくってくれるというのです。それがなぜできないのですか? なぜですか? 楽です。楽なのです。
先生は、「嫌だ」と言う家に一年半も行って、暮らしながら伝道したのです。その人は、伝道すれば、大きく用いられる道があることを知っていたためです。あざけるならあざけり、悪口を言うなら言え。十度以上は面前で悪口は言わないのです。人の良心上。最初には門前で追い返し、それでもそこに戻っていけば悪口を言い、またその次に悪口を言ったらもう一歩入っていけば、またじっとしていて、その次には、板の間で座り、板の間に座っていれば、悪口をとても言い過ぎたので申し訳なくなるのです。だんなさんが会社に出勤すれば、おばさんと、板の間に一日中座って話をするのです。部屋に入っていかないのです。主人が帰るまで。帰ってきて「何で、一日中こんな所で」と言えば、「はい、主人なく、人の家の居間に入れますか? 今、入らせていただいていいですか」と言えば、にっこり笑って、「頭の切れるやつだ。入ってきてもいいよ」と言うのです。次には、「あすには、間違いなく入っていっておばさんと話をしようと思うが、疑いもしないのですか?」と言っておけば友人になるのです。
悪口を言われれば、友人になるのです。その次には、そう話しておいてから、居間に入っていって……。主人が帰ってくる時には、おばさんを前に立てて「きょうは二人で歓迎します」、そう言うのです。
なぜできないのですか、尹博士、分かりますか、何のことか? そうしなくては、復帰摂理はできないのです。御飯ももらって食べ、そこで暮らしながら……。それがなぜいけないのですか。強盗をしましたか、どろぼうをしましたか?
奥さんに話をしてから、「あなた、この素晴らしい人が話すみ言を一度聞いてみてください」と言えば、「そうか? 随分褒めるから一度聞いてみましょう」と言って、一度だけ聞いてみれば、騒ぎになるのです。なぜできないのですか。なぜできないのかというのです。楽にしようとするから難しいのです。紳士的には駄目なのです。
部落に行って、話を聞かない者がいれば、捕まえて友人になり、話を聞かせて全部コーチするのです。相撲をしても上手だし、サッカーをしてもうまいし、何でも上手でなければならないのです。歌もうまくなくては駄目です。一日だけ会ってもおもしろくて、学校にも行かず、昼も食べずに行かず、「おもしろい」と言うように、リードできなければならないのです。昼食時になれば、家族たちがみな訪ねてくるのです。訪ねてくれば、そのお母さん、妹、兄さん、みんな友達になるのです。なぜできないのですか、なぜできないかというのです。おもしろいプログラムを組むのです。
そうしておけば、若い者たちは、昼食時になっても、お昼を食べに行かないのです。おもしろくてです。夜になっても行かないのです。お母さん、お父さんが訪ねてくれば、お母さん、お父さんと友人になり、弟、妹を送れば友達として、お姉さんが来れば、お姉さんともあいさつし、友人になるのです。その次には、その家に引っ越していくのです。その家に行くのです。皆さんが切実でないからそうなのであって、おなかがすいた時に食べる物を探す以上に切実なら、何でもできるのです。小鳥でさえ、おなかがすけば、食べ物を探すではないですか?
考えてみなさい。先生はおもしろいのです。そういうことをとてもたくさん研究したのです。私はどこに行っても……。町内のおじいさんに会えば、おじいさんの友人であり、おばあさんに会えば、おばあさんの友人であり、おばさんに会えば、おばさんの友人であり、娘さんに会えば、娘さんの友人なのです。子供たちに会えば、子供たちと遊ぶのです。ですからその時、韓国で統一教会に来た人たちは今でも、先生が忘れられないのです。
伝道できないという者たちは、考えもせず、研究しない者たちです。全然することがなければ、夕方娯楽でも始めなさい。プログラムを組んで、町内で娯楽をする所を訪ねていって、娯楽でもしなさい。
ある家に行って、あなたが素晴らしいと思う人の家がどこにあるのかと聞いて、紹介を受けた家に訪ねていくのです。訪ねていって、「ここでこの町内のために、有名な何々学者たちが集まりをもちますが、あなたの部屋を一度だけ貸してください」と言えば、貸してくれない人がどこにいますか。司会は私がするのです。司会は、司会を上手にするのです。そうすれば、町内の人たちが見る時、若い者が何かやりそうなのです。それが、みな作戦なのです。伝道する人は、うまくすれば、いくらでもいるということを知らないといけません。何のことか分かりますか?
ある日は目の業をし、ある日は鼻の業をし、ある日は口の業をし、ある日は耳の業をし、一度は親指、一度は人差し指、十本の指の業をしてみるのです。足の指も合わせて、二十種類こうすればいくらですか。二十四種類の業をなしてみるのです。教えてあげれば、まねしてみなさい。いくらでもできるではないですか。いくらでも、いくらでもできることなのです。
道を歩いていって、かわいい嫁さんたちがいれば道端に座って、「アイゴー、昼食を食べ過ぎて、おなかが痛いのですが、あの店に行ってちょっと薬を買ってきてくれませんか」と言えば、買ってきてくれるようになっているのです。そうすれば、「ああ、有り難い」と言って、「住所がどこか」と言って友達になるのです。
女性たちは、歩いていて、靴をちょっと遠くに投げるのです。(笑い) どうすれば歩いていけますか。だから男性たちが通り過ぎれば、「もしもし、私の靴をちょっと拾ってくださいませんか」と言えば、若い人が拾ってくれるようになっているのです。そうして友人になるのです。友達。そうなのです。(笑い) そうして伝道したといっても、神様は地獄には送らないのです。「やあ、実にすてきじゃないか、こいつ! こいつは役に立つなあ? 全国に行って、スパイのようなことをしても死にはしないなあ!」と考えられるのです。神様が、皆さんをサタン世界に送ったスパイと考えるのです。
女性たちは、女性同士、親しくなるのです。何の問題もないのです。何が大変ですか。いくらでも伝道できるのに、伝道できないという事実が、私にはなぞなのです。
こんなに狭い世間で、どうやって生きるのですか? どれほどこの天地が広いですか。こんなに広く、おもしろく伝道できるのに、なぜしないのかというのです。それは、何のことか分かりますか。先生の言葉が理解できますか? (はい)。
先生が、年が増えて、六十歳を越えましたが、今でも若い人に負けまいと考えます。ですから、いつも挑戦するのです。先生は洞穴も掘ってみたし、支柱も立てられるし、炭も焼いてみたし、やったことのないものがないのです。
山に行けば、食べるものがたくさんあるのです。うさぎも食べて生きるのに、人が生きられないことがありますか。皆さんが田舎に行けば、海もあり、川もありますが、海に魚が多いのに釣って食べることも知らないというのです。それをみんな教えてあげるのです。狩りの季節になれば、狩りをしてもいいのです。銃を撃てますか? (はい)。狩りをしても暮らせるのです。熊を一頭捕らえれば、一年食べて暮らせるのです。そういうことを何で研究しないのですか?
私がアメリカに来て、アメリカの魚を釣って売ろうと思うのですが、目の青い人たち、欲の多い青い目の者たちがもうけて暮らすのですが、私がそこのチャンピオンになろうというのです。それを、先生ができると思うのですか、できないと思うのですか? (できると思います)。できるのです。
私はアメリカの言葉もできないでいるのです。そうでありながらも、この国で誰もできないことをしているのです。先生は、アメリカでできないことはないのです。皆さん、そういう訓練をするのです。さあ、私が南米に行けば三、四年内に基盤を築けないと思いますか? アフリカに行くとしても、どこに行くとしても三年、四年以内にみな、基盤をつくるというのです。間違いなくつくります。どう思いますか? そういう自信をもっているのです。
先生は女装して歩いたこともあります。女装、分かりますか? 女装して歩いたこともあるのです。韓国のような所では、私は背が高いので、女性の服を着て歩けば、男性だとすぐ分かるので、雨が降る日に女装して出ていったのです。傘をさして。(笑い) 電車に乗って、ある時には男性たちの前で、気合いを入れてお尻をつねって「こいつ」と言いながら。(笑い) そう言ったといって、[女性]に対してどうしますか? (笑い) 逃げて回るためには、そういうこともみなしてみないといけないのです。大きなことをするためには。分かりますか? (はい)。それは、何のことか分かりますか? (はい)。
何のために先生がこうしたのでしょうか? 何のためですか? どんな道を通じてもみ旨を成そうと考えたからです。労働を通してもみ旨を成し、こじきのようなことをしてもみ旨を成そうと考えました。どこに行っても、み旨を成そうと考えたのです。どんな道を通じてでも世界を引っ張っていくのです。皆さんは、そういう人をつくってあげれば、気持ちがいいですか、悪いですか? (いいです)。
私は大工のまねもできるのです。門も直せるし、釘も打ち、難しいことをさっさと全部できるのです。御飯を作っても上手です。七年間自炊生活をしました。七年間一人で自炊したのです。何でもみんなできるのです。パンツのようなものも作って着るのです。一人で暮らしても、み旨を成さないといけないというのです。
悪口をたくさん言われ、恥をどれだけかいたかということを考えてみなさい。(笑われる) こういう、心の狭い者だったら既にやめているのです。ハハハと笑ってです。自由人なのでできるのです。
さあ、今から伝道は問題ありません。食べることは必要なく、住む家も必要ないのです。人は一度生まれます。一生は一度しかありません。二度とは来ないのです。ですからすべてのことを開発しておかないといけないのです。一つ一つ経験を蓄積しておいて利用するのです。すべて利用するのです。それが、金持ちなのです。全部準備しておけというのです。そのような人たちが豊かな人たちなのです。(一三二―二一〇)
事例18 手紙を書いて伝道する方法
伝道するには、その状況と、伝道しようとする相手がどのような人かによって、いろいろな方法が使えます。何度か会ってみて、この人はいい男性だ、女性だと思えば、皆さんは彼らに手紙を送ってもいいでしょう。彼らを伝道できる方法を使いなさい。そして、手紙を書く時、皆さん自身のスタイルどおり書くなというのです。立派で、浪漫的な小説や、偉大な人たちの文句を使い、愛と人々についての偉大な文学作品を動員して、いろいろな文体を作って書いてみるのもいいのです。
三種類の文体を準備するのです。ただこの三種類の文体だけでも、百人までも接触し、伝道できます。ですから皆さんが書く時、この三種類が、各々どんな反応を受けるか、実験してみなさい。皆さんの手紙をもらう人たちは、皆さんの素晴らしい手紙に魅惑されるのです。
そうすれば、皆さんは、彼らに直接会わないといけないのです。ところで一人で行ってはいけません。皆さんが、その手紙の返事をもらうとき、彼らの性格を分類できないといけないのです。ですから、それと似た型の人を食口の中から連れていって、一緒にその人に会いに行くのです。
皆さんが、発起人であり、その食口は、皆さんの補助者です。ですから皆さんは、沈黙を守らないといけません。時には、皆さん、三人が話をするようになるでしょうが、大概皆さんは、時折一言ずつ投げかけるのです。そうしてから、皆さんが立ち去る時には、その食口が彼らに、皆さんはとても素晴らしい人だと自慢をするのです。学校で、優等生だということを……。このように一緒に三度だけ会いなさい。
皆さんは、その時から、時事に関する話題をはじめとして、道徳あるいは倫理に関することも対話することができます。皆さんはこの時、彼らの話が正しいかということについて気にしてはならず、彼らの見解に反発してはいけないのです。この時は、「そのような問題について考える多くの若者たちがいるし、私は、そういう問題について講義することができる」と言いながら、慎重な方法で始めないといけない時なのです。そうして、「あなたも一緒に行きませんか?」と何気なく提案してみるのです。こうなれば、その相手は、皆さん二人の前で、皆さんの提案を拒否できないのです。あることに関し、意見が統一される二人がいる時、三番目の人は簡単に同意するのです。そして、彼らは友人になるのです。なぜ、そうできないのですか?
もし、皆さんが百通の手紙を書くなら、皆さんは驚くほどたくさんの人たちと接触できるのです。もし皆さんが、ある文体についての返事の手紙をもらえなければ、それ以上その文体を使わないほうがいいです。各々、他の文体の手紙を三度だけ送るようになれば、必ず反応があるのです。(五二―二七二)
事例19 人について研究せよ
皆さんが、ある家庭の家族を伝道するためには、着実に神経を遣わないといけません。さらには一年半神経を遣わなければならない場合もあるのです。反対が続くこともあるのです。その家族たち、すべてが皆さんを嫌がるのです。ですから一人、あるいは一家庭を伝道するためには、多くの努力が必要です。しかし、皆さんが一人を動かすなら、その家全体が救われるのです。こういう方法が人を動かす、一番いい方法です。もし皆さんが、今までいろいろな種類の人たちを伝道することを経験したなら、皆さんは心配することは何もありません。皆さんは、起こるどんな状況にも、対処していけるのです。
バスや汽車の中で、あるいは市場のような所では、次のような方法が、使えるでしょう。人に関して研究しないといけません。そうすれば、皆さんがある人を見れば、彼についてのあることを知ることができ、彼に接近して、話しかけることができるのです。例えば、「あなたは、何をそんなに心配していらっしゃるのですか? あなたの姿を見ると、何か心配していらっしゃるようですね」と言うのです。そこで皆さんは、一つの親交関係を結ぶのです。ですから私たちは、いろいろな型の人を研究して知らなければなりません。皆さんは、ある人の歩く姿を見て、その人に関して話すことができないといけないし、表情を見ても、その人の気質や性格を話すことができないといけません。
すべての発展というのは、一つの単位から出発します。一つの単位を中心として、他の公式が出るのです。その公式は、すべての人に適用されるのです。人の顔から皆さんは、その公式が浮かび、内的な単位を帰納的に推理できるのです。
皆さんが、ある人を知るためには、まず過去に知っていた三人を選びなさい。そのように、その人たちは、三種類の人たちでないといけません。そうして、彼らがどのような姿か、彼らの鼻、目、個性などを研究しなさい。こうして三種類の人たちの研究をみなしたとき、Aという人と、その半分くらい似た人と、またBという人と半分くらい似た他の一人を選びなさい。それで、Aと似た人から研究するのです。その人の半分は似ているので、その人の半分については、知ることができるのです。
もし皆さんが、小学校の時や中学、高校の時の級友たちをよく覚えていて、心の中に彼らを描いてみることができれば、彼らを、研究した三種類の人と比較しなさい。皆さんは、比較研究できるのです。そうすれば皆さんは、彼らがどうやって暮らし、どう仕事をするのかを理解する、良い参考資料をもつようになるのです。皆さんが、こういう方法をよく適用したなら、皆さんの判断は七〇パーセントの正確性をもてるのです。可能なら、多くの人たちと接触してみないといけません。そうすれば皆さんは、どんな人でも、すぐ判断して、早く評価する方法をもつことができるのです。
人によっては、目の大きさ、まゆ毛とひとみの動き、歩く姿、または寝る態度が様々なのです。それらが一番興味深いのです。例えば、すべての動物は、後ろ姿は似ているけれど、人間はみんな違います。食べることや眠ることのすべての行動が違います。一人一人の鼻を見ても、その鼻はみな違います。その大きさも違うし、その位置も違います。こういうすべてのものを眺めれば、突然彼についてのある考えが浮かびます。その時、皆さんは、その人が真実を語るのか、うそを言うのか、あるいは何を言うのかを正しく評価することができます。観察するようになれば、そこには一つのパターンがあります。人々を個人的に別々に見ずに……。皆さんが伝道する間は、こうして見るために一番いい機会です。
政治家も違うし、学者も違うし、労働者も違うのです。彼らの外的な表現も、職業、組織、そして考えによってそれぞれ違います。もし皆さんが、他のすべての形態を知っているなら、きょうは政治家に会い、あすは経済人に会うなど、皆さんの親交範囲は大変広がるのです。それで皆さんが、話ができないと考えてきた人たちまでも、自分のほうに引っ張ってくることができるのです。こういう伝道方法が一番重要なのです。
皆さんが重点を置いている特定の家庭にそれを適用してみるのもいいのです。なぜなら、そこには多様な人々がいるからです。それで皆さんは、その家族たちの中で、接触したい人を選択できるのです。人間についての研究よりも、もっと貴重なことはありません。そういう研究をするとき、皆さんは、会う人がどんな型の人かをすぐ鑑定できるのです。(五二―二七三)
事例20 街頭で宣伝伝道をしなさい
これから、私たちはどうしなければならないのですか。宣伝しなければなりません。国と世界が混乱する時が来たので、今からは、私たちが街頭に立って血を吐くほど切実な心をもって、今後の韓国観と、今後の世界観を中心に路傍で叫ばなければならないのです。黒板を背負って、街頭に立って、「眠りの中にいる民族よ、目を覚ませ! 行くべき道を知らず、迷路に立っている民よ、今後行く方向を選んで行かねばならない」と教えてあげなければなりません。
そうすれば、警察が、交通がどうのこうのと言って反対するかもしれませんが、反対されながらでもしなければなりません。交通が問題ではありません。大韓民国が行くことのできる交通路が遮断されているのに、街頭の交通が問題ではありません。こういう信念をもって、あちらこちら、商いの日なら、商いする場を訪ね歩きながらマイクを持って、か弱い女性の声で涙と共に民族の心情を揺さぶらずにはいられない時が来ました。勝共を成さなければなりません。民族が思想的に統一的な基盤を備えなければ、北の勢力を防げないではありませんか。
こういう内容を中心に、個人が行くことができる道、家庭が行ける道、町が行ける道、社会が行ける道を新しく、正さなければならない使命を皆さんがもっているので、皆さんが街頭で宣伝伝道をしなければならないということを記憶しなければなりません。約束しますか、しませんか? (します)。
最初は何ですか? (精誠を尽くす……)。精誠を尽くさなければなりません。先生が、夜でも昼でもこの国の行くべき道を心配した心を身代わりして、私がこの国にいないので、皆さんがこの意志を受け継いで精誠を尽くさなければなりません。その次には、眠っているこの民族がただ座った場で滅びるようになっているので、これを起こさなければならないので、皆さんが街頭に立ってすべての精誠を尽くし、叫ばなければならない時が来たことを知らなければなりません。これは遠からず立ち去る私が、皆さんの前に残すお願いの言葉だということを知って、帰ってくる日までこれを中心に民族をかき抱いて、あすの世界に向かって天倫のみ旨を残すために、すべての至誠を尽くしてくれるようお願いします。分かりますか? (はい)。そうするという人、手を挙げてください。(五〇―一八三、一九七一・一一・六)