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三 伝道の秘訣と方法

1 伝道できない原因

 あなたたち、教会の伝道ができないといったでしょう。伝道がなぜできないのですか? こういういいみ言をもってなぜできないのですか? 昔の習慣性がそのまま生きているので、革命を成せないため、駄目なのです。(一四五―一〇〇)

 統一教会の教会員たちが、今まで伝道するのに、なぜ伝道できないのか。原則から外れているからです。原則に合わなければ、伝道は駄目だというのです。皆さんに、「伝道に行くとき、既成教会員たちを伝道せよ」と言ったでしょう。「一般の人を伝道せよ」と言いましたか? 「既成教会の牧師を訪ねよ」と言ったのに、「アイゴー、あの牧師は自分より能力があるのに、聖書は私はよく分からないのに……」。聖書を知っているとか、分からないとかを考える必要はないのです。そうであればあるほど、もっと行かなければなりません。そうでしたか、そうではありませんでしたか? そうしているのですか、そうしていないのですか? そうすれば、必ずその家に行って女中をしても、その家に行って家政婦をしても、その家に行って食べて寝て、その教会に行っても、自分の部屋のように、自分の家のように考えなければならないのです。その家が私たちのうちなのです。このうちは、アベルが管理する家であり、カインが管理する家ではありません。見に行ってきましたか? それはカインが管理する家ですか、アベルが管理する家ですか? 純然として逆になっているのです。それが、原理的ではないのです。ゆえに難しいのですが、それを探すことをしなければならないのです。そうなれば、その次からは一遍に戻っていくのです。分かりますか? 破裂し始めれば一遍に変わるのです。(五五―二五八)

 皆さんは、伝道できない原因が何かを知らなければなりません。人のゆえにできないのでなく、問題は自分にあります。道にバラが咲いていれば、道を過ぎ去る旅人は誰でも、この花に関心をもたない人がいないというのです。そうですか? いないのですか、いるのですか? (いないのです)。全部同じだというのです。皆さんが、ぱっと咲いているバラの花のように、行き来する人の前に、香気を震動させてみよというのです。そうなれば、通り過ぎる娘たちがニコニコ笑いながら、「まあすてき」と言って、さっと来て折ろうとするのです。またおじいさんは、「アイゴー、このように寂しく道端に咲いているなあ、これは駄目だ。動物が通って、いたずらすると駄目なので、折って部屋に飾らなくては」と言うのです。同じく、そういった心情的花を咲かせられる皆さんにならなければなりません。分かりますか。夜に明かりがあれば、そこに昆虫が集まってくるのと同じだというのです。(五〇―三〇四)

 伝道ができないのは、誰の責任ですか? まず、天使長の責任です。復帰過程において、再創造過程において、天使長の立場にある、教会長に責任があるというのです。分かりますか? 分かりますか、分かりませんか? (分かりました)。(五〇―三二五)

 皆さんが伝道ができないのは、なぜでしょうか。「あの人は何で来るのか」と言われれば、伝道は駄目なのです。どんな心をもたなければならないのですか。母や父のような心をもたなければならないのです。一人来れば、五千年、一万年待ち焦がれていた、息子、娘が訪ねてきたように感じなければならないのです。私の息子、娘が来たのでうれしくて、形容できないほど心でうれしがらなければなりません。人は霊物なので、嫌がっているということをみな分かるというのです。自分を喜ぶ目から、姿から、心から、喜びを感じるようになる時、伝道されるのです。父母が失った子供を探すようになると、子供が帰ってくる時に喜ぶ心と同じ心で、その間の事情を聞きたがって、「この間何をして過ごしたのか」と言う時、自分のすべてを告白しようとするというのです。ゆえに、先生に会うようになれば、私は口をぴたっと閉じていても、訪ねて来て、皆いろいろ話すのです。(一九六九・五・一二)

 今日、地方に出て伝道するのに、なぜ伝道できないのでしょうか? その人の生命を生かすための観点で、私が伝道するのでなく、自分が生き、自分が良くなるように伝道するためだというのです。観点が違うというのです。皆さんが神様のように、より与えなければならないのに、ただ自分の話だけしたというのです。ですからみな離れていくのです。食口たちは、あなたたちよりもっと苦労させ、自分は楽に過ごそうとして……。これはサタンの遊びなのです。神様が共におられません。アベルになれないのです。先生がこの位置に来るまでに、三十年の道を築いてきたのです。(七六―三三六)

 皆さんの考えで、「み旨の時が来たのに、なぜ伝道できないのか」と言うでしょうが、それは皆さんのゆえにそうなのです。先生はどこに行っても、伝道することができるというのです。私は、どれだけでも言えるのです。私がそういった境地に精神統一していくなら、環境がすぐに変わるのです。ですから、それほどに距離があるのです。みな同じように見えますが、距離があるのです。それをどうつくるのかということを考えなければならないのです。

 そして、皆さんが今、天のみ旨を知っていますが、いつ天の声を聞いて、いつどこで霊的に先生に会って報告するのでしょうか? それを相当に慕わないと、そうならないのです。そうすれば、みな教えてあげるようになっているのです。皆さんが、夜寝るのも忘れ、食べることを忘れ、愛する人を忘れるくらい、それを思うことができれば、完全に直接通じるというのです。(九四―一五七)

 皆さん、先生が慕わしくて御飯を食べられず、そうしてみなさいというのです。直通します。アメリカにいる先生が、今何をしているのか、みな見えるのです。これはうそではありません。分かりますか、何のことか? 心情のはしご、心情のアンテナは、先生に通じるようになっているのです。それにもかかわらず、自分の考えだけをもって先生の命令や、指示をなし、上部の指示を計算して、このような精神姿勢は正さなければならないというのです。分かりますか? (はい)。(六八―一〇五)

 今まで、統一教会が伝道しても、なぜできなかったのでしょうか? この原則がなされていなかったからです。先生は今でも昼寝はできません。習慣になって、昼寝をしようとするとしても……。いくら疲れていても、昼寝はしません。食口たちが、世界でみな苦労しているのを考えると、それが良心に引っかかるのです。雨が降れば、すぐに皆さんのことが思い出されるのです。雪が降っても、皆さんを思います。ゆえに船に乗って、海に出るのです。そうすれば心が楽です。先生が、そうしながら祈祷しているという事実を知らなければなりません。どこかに行けなければ、ここででも、自ら進んで疲れる仕事をしようとするのです。それが必要なのです。そう暮らす限り、統一教会の先生のために、死の場に行くというのです。父母について恨まないのです。感謝するのです。

 そして、先生はいつも第一線の友達だという考えをもっています。第一線の友人。後方の友達でなく、第一線の友人だという考えをもっているのです。そうすれば、食口たちが一線に立った司令官だと考えるのです。ここに主の責任者として来れば、主をどれほど愛しているのか? 主の地をどれほど愛しているのか? 主の人をどれほど愛するのか? これが問題です。(一三一―三三三)

 伝道ができない? できないのは実力が足りず……。信仰が足りず……。精誠を尽くして一度で駄目なら、二度、三度、四度、だんだん、より強く反復するのです。駄目なら成されるときまで。ゆえに、がっかりするなというのです。がっかりする者が、一番気の小さい者だというのです。皆さん、伝道に出て、一州に影響を与える自信がありますか? 「私は一州が問題ではない。一つの国が問題ではない」。まず、そういった自信をもたなければならないのです。自信がありますか? (はい)。(七七―二〇)

2 伝道の秘訣

 地方に行けば、伝道する時、誰は何カ月、あの人は三カ月目、あの人は五カ月目、あの人は一年半、三年なら三年、このように一カ月目、二カ月目、基盤をつくるための期間をみな決めて、何十、何百名をみな計画を立てて祈祷しなさいというのです。そうしていますか? 稲穂を刈り取るのです。この者たち! 秋に収穫すれば、穂を刈りますか? よもぎの畑を耕しますか? (よもぎの畑を耕します)。よもぎの畑を耕すのに計画がなければならないではありませんか。「あの人に何カ月必要だ」と言って、駄目なときには私の精誠が足りないので、昼も夜もないのです。夜を明かしながら、祈祷するのです。断食祈祷するのです。人を愛することが、神様の主義なので、人を愛さなければなりません。

 これが原則ならば、私自身の愛が不足でも、神様は、私が私のためにするのでなく、相手側のために祈祷するその功は、聞いてあげなければならないので、聞いてあげるのです。ところで、そういう祈祷をしてみましたか? してみたかというのです? 全部、統一教会をつぶす、やくざ者になっているというのです。「先生は本国に帰ってきて、いいことは言わずに……」と思うかもしれませんが、これが、いい話なのです。分かりますか? (はい)。これ以上いいことはないのです。先生が、今まで信仰の道を明らかにしてきた、生活哲学を話すのです。分かりますか? そうして、できないのか見てみなさいというのです。駄目なら先生は偽者だというのです。であれば、先生についてくるなというのです。先生を信じるなというのです。先生が詐欺師だと思うのですか? そうしてみて、信じなさいというのです。

 皆さんが、道を行く人と会うのに、心がぎこちないなら、祈祷せよというのです。そして、家を訪問するときにも、その家に入っていって、その家庭のために、息子、娘のために祈祷せよというのです。褒めなければならないのです。そうでしょう? 伝道するという、生命を救うという者がぼーっとしていていいですか? ゆえに、どんな人でも、里長に会うとか、誰に会うのにも、ずっと会ってみて、「どんな人だ」と分析して、精誠を込めるのです。とても、伝道はおもしろいというのです。おもしろそうですか、おもしろくなさそうですか? 考えてみよというのです。そうしてみよというのです。おもしろいですか、おもしろくないですか。「あの人は六カ月以内に、五カ月以内に」、こういう実力と、信念を兼備して、そしてその人について、夜も昼も、祈祷してあげよというのです。人を見れば、すぐ分かるというのです。

 さあ、先生の言葉を聞いてみると、皆さんが今、どんな段階にいるのか分かりますか? 皆さんは、やくざ者たちです。やくざ者、分かりますか? 本当ですか、うそですか? (本当です)。何が、本当ですか? (はい)。本物になろうとするでしょう? 人が慕わしくて、涙を流さなければなりません。

 これを考えよというのです。父母をすべて捨て、先生のあとに従う皆さんではないかというのです。そうではないですか? 故郷に行きたくないですか? 父母と会いたくないですか? 私がなぜ、このことをしなければならないのですか。なぜ、父母のひざ元を離れてこのように孤独な、山川をさまよわなければならないのですか? 見えもせず、会いもしなかった人になぜ会わなければならないのですか。神様のゆえなのです。父母の事情よりやるせなく、兄弟の事情よりやるせなく、友人の事情よりやるせない神様の事情があるからです。

 ですから、彼らよりもっと懐かしがられないといけないのではないですか? 訪ねてくる食口を、父母を慕うように、兄弟と対するように、誰か来れば、行ってしまうのではないかと心配し、そうならないといけないのです。立って行ってしまうかと、あれこれ食べさせて。皆さんの心はそうですか? それが、父母の心情を抱いて僕の体をもつということなのです。そうなれば、その人たちが、来てから行こうとすれば、お尻が離れないのです。分かりますか? そういう何かがあるのです。霊的に体験するのです。とてもおもしろいのです。

 そうして、食口たちに対するようになるとき、誰かが、「あすの朝来る」と祈祷して寝れば、来るのです。来るのです。分かりますか? (はい)。私が、この神山にもこのような訓練をさせたのです。「お前、祈祷してみよ。こういう心、こういう心情をもって、こうすれば、本当にこうなる。君が東洋人なので、今までお前に、神様が協助しなかったかもしれないが、今、米国に来ているので、私の言うとおりに信じてしてみよ」と語ったのです。ですから、神山が信じて、そのとおりにしたのです。誰かが、あすの朝来るように祈ると、来たというのです。そういうことが起こるのです。何のことか、分かりますか?

 心情が、いたたまれないような心情でなければなりません。どの程度か、愛する恋人を慕う以上の立場にまで、行ってみよというのです。そうすれば、直通です。世間で、恋わずらいにかかるということを聞いたことがあるでしょう。神様に対して、それ以上になってみよというのです。そういう立場に行くと、はしを持っても「お父様! 一緒に召し上がりましょう」こう言うのです。そういう実感なのです。実感がわけば、自然なのです。どこに座っても、「お父様!」と言って、いいものがあれば、自分も知らずに差し上げたく、いい服を着る前に、まず着せて差し上げたいのです。そのようになれば、この先生に対して、そういう考えをするようになれば、心配すれば、先生がいい服を着ているのが、みな見えるのです。そういう経験がなければならないのです。

 伝道する秘訣があります。それは、ある人が、訪ねてきて過ぎ去るとき、耐えられないくらい残念がることができるようにならなければならないのです。夜十二時が過ぎ、二時になっても、「行こう」と言えば、胸がキュッとして、「もう少ししてから行けば……」という心をもてる人ならば、教会の復興は間違いありません。

 先生は、今までその原則を中心に生きています。皆さんが先生を観察すると、そういうことをたくさん感じられるというのです。食口たちが集まって、夜十二時が過ぎ、二時、三時になって、「行こう」と思っても、「もう少ししてから行こう」と思います。そういう心がなければ、発展しないのです。そこには、父母の心が動くのです。

 子供と同じ部屋で寝たいし、一緒にいたい、こういう父母の心を皆さんは相続しなければなりません。誰かが粗末な服を着ていれば、それを見て、恥ずかしく感じなければなりません。姉さんや兄弟が見てもそうなのに、親の心はどうですか。息子が食べることもろくにできずに、やつれた顔をしているのを見れば、父母は自分が食べずに何でも取っておいて、そのまま与えるのです。そういう心をもたなければなりません。(二三―六七)

 皆さんは、先生が言うことを、そのまま流れていく村人の話のように考えてはなりません。そこに生命を懸け、他のことができなくても、それをしなければならないのです。伝道する道は、特別なことではありません。原理のみ言を聞かせることと、原理のみ言を読ませること、この二つの道しかないのです。今皆さんが、街頭に行って、伝道するのはなぜですか。人を連れて何をしようというのですか? 原理のみ言を聞かせ、原理のみ言を読ませようということなのです。(九六―一三一)

 伝道するとき、どうやって愛の話をすればいいでしょうか? 「伝道、伝道」と言わなくても愛の心をもって暮らせばいいのです。あなたたち、愛をもって暮らしてみよというのです。町内で会う人は、自然に来るようになるのです。低気圧が来れば、高気圧に「来るな」と言っても来るようになるのです。愛することは、低気圧圏をつくることです。ゆえに、高気圧圏が全部集まるようになっているのです。

 先生のような人は、どこかアフリカの奥地のような所に行っても死にません。既に自然に対することが違い、暮らす生活方法が違うのです。そこは、低気圧圏になるので高気圧圏が飛んでくるのです。自然にうずめてあげないといけないのです。伝道しなくてもいいのです。

そう暮らせというのです。伝道することはないのです。そうすれば、神様が訪ねてくれるのです。そこに香気が漂うので……ちょうが、全部花が咲く時、「ちょうよ来い!」と言われて来ますか。香りがするので、においをかいで来るのです。においをかいで来るというのです。

「異端、統一教会、悪い悪い」と言って、全部北側に鼻を向けるのに、統一教会の方、南側に向かってみると、においをかいでくるのです。続いてくるようになっているというのです。(一四四―二五一)

 私たちは、武器を持って伝道するのではありません。愛をもって伝道するのです。アベルが愛で、カインを救った勝利の基盤を通じて、偽りの愛で占領されたのを、真の愛で復帰しなければならないのです。そうしてこそ、相衝(注:衝突し合うこと)がない、本然の世界に帰れるのです。ある手段と方法を通じてしてから、またサタンが、手段と方法をもって、来る戦法が残っていることを知らなければなりません。(四〇―二五〇)

 サタンには、サタンの作戦法があるのです。サタンの攻撃法があるのです。私たちは、それを知らなければなりません。サタンが攻撃するのは何ですか? サタンがサタンになったのはなぜですか。自分がサタンになった、その内容をもって出てくるのです。私のようになれば、私のようにすれば、サタンだ、私の側だというのです。

 サタンが、サタンになったことを、少し調べてみましょう。最初に、サタンが接近する時には、「やあ、このエバよ」と言って行きますか、笑いながら行くでしょうか? どのように行ったでしょうか? (笑いながらです)。ですから、伝道する時、(表情をつくりながら)こうして気分悪くしなければならないですか? 気分良くしなければなりませんか? (笑いながらです)。

 さあ、サタンの魁首を捕まえる秘訣も同じなのです。同じなので、一番いい言葉で、その人を説得しなければなりません。「お前が暮らす場がどんな場か? このように悲惨で、このように悪いが、私たちが暮らす場はこう良く、こう素晴らしい」。共産党式の宣伝なのです。

 サタンは、表裏が違うのです。それが、サタンです。では天の側はそうあり得ますか? (いいえ)。では、表も良く、内も深くないといけません。それが方法です。朝は兄弟同士けんかをし、伝道に出ては、「ははは!」と言っていていいのですか? (駄目です)。それでは、サタンが「やあ、お前、私と同じだ。こいつ!」と言うのです。皆さんが、心に喜びをもって、体も喜ばなければなりません。そのように喜びをもてば、神様の喜びとサタンの喜びとは違うのです。ここで二つの力を見ても、これは二分の一で、これは二分の二なので、こちらが勝つというのです。理論的に合っているのです。内的、外的に一つなので、二つが倍になるから勝つというのです。倍になるから勝つというのです。

 サタンは表と裏が違うので、一つしかないというのです。こちらは内外が同じなので、二倍なのです。二倍、二倍だから、続ければ結局、誰が勝つかというと、サタンが追い出されていくのです。今まで先生が言ったことが、伝道に行くときの秘訣です。(七六―三三三)

3 伝道は一対一の伝道がいい

 皆さん、一人一人伝道しなさい。一人一人、一対一、一対一作戦を組まなければなりません。皆さん、そうしなければならないのです。(九六―三一六)

 一対一の作戦が必要です。一対一の作戦、一人について、どれほど集中攻撃をしたのか、その回数の増減によって、参席数の増減が起こるのです。何のことか分かりますか。どうということはないのです。誠心誠意の限り対してあげ、彼らが一つの目的のために、その国のために、世界のためになるのに、誠に満ちたそこに感動されて、伝道されてくるのが七〇パーセントです。七〇パーセント。

 ゆえに、街頭から引っ張ってきたといえば、一度来ても、元来関心がない人なので、全部流れていってしまうのです。しかし、集中攻撃して来た人は、どうしてこの人がこうなったのだろうという関心をもって来たため、それやこれが思想の中に、そういう根拠が、どこにあるのかと関心をもって聞くようになるのです。そういう人は、原理を全部聞くのです。分かりますか? それは理論的なのです。分かりますか? (はい)。(七〇―一二二)

 二人、三人、伝道しようと思うなということです。一人ずつだけしなさい。

 人が、生まれる時には、一人ずつ生まれるのであって、二、三人ずつ生まれるのではありません。双子が生まれるのを喜びますか? 一人ずつだけ生めというのです。一人ずつだけ。ゆえに、皆さんは一カ月に一人ずつだけして、一年に十二人を伝道するという目標を立てて、一年十二カ月、精誠を尽くせというのです。

 もし、皆さんが十二カ月の間、精誠を尽くして、十二人伝道したというようになれば、一人につき、五十名ずつ増えます。なぜですか? この人が自分を伝道するため、精誠を尽くすことを伝統として受け、伝道された人はすべてそうして伝道をするからです。「ああ、私は一人を伝道するために、あれほど祈るのだなあ」と思いながら、伝道されたその日から、み言を聞き、座って「私も誰々を伝道しなければならない」と考えるのです。そうすれば、その人も何日もたたず、一人を伝道するのです。その次には、またその人によって来た人が、伝統を受け継ぐようになり、それが急速度に広がっていくのです。今は、そういったことを意識しながら、復帰の一路を行かなければならないのです。(二三―三一〇)

4 伝道するときの対話方法

 伝道するときには、軽々しく話をしてはいけません。その人が陰性なのか陽性なのか把握して、そこに合わせて話をしないといけません。人の中には、陰性的性格をもった人と陽性的性格をもった人がいます。陰性的性格をもった人には、絶対憂うつな時にこの話をしてはいけません。その人が陽性的な時、すなわち気分がいい時に行って話をしないといけません。気分が悪くて沈んでいる時には、絶対うきうきするような言葉をかけるなというのです。むしろそういった時には、気分を見ながら同情しなければなりません。

 また陽性的な性格をもった人には、陽性的な時に話をしてはいけません。そういう人には、必ず陰性的な時に話をしないといけません。陽性的な時、すなわち気分がいい時に話をすると、保てず、みな流れてしまうのです。ゆえに、そういう時は避けて、反対に、深刻な時に話をしないといけません。(四二―一七三)

 人を探すため、春の季節のような、夏の季節のような、秋の季節のような、冬の季節のような地方に行って、涙と血と汗を流そうというように考えなければなりません。私が、春の人、夏の人、秋の人、冬の人、春夏秋冬の人を愛していき、冬の人、あのソ連の人までも愛していくと思わなければなりません。そうしてこそ自分の相手を愛せるのです。それが復帰のプロセスだというのです。(九六―一五二)

 精誠を尽くしたにもかかわらず、彼が言うことを聞かないといって、寂しがったり、悲しく考えてはいけません。天理原則がそうなっていると考える人は、福を受けるのです。そういう人は、絶対に寂しがったりはしません。時が近づいているので、春の風が吹いてくるのです。しかし、精誠を尽くしたのに、それを受け取らない人には秋風が吹くのです。それは、自分の時が近づいているのを知らせるためです。(四二―一七四)

 一つの生命を伝道すれば、早くから先生が皆にそうしたように、夜を明かして、み言も語り、温かく対してあげなければなりません。食口たちが訪ねてきても、見て見ないふりをしていれば、誰がまた訪ねてくるでしょうか。草創期に、新しい食口を心から慕った心情を忘れてはいけません。(二一―三二一)

5 伝道するときに留意すべき点

 伝道に出て、自分勝手に歩き回りながら、「原理のみ言、創造原理、堕落論はこうです。統一教会を信ずれば、良いです、良いです」と、言葉では良く言うというのです。そうしたのでは駄目なのです。それよりも、甲という人がいれば、その甲という人をおいて一度祈祷してみなさいというのです。その父母が愛する場以上の場に、私がどう出るのかということが問題なのです。これが戦いです。彼のお母さんやお父さん以上の心でもって、私がどうやって彼を占領して出るのか? これが問題なのです。

 人は霊物なので、滅びる所には行かないようにし、繁栄する所にはついていこうとするのです。ゆえに、その人に利益になる場に、その何を目的にさせ、その人の父母が、その人を愛する以上に愛の動機を、私がどうやって感じさせて愛するかということが問題なのです。ここでいう愛とは、世間の愛ではないのです。(五〇―二七九)

 伝道は、言葉を中心にするのではありません。自分たちの自覚に従うのです。自分の該当分野で、全体の目的にどうやって結び付けるかということが問題です。(二四―八一)

 皆さんがこの間六〇年代に伝道したのは、自慢するために伝道しましたか、救うために伝道しましたか? じっと考えてみなさいというのです。(救うためです)。皆さんは、既成教会の信者たちを救うために伝道しましたか? 自慢するために伝道したでしょう。これが問題なのです。(三四―二七三)

 ある人が結ばれている綱をじっと見ると、その人は、お父さんお母さんの愛を受けています。お母さんお父さんの愛を受けており、兄弟の愛を受けているというとき、その人に対しては、伝道が難しいのです。それを鑑定できなければなりません。そういった人には、何かいいことを提示してあげなければなりません。利益となり得る何かを提示しなければならないのです。しかし提示しただけでは駄目です。愛の感情を誘発して、自分と関係を結べる作用をしていかなければならないのです。

 では、どのようにしなければならないのでしょうか。ここには、こうじのような愛が必要です。聖書にも、こうじという言葉を、比喩でいっていたでしょう。そのこうじのような愛は、神様の愛です。神様の愛を私がどう感じるのですか? 前に、「一つの生命をおいて祈祷してみなさい」と言いましたが、ある人について祈祷してみなさい。その人のために夜を明かしながら祈祷してみなさい。ここには、歳の多いおじさんやおばさんたちがいますが、息子、娘が死ぬ時、どれほど心が痛いかということは、自分が体験しないと分からないというのです。そうでしょう? (はい)。娘、息子を生んで、育てて、その息子、娘が死んだ体験のある人は、その心が分かるのです。その心以上に愛せば、誰でも引っ張られてくるのです。(五〇―二八〇)

 自分を中心として、全体を利用するのは、神様を利用するのと同じです。皆さんは、これをいつも考えて、絶対的に注意しなければなりません。ですから、人が教会に訪ねてくる時や、あるいは皆さんが伝道する時、「この人は献金をたくさんするだろう」という考えは、絶対するなというのです。その人に対して、権力があり、またどういう人であるかを望むなというのです。人は、優れていても、劣っていても、そのお母さんが生んで、同じわかめスープと御飯を食べさせ、同じ愛を与えたのです。そうでしょう? 自分自身の個人の高貴な生命体を、父母の前に任せて育ってきたのは、みな同じなのです。父母の心情には、人を差別することは、あるはずがないのです。(三三―一六四)

 伝道する時、お金のたくさんある人がいれば、その人が来ればいいのにと思うかもしれませんが、その人が来て何をしますか? それが統一教会のためになることですか? その人のためなのですか? 伝道した人が、お金がちょっとあるからといって、自分の生活を解決しなければならないと思っては、絶対いけません。生命を救うのに、物質的なことを考えては絶対いけないというのです。皆さんは、こういったことをみな選び分けていかなければなりません。

 皆さんが、人を見て、「いい、悪い」と思ってはいけません。高い人になるためには、低い人をよく収拾しなければなりません。(三四―二五〇)

 絶対、人を選ぶなというのです。こじきでも、どんな人でも、できがいい、悪いが問題ではありません。むしろ、できのいい人より劣った人のほうが、心情的にはいいというのです。真実なる一生に、この世間で対されてきた父母の情以上の心を、私を通じて受けられ感じられることが起こる時には、夜も寝れずに訪ねてくるのです。御飯を食べられず、朝早く訪ねてくるのです。そうか、そうでないか、やってみなさいということです。「私は実力がなくて伝道できない」そういうことは全部、話にならないというのです。話になりません。(一九六九・五・一二)

 皆さんが、伝道するにあたって、人を選ぶなというのです。分かりますか? (はい)。人は、天性がそうでしょうが、冬に通り過ぎていくこじきを見て帰ってきても、御飯を食べられず、夜は寝られませんでした。そういう性格があります。お母さん、お父さんに、そのこじきを部屋に連れてきて、よく食べさせてあげて、送ろうと。そういう性質は天が愛する性質ではないのですか。

 ですから、皆さんが伝道する際に、選んでするなというのです。分かりますか? (はい)。なぜあの人を、私に送ってくれたのか? 自分に来る時は、何か目的があって来なかっただろうか? その目的を一〇〇パーセント充足させてあげなければならないのです。それをなせなければ、あなたの事情を聞いてあげられなかったと、悔いの涙を流して、再び来れる機会でもつくってあげようと決心するのが、教役者の責任だということを、皆さんは知らなければなりません。(五六―三五)

6 伝道の難しさと、その克服

 伝道は、出産することなのです。出産と同じなのです。私が暮らしてみると、一人を自分の息子以上に信じられる人にするためには、息子を生むより、三倍の努力が必要なのです。伝道しても、責任をもたなければならないのです。こうやって行った人が、こうやって来ようとすれば、衝撃的な感動を受けて、涙を流すとか、自分自身、憤りや悔しさを感じるとか、今まで、感じられなかった心情的、爆発事件が起こらなければならないのです。(六六―二一五)

 皆さん、伝道しに行って、打たれた時や迫害を受けた時には、自分のことを考えるより、天のことを思いなさい。神様も共に嘆息しておられます。打ったその者たちの過ちを許すようにして、救ってあげなければなりません。そうすれば、サタンも神様を打てません。神様が対応する者を打ったとしても、直接、神様を打てません。受けた時は、神様と共に受けたと考えるのです。そこに生活方式があります。感謝すれば、サタン世界に条件となり、私を打った環境に引っかかります。イエス様も、そういう蕩減条件を立てました。(一五―一四五)

 食口たちの中に、伝道に出て、疲れて力を落とす人がたくさんいるのを見ると、彼は誰のために出発したのか、出発が誰からで誰のための過程であり、その目的が誰を中心に結実しようということか、という問題を見るとき、彼は何の余地なく背信者なのです。(六〇―二四)

 皆さんが、ある地域に行って伝道するとき、初めには束縛される時代があります。この束縛される時代を、打開しなければなりません。そうして、ある程度になれば、飽和時代が来ますが、大抵の人は、この飽和時代に滅びてしまいます。ですから、この飽和時代を中心として、新しい道を模索しなければなりません。そうしないと、飽和時代が、自分を審判してしまうようになるのです。(四二―一七四)

 皆さんが、ある地域で伝道活動をすれば、最初に反対する人は、おじいさんのような人です。統一教会を信じて来る時、最初に、おじいさんたちが反対します。このおじいさんたちが、たばこのパイプを口にくわえながら、普通両班たちが歩くような姿で来て、「こいつら、どうして暴れ回るのだ!」と言って反対します。その次には、お父さんのような人たちが反対します。その次には、お兄さんのような人が反対します。そのように、三代から反対を受けなければなりません。反対を受けなければなりません。堕落の歴史を見れば、おじいさんはアダム型ですが、サタン型のアダム型です。お父さんはイエス様に反対したサタンです。そして、カインがいなければなりません。ですから、カインのおじいさん、カインのお父さん、カインのお兄さんを屈伏させなければならないのです。(二四―三四〇)

 皆さんが伝道に行ってみても分かるでしょうが、反対する人がどんな人かというと、父母たちです。息子を、極めて愛したお母さん、お父さんが反対するのです。「アイゴー、うちの息子が統一教会に通うのは本当にいいことだ。こんな教会がどこにあるだろうか」という人が、どこにいますか? 皆さんが伝道に行くとき、そういう父兄がいましたか? ひどく反対し、怨讐になるのは、精誠込めて育てた、その父兄なのです。そのお母さん、お父さんたちは、間違いなく反対するようになっています。これが、原理なのです。それは、蕩減復帰のためなのです。何のことか分かりますか? これが延長すれば、三代まで行くのです。ですから、この蕩減が問題なのです。皆さんは、この原則をはっきり知らなければなりません。(三四―九一)

 伝道しに出て、迫害を受け、反対を受け、鞭を受けることはよくありますが、死なないだけでも、感謝と思わなければなりません。み旨の道を最初に出発した時のことを思い返しなさい。死ぬ場で、悪口を言われ、悪口を言われる場で対面し、対面する場で語り、語る場で、喜びながら発展するのです。(四二―一七二)

 部落を中心として伝道する時、反対する人がいるのは、よくあることです。反対する人がいれば、私がもっと積極的でなければなりません。サタンが私を攻撃しても、私は反対する人のため、精誠を尽くさなければなりません。相手が強く反対してくれば、その反対よりも強い熱情をもって、私側にいる人たちに与えなければならないのではないですか。そうしてこそ平均になるのです。サタン側を攻撃し、こちらのほうに精誠を尽くし、そうしてサタンが攻撃するよりもっと精誠を尽くして、その人のためになろうとする時に、「迫害する人よりいい」という言葉を聞いてこそ、発展するのです。そうなっているのです。皆さん、そのように戦ってみなさいというのです。迫害する人がいれば、その人よりも、私がもっと一生懸命しなければなりません。分かりますか?

 サタン側にいる彼らを引っ張り出すために、サタンを壊して、占領しに来たので、私を攻撃するサタンの何かがあれば、彼よりもっと一生懸命に、彼の側を攻撃できなければなりません。そうしようとするなら、私がもっと根気がなければならず、私がもっと精誠を尽くさなければならず、私がもっと優れていなければなりません。そうでないと、勝利の結果をもってくることができないのです。それは、自然の道理です。(五六―五九)

 皆さん、そのサタンの活動結果を知ることができるのは……。皆さんが伝道してみなさい。とても重要な人を伝道して、いついつの何時に会う約束をすると、その時間に必ず事故が起きるようなことが、よく見られるでしょう。そういう経験があるでしょう? (はい)。(笑い) ですから、サタンがいることを、私たち統一教会員はよく知っているというのです。それは、早朝でも夜でも、二十四時間活動していることを知っているのです。ですから「私は、二十四時間一秒でも、もっとする」という思想をいつでももてというのです。そうしてこそ、神様が協助できる条件になるのです。サタンより活動をもっとするという精神と信念をもたずしては、サタンに勝てないのです。清算できないのです。(七六―二四六)

 皆さんが統一教会に入ってきて、ある人を伝道しようとする時、ある人と約束すれば、約束したその時間に、必ずその人に何か事が起きるというのです。それは、相対的です。悪が反対するのです。それを見るとき、どの場を中心にして判決を下すのかというと、神様と私だけが残った場で、判決を下すというのです。ですからサタンは、「一人で行かず、横の人を連れていけ」と言います。「一人で行くな」と言うのです。悪い人は滅びても、一人で滅ぼうとはしないというのです。必ず横の人を押して倒れます。統一教会に来て落ちる人も、一人で落ちていかないのです。横の人にこそこそ語りかけながら、一緒に落ちていくのです。これがサタンの根性です。善なる人は、人を批評しません。聖書に、「人を裁くな、批判するな」とあるのは、全部それについての防止策です。(四五―七二)

 皆さんが外に出て伝道する時、「誰々が外に出て伝道すればうまくいくのに、私が行くと、なぜ伝道が駄目なのか。行けば行くほど、疲れて無駄な苦労ばかりする」と言う人がいます。(笑い) それは、なぜそうなのですか。苦労をたくさんするのは、蕩減をたくさんしなければならないからなのです。伝道に出ても、すぐには伝道されません。伝道に出た日から、自ら蕩減しなければなりません。

 自ら蕩減しなければならない責任が、自分の前にあるにもかかわらず、「これは、大変なのでできません」と言って後退すれば、その坂を越えられず、ひっくり返れば、元に戻ってしまうのです。こうして最後には息も絶え絶えになって転んでしまい、包みを持って逃げていくというのです。(一五五―二九六)

7 既成教会伝道

 皆さんが、どういう人を伝道対象者にするのかといえば、できればキリスト教を信じる若い青年たちを捕まえろというのです。伝道する責任者たちは、どこに行っても、教会に通う人の名簿をみな知っておいて、そこに行って、初めは牧師に会い、その次は長老に会い、上から会ってから青年指導責任者に会い、その次に青年会会長に会うのです。そうして、青年会会長をどうやって動かすのかということを考えなければなりません。

 牧師たちや、長老が反対せず、「素晴らしい活動をしているなあ、青年たちに話してくれ!」と言えるように、牧師たちに会えば、あらゆる手段を尽くして説得し、その講堂に出ていって、全体の信者たちの前で話せる機会を探すため、努力しなければならないのです。そして既成教会に行って、いつでも話せる内容を、最低三題目は準備しておかなければならないのです。最初から、「主が雲に乗っては来ない」とか言う必要はないのです。それについての話を、順序どおり話さないと、あるいは理論的にもそうなるようにして話さないと、追い出されるようになるのです。

 青年たちに対する時にも、「私の話だけ聞こうとせず、あなたが話したいことも、みな話してください」と言わなければならないのです。牧師たちに対しても、小さな者が行って「牧師様、私がみ言を伝えにきました」とは言わず、「私は幼く、牧師様はここの指導者なので、私に助けとなるみ言を語ってください」と言って、彼の言葉をまず聞かなければならないのです。そうすれば、気分よく話してくれるのです。そうして話を聞いてから、「こういう問題はどう考えますか」と、聞き入っていくのです。最初から反対するなというのです。まず、みな肯定しながら聞いて、あとで「それは論理的な矛盾があります。私はこう考えるのですが」と言いながら批判していくのです。

 そうしてから、牧師に対して、印象に残る一題目を話すのです。「これが、私が知っている新しい真理ですが、一度聞いてみてください」と言いながら、小さな話を一つだけしておいて、「私は、今までのこうした未知の事実を解決する新しい運動をしているので、今回の復興会に一度参席してください」と、誘うのです。牧師に本を渡しながら、「私は一週間ここにいるので、読んでください」と言うのです。そうすれば全部読めなくても、自分が読みたい数題目を読めば、気になって、聞いてみようとするのです。(五四―三三六)

 皆さんが、伝道しようとする時、きのう、おとといには、「牧師様、お元気でしたか?」と言いながら、引っ張られていた人が、統一教会の原理のみ言を聞いて、「この牧師は何も分からないんだなあ」と思いながら、既成教会に訪ねていって、「牧師様、堕落がどういうふうに起こったのか、知っていますか? それも分からないのに、牧師さんですか?」と言えば、それは人を殺すことですか、生かすことですか? (笑い) それが愛ですか? 全部人を捕まえて殺す役だけしているというのです。そうでなくても、憎くてたまらないのに、傲慢に下品に振る舞うので、どれほど憎いでしょうか。そう行動するので、憎しみを買うようになっているのです。(三四―二七一)

 彼らが、私たちに近づいてくるのには、二つの理由があります。その一つは、私たちの教会が問題の教団として登場するので、調べてみるためです。他の一つは、私たちの比重がだんだん大きくなるようなので、そこに同参してみようとするためです。ですから私たちが、早く大きくならなければならないのです。私たちが大きくなれば、恐ろしく感じるでしょう。ところが、自分たちより優れていると考えれば、「来るな」と言っても来ます。自分たちの暮らしに利益を見るために、私たちを訪ねてくるでしょう。

 できるだけ、一般の人より牧師たちや既成教会の信者たちを訪ねていって、伝道しなさい。悪口を言われながらも、牧師たちを訪ねていって、伝道しなければなりません。朝訪ねていって、夕方訪ねていって、たびたび訪ねていって、いろいろな話を人間的に授け受けすれば、初めは反対しても、あとになって私たちの教会について調べてみようとするだろうというのです。そういう時、再臨論をよく話してあげれば、こちらに来るようになっているのです。

 それでも、しきりに反対すれば、「私が、あなたのほうの教壇に立って講義してみて、あなた方が、私の教壇に立って講義してみて、あなた方のほうが正しいのか、私のほうが正しいのか、一度調べてみよう」と言って、しきりに追い回さなければなりません。そうすれば、「来るな」とは言えないだろうというのです。昔のように反対はしないだろうから、一度ためしてみなさいというのです。

 そうなれば、牧師たちには心配が生ずるでしょうし、その心配する牧師のもとに誰がくっついているでしょうか。そういう時は、さっと訪ねていって、「牧師さん、執事さん、あなた方の心配事は、私がみな知っている」と言うのです。誰が教えてくれたのかといえば、「ただみな知っているのだ」と言うのです。そうなれば、その人たちは、たびたび打たれるようになるのです。それが一番恐ろしい作戦です。

 サタンは信じる人の後ろをついて回ります。ですから、サタンよりもっと一生懸命、夜も昼も伝道しなければなりません。(四二―一七三)

 キリスト教徒たちを伝道しなさいというのです。伝道する時、迫害されること、すなわち私は彼らに心から対するが、彼らは私を異端として扱い、詐欺師として扱うとき、その時の激憤した心、それを忘れてはいけないのです。骨のない男になってはいけません。いつもそれを忘れず「私があの時、ああいうことをされたではないか?」。誰よりも天を思い、誰よりも人のために正義に立脚した時に、悲惨さとわびしさを受けたことを、一生において忘れられないのです。それが恵みなのです。

 その恨を、民族と共に、世界と共に解かなければなりません。その恨の根を引っこ抜かなければなりません。それを知らなければなりません。手をつける時ではないので待つのであって、手をつける日には、きれいに清算します。その日が何年後に来るだろうか、どんどん近づいてくるのです。その日が近づいてくるということが分かる時……。その日が来るだろうというのです。(五六―五八)

 私が今回何の話をしたかというと、今から統一教会に反対したなら、のどをつかんで……。私が、そういう命令をしました。宗教指導者が、そういう命令をしてはいけませんが、宗教指導者だといって、打たれて死ぬ時、足でも、一度伸ばしたり縮めたりして死なないと……。じっと死んでいくことができますか? (笑い) さあ、これだけ我慢したなら、神様もそれをちょっと大目に見てくださらないと。

 今から、ネクタイをつかんで、何をするのですか? ただ、たたくのではありません。修練所に引っ張っていかなければなりません。会議室に引っ張っていって、「やあ、こいつ、お前は今まで、レバレンド・ムーンが悪いとばかり思っていただろう? 証拠を出してみろ」と言うのです。といって証拠を出せなければ、首をつかんで、引っ張って修練所に連れていって、「三十分だけ聞いてみろ、こいつ!」と言うのです。そうして、ビデオテープ三十分のものをちらっと見せてやり、「おい見ろ、レバレンド・ムーンがお前が言ったそれと同じ者か、素晴らしい者か?」と言えば、「素晴らしい人だ」と言うのです。そうすれば、「こいつ、それなら、原理を聞け!」と言うのです。(一二六―三一)

8 伝道後の指導方法

 先生は、夜も昼もなかったのです。夜も昼もなかったというのです。ですから、皆さんも、夜が問題ではなく、昼が問題ではないのです。伝道に出て、皆さんの言葉をよく聞くようになると、さっとひもで縛ってつかんで引っ張ってこなければならないのです。

 ですから、最初に「いい」といえば、いいのです。強制的にしてはいけません。ですから、伝道だけされれば、必ず一遍に、一言も言えないようにやっつけなければならないのです。その直行コースが何かというと、修練制度なのです。修練制度、一人が三人だけ伝道して、一つとなって、完全に関係を結ぶのです。「おなかがすいた」と言えば、御飯を食べさせてあげて……。全部助けてあげるのです。勉強もさせてあげ、全部してあげるのです。着せてあげて、ここで今、それをするのです。来れば、お金がなければお金を出してあげて、「さあ勉強しろ、勉強しろ」と言って、「お前が、感謝するだけ返せ」と言うのです。早く育てて、その間に堂々と戦える人をつくらなければなりません。(七六―三三四)

 伝道された食口は、心情的な原動力をもつことが必要です。そうして、その人たちが、どんな環境でも、皆さんが指示するまま、ついてこれるようにしなければなりません。これは、まずみ言でそのようにしなければならないし、その次は行動で、そのようにしなければならないし、心情でそのようにしておけば、その人は落ちません。その次には、伝道をさせてみなさい。他の人を伝道できるくらいまで育て上げなければなりません。こうなれば皆さんは、伝道した人を一人も失わないのです。

 一人を伝道して、その人が教会に通い始めるのに、そのままにしておいてはいけません。教会に来れば、ある一題目を与え、講義をさせてみなさい。夜が明けるまで、話もさせてみなさい。そのように育てていくのです。自分が直接伝道することによって、信仰的な人格を早く築くことができ、その次には、快感も感じるようになるのです。また、多くの人と話すことによって、自信をもてるようになります。より意欲的な事件や内容を、彼に与えてあげなさい。このように約三年間指導すれば、三年分以上成長するのです。自分が直接走ってみれば、自ら定着するのです。

 子供を生んでみて初めて、真の意味で、父母に孝行できるようになるのと同じく、自ら実践してみることにより、私たちが行く道についての価値を感じることができ、神様が共にあられるということを体恤できるのです。そういう人は、絶対落ちません。ところで私たちは、今までこういう人をつくれなかったというのです。これが統一教会が発展できない要因なのです。これが問題だというのです。(二九―一九七)

 私たちは、立体的な背景を活用して影響を与えることのできる作戦を駆使していきながら、戦いもしなければなりません。戦闘が起これば、艦砲射撃もしなければならず、小銃射撃もしなければならず、援護射撃もしなければならないのと同じように、伝道も全く同じです。私たちが立体的な霊界を背景にして、先祖が動員される霊的雰囲気の中で伝道していけば、どれほどおもしろいでしょうか。

 一遍に十人ずつ伝道すると思わず、一人ずつ伝道する計画を立てなければなりません。そうして、伝道されたその人を通して、その人の友人まで引っ張ってくるようにするのです。その友人には、原理講義だけしてあげ、その次には伝道した友人が、引き受けて指導するのです。食口を育ててみてこそ、一人前になるのです。

 このように、自分が成したことを分けて分担させ、その責任圏を拡大していけば、自然に食口が増えていきます。ところが空中にふわふわと浮かんでいるしゃぼん玉のように、私たち食口がそのままでいたなら、そこから何の葉っぱが出、根が生えてくるでしょうか。(四二―一六一)