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第五章 牧会者と食口指導

第一節 牧会者の指導姿勢

一 牧会者がもつべき指導姿勢

1 牧会者は涙がなくてはならない

 天は、皆さんを基盤にして環境を再び変革させる、その責任が果たされることを望むしかないということを知らなければなりません。ですから、公職にいる統一教会の信徒たちは、涙と共に復帰の心情をもって、すべての部署においてこういう運動を提示して、国家運動から世界運動まで展開しなくては、自ら涙したこの世界を天国に転換させ得る道がないという事実を知らなければなりません。

 さあ、もう皆さんは分かったはずです。統一教会の人、本物の食口とはどういう食口であるかというと、涙を流す人であり、本物の責任者とはどういう人かというと、涙を流す人です。涙で堕落したので涙で復帰していくには、自分を中心にして泣くのでなく、神様を中心にして人類のために公的な涙をたくさん流さなければなりません。そういう涙を多く流した人ほど天の心情圏に近いのであり、それは因果法則によってもそうであらざるを得ないのです。

 さあ、それで涙の出発をどこでしたのでしょうか。個人からしたなら個人的な涙を流し、その涙の基盤を通して家庭的な涙に発展し、家庭的な勝利を基準にして、氏族、民族、国家、世界に発展していかなければならないのです。分かりましたか、何の話か。(はい)。さあ、今まではこれを考えなかったのです。けれども、今み言を聞いてみると、事実がそうだったので、これから私は涙と共に天の心情に従い、人類のために涙を流そうという人は手を挙げてみなさい。(九四―三二四)

 教会の責任者は目から涙が乾いてはいけません。世の中で本当にかわいそうな人は誰かといえば、教会の責任者です。いつも悲しみを抱いている人が教会の責任者です。神様の心情を思い、復帰摂理の時を思えば、神様がかわいそうだと感じる時が多いのです。どのようなことをして復帰の道を行かなければならないのかと考える時、私がこうであるからこういう道を行かないわけにはいかないと思う時、開いた口がふさがらず、のどが詰まって、胸が張り裂ける悲しみを感じる時が多いというのです。卒倒しそうに感じる時が多いというのです。こういう心情がなくては神様のための、神様の仕事をする人にはなれないのです。町内のどこかを歩いていて悪いものを見たなら「今は私がそのまま通り過ぎるけれども、この次に来た時に見てみよう。この私の手できれいに消し去っておくはずだ」。こういう考えをする人だというのです。(四六―二九八)

 皆さんの目から涙が乾いてはなりません。責任者の目から涙が乾いては駄目だというのです。考えてみてください。先生について正しく知り、真心から先生を思うなら目に涙が乾くことがありますか? 先生は苦労すべき人ではありません。時にうまく出会えず、この民族が責任を果たせなくて、こうして苦労しているのです。(三三―一一八)

 皆さん、感謝の涙を流してみましたか? 感謝して流す涙が雨垂れのように切れ目をつくらず、流れ落ちて自分の周囲を浸し、自分が立っている所に雨が降ったと感じるほど、痛哭しなければならないことを知らなければなりません。(一九八八・一〇・三)

 ここに集まった皆さんは、地方に出ていって責任を負って動いているからには、いつもこういう観点を失ってはならないというのです。ある時は、自分でも知らないうちに寂しさが心に染み込む時があるはずです。そういう時はその寂しさが自分の寂しさではなく、神様が受けられる寂しさであり、天使世界が受ける寂しさであり、私たちの先祖が受ける寂しさだということを知らなければなりません。そういう時ごとに、皆さんはその心情の内に入り込んで共に涙を流してあげることができなければなりません。(一四―九)

 皆さんの中で人知れず痛哭した人たちもいるはずです。草の根にすがって「神様! 私の恨みを解いてくださいませ」、あるいは岩にしがみついて「お前だけは分かるはずだ。初めに被造世界を造られた神様の願いが分かるはずだし、アダム・エバが堕落した時の神様の恨めしさも分かるはずだし、彼らを堕落させた天使が神様の前にどういう怨讐であるかということも分かるはずだ」と、何度も訴えたはずです。(一四―一〇)

 愛国者は民族のための涙がまず先立つのです。これを知らなければなりません。分かるでしょう? 愛国者はその国民を眺めるとき涙が先に立つのです。孝子は父母を思うとき涙がにじむのです。父母のために物を買うとき、涙が先に立ってその物を選んだなら、どんなに悪い父母でもその孝子の前では溶けていくのです。そういうものです。分かりますか? 父母の愛は涙に従っていくのです。兄弟間の真実の愛も涙に従っていくのです。そうでしょう? そうなるのです。

 それゆえに教役者としては、涙がなければ駄目なのです。食口が訪ねてくればうれしくて、涙が先立つ事情に徹してみなさいというのです。そうすれば、その家庭に人の痕跡が消えるかどうか見てみなさい。消えないというのです。それは間違いない事実です。愛をもった者は涙が先に立つものです。(五〇―三一七)

 この国が生きる道はただ一つしかないというのです。三千万民衆が大きな声で痛哭し、涙を流すところに返り立つのです。痛哭する前は生きる道理がないのです。それでは誰が痛哭させるのでしょうか? 私たちが汗を流して積み上げた過去の歴史が、その材料が痛哭させるのです。なぜでしょうか。数多くの人たちが自分勝手に殴って追い出し、ありとあらゆるまねをし、使い回し、召使の真似をさせたのです。時が来ればその事実によって、三千万民族がこのみ旨を奉らなければならなくなるのです。十人の人がある部落に行って苦労したなら、十人の人が過ぎた日の事情を話すのです。みんな集まって「私たちはこの部落で過去こうでした。あるおじいさんがこうして追放し、誰がこうして棍棒でしたたか打って……」と。行って事実を報告するとき、その部落民たちが痛哭することによって、そこから犠牲の道が起こっていくのです。(一五五―三三〇)

 皆さんの目に天に対する涙が乾いています。生きているお父様に侍り、感情をもっているお父様に侍って、孝子、忠臣の道を歩むという皆さんの目に涙が乾いています。それでは駄目です。(五六―三四)

 皆さんがそうですか? 皆さんの教会がそうですか? 冷え冷えとして、冷気が立ち込め、ただ乾き果てて……。それは駄目だというのです。それは皆さん自身がそうだからです。そうならば、責任者はその町内を見ながら自己反省をしなければなりません。「どこそこの町よ! お前は福が多い町か? 災いを受ける町か?」というように……。皆さん自身の心性は、皆さん自身がよく知っているのです。「先生が教えてくれた道理を中心にして、天理の道理を中心にして生きるのが原則なのに、私自身がそうなっていないので、私に頼って天の道理を探そうというお前たちはかわいそうな者ではないか。それでも私を鞭打って、私とお前と互いが訓練し合って、互いに教え、教えを受けながら天の道を尋ねなければならない共同の路線を探してみなければならないのではないか」。こういう一問一答式の祈祷をしてみなさい。やってみましたか? これは、人が来たなら「ああ、献金する人、献金をよくしてくれる人は誰か。私に助けになる人は誰か」。絶対にそういう考えをするなというのです。

 昔、私は釜山に巡回に行きました。先生が来るというので若い人たちはみな駆けつけて、背の高い者たちが……。ところで、彼らの後ろに八十歳になるおばあさんがいたのです。そのおばあさんがついてきて涙をぼろぼろ流しながら、「ああ、私も若くして先生に会ったならどんなに良かっただろうか」と嘆くのを私は見たのです。食口たちはその夕方にも先生が話してくれるものだと思っていました。しかし話をしてあげなかったのです。そのおばあさん一人を連れて夜を明かしたのです。そういう心、それが神様の心だというのです。皆さんの心もそうあるべきです。(八一―三二七)

 皆さんの目から涙が乾いたというのです。皆さんは信仰の道に入ってきて、涙、鼻水、よだれ、その三つが集まった水になって、そばのように伸びてしゃくりあげるとき、息が詰まってあえぐようになるまで痛哭をしてみなければならないのです。何の話か分かりますか? (はい)。そうやって泣けば唇が全部はれます。口の中まで全部はれあがるくらいに、そういう悲痛な涙を流してみなければなりません。(五六―三六)

2 関心がなければならない

 考えていないものが因縁を結ぶことはできず、因縁を結んでいないものが関係を成立させることはできません。(二一―八六)

 今日、人々は人に対してあまりにも無関心です。横的関係において、横的な因縁を中心として互いに尊重することが少ないのです。老若男女を問わず、人に対して煩わしく思っています。人が煩わしくなると修道の道を行く人になれません。

 神様が復帰摂理をされるとき、私たち大韓民国だけを必要とされるのではありません。世界三十億人類を、すべて必要とされているのです。そのため、人に対する深い関心をもっておられるのです。これは今まで神様の摂理の中で、一番重要な目標でした。私たちがその目標を成すために集まった群れであるならば、すべての人に対して、神様と同じ位置から関心をもって対してあげることができなければならないのです。

 これはうわべだけそうするのではありません。本心からわき上がってくる心をもつようになるとき、最高の因縁を結実する位置に立つことができるのであり、関係を結ぶにあたっても最高の関係を結んだ位置に立つことができるのです。こういうことを知って、これから食口はどんな困難があり、どんな環境にぶつかって苦難を受けるときにも、互いが受けたのと同じ心情で、同情する心をもたなければなりません。

 人を愛するにあたって誰よりも先頭に立つとき、どんなに秋が来て、冬のような試練の絶頂が来たとしても、突き抜いて出ていくことのできる生命力をもつようになるのです。それで、そういう生命力は春に向かって力いっぱい生き残って、新しい世界の生命の母体になるということを皆さんが感じるよう願います。(二五―二九一)

 私たちが心霊を指導するためには相手の心を観察することができ、相手の難しい問題に対して敏感でなければなりません。商売する人たちは、ある家へ行って犬がほえただけでも、この家の人がこの品物を買ってくれるかどうかが分かるのです。多くやってみると、買ってくれる人の表情がどうだという統計が出るのです。そして買わないという人に買わせる基準、そういう能力もなければならないのです。

 そういう経験を多くすれば、相手に会ってその顔をさっと見ればもう、心配があるのかどうか一遍に分かるのです。何を見れば分かるのかといえば、目を見て、唇を見れば分かるのです。深刻になる時は、目が変わり、口が変わるのです。そうですか、そうではないですか? 好きになればすぐここ、ここが変わるのです。研究してごらんなさい。そうかそうでないか。笑おうとするとき目と口と……。

 なぜそうかといえば、顔には動くものが二つしかないのです。心の表情があるなら必ず動作するようになるのです。ですから皆さんが話をすれば、喜んでいるのか、嫌がっているのか一遍に分かるのです。何を見て分かるのかといえば、目と口を見て分かるのです。それを測定してみれば、この人が「ハハハッ」と笑える度数がどのくらい満ちているかということが分かるのです。その測定方法をキャッチして、皆さんが心霊を分析して指導していかなければなりません。

 そうしようとするならば関心がなければなりません。関心がなくてそれをキャッチできますか? 先生は誰とでも三日間だけ一緒にいれば、その人のすべてのことをキャッチすることができるのです。座るのを見ても大儀そうに座るのかそうでないのかを一遍に分析できるのです。今それが評判になっています。

 私が、自分の問題を扱ってくれ、自分の問題を考えてくれ、自分の問題を問題視してくれたなら、その人は自然に私に対して有り難く考え、関心をもたないわけにはいかないのです。それを研究しなければならないのです。(六九―一六六)

 食口(被伝道者)に対するとき、関心と愛着をもって興味深く対しなさい。(二三―二四九)

 完全な主体の前には必ず相対が現れます。これが真理です。どこででも習いなさい。そういう人は通り過ぎるこじきの足どり、小鳥の鳴き声からも啓示を受けます。考えもせず関心をもたなければ、良いものと関係を結ぶことはできません。考え、関心をもって良いものと関係を結びなさい。(一四―九六)

3 熱意がなければならない

 人間は誰でも熱意をもつ人に憧れるものです。熱意をもって直行しようとする人は、その行く手に冒険が加重されてこようとも、それを打破することができるものです。しかし熱意がない努力は、中断されやすいものです。

 ですから前進を願う私たちにおいて一番必要なものは、私自身がどうやって連続的に前進することができる熱意の補給を受けるかが問題です。熱意がなければ刺激を受けることができないのです。また熱意のない刺激は必要がないのです。強い刺激は強い熱意によって因縁づけられるという事実を考えるとき、熱意に満ちた環境、熱意にみなぎる個体、熱意にみなぎる相対を追求しなければならないのです。

 完成された人格、無限な人格を追求する私たち人間には、無限な熱意がなくては駄目なのです。無限な人格を追求することのできる私たち自身を見るとき、いつでも連続的にその熱意を追求することのできる自分自身になっているのか、そうでないならそういう熱意をもって目的を達成させようとする私自身になっているのかが重要な問題です。

 こういう二つの立場のうち、どちらか一つの立場をなさずには、完成された人格を追求することはできないのです。(三六―九八)

 神様を追求する私たちにおいて信仰生活を中心にしてみるとき、信仰の道には必ず冒険があとに続くのです。それは環境とともにこれを解決しなければならない闘いの路程が残っているからです。そういう道を強い信念をもっていくなら、その信念に比例するくらい消耗戦が起こるようになります。その時、その消耗戦を克服して余りある熱意がないときは、その環境で、前進どころか後退するようになるのです。そうならないようにするには、そういう熱意を補給させ得る力が自体内にあるかどうか、それがなければ相対的にそういう母体である神様と因縁を結んで、その熱意の補給を受けなければなりません。そうでなければ前進することができないのです。

 それでは、神様はいつもそういう熱意に徹することのできる位置にいらっしゃるのかという問題を見るとき、当然神様はそういう位置にいらっしゃらなければなりません。ですから、そういう位置にいることのできない人間をその道に押し出すことができるのです。神様は全知全能の方であり、できないことがない主体であられるので、熱意においても主体になられるのです。しかしどんなに神様が熱意の主体であられるとしても、私自身が自ら熱意を受け入れることのできる地になっていなければならないということを、私たちは知らなければなりません。(三六―九八)

 それでは、私たちが神様の熱意の補給を受けるために必要なものとは何でしょうか? 神様は純粋ですから私たち自身も純粋でなければなりません。ここで第三の目的を追求するとき、私たちはその目的が私と共に永遠な因縁で結ばれることを切に感じなければなりません。言い換えれば、それは三角関係にありますが、私の中にあるものであり、私と共にあり得るというのです。

 私たちの自体内にあるその目的意識をどれほど自覚できるかという、その自覚の感度が熱意に変わり、熱意の本体であられる神様を誘導することのできる導火線にならなければなりません。

 ところが私自身が無力で熱意の導火線になる道がなくなるときは、神様と私との関係を一致させることができないのです。言い換えれば、一つの動脈があれば一つの静脈にならなければならず、一カ所から与えれば一カ所から受けなければならず、百を与えれば百を受け入れることのできる私自身にならなければならないというのです。

 それでは熱意を誘発させることのできるその動機とは何でしょうか? それは純粋でなければなりません。邪悪なものがあってはなりません。百が入ってきたら百として純粋に反映させることができなければなりません。これが問題になるのです。また、その熱意というものはどこから発生するのでしょうか? 純粋なものを基盤にして発生するのです。その純粋な基盤を中心にして熱意をどのくらい追求するのか、どのくらい必要とするのかということによって発生するのです。言い換えれば、どのくらい思慕し、どのくらい欽慕し、私自身がその無限な熱意の主体の前に現れることができるのかということが問題になるのです。そこには慕わしさが先立たなければならず、切実さが先立たなければならないのです。切実さがあるその裏面には、必ず熱意があるという事実を私たちは考えなければなりません。

 その主体が神様だと考えるようになるとき、私たちは神様に会いたいし、出会いたいし、一緒にいたいだけでなく、神様の愛を受けたいし、愛を受けながらその愛の中で生きたいし、その愛の中で有終の美を飾りたいし、欽慕の心情がなければならないのです。こういう願いの心が切実なところから純粋な地を中心にすれば、神様のその愛の因縁が私と共に関係を結ぶのです。このように考えるとき、私たち自身がどれほど神様を慕わしく思うのかという問題が生じるのです。

 どれほど神様を欽慕し、思慕したのでしょうか? 現在の私の立場をすべて忘れて、神様の前にすっかりささげることのできる立場に立っているのかという問題、言い換えれば、完全なプラスの前に完全なマイナスになることができるのかという問題が生じるのです。その完全なマイナスとして完全なプラスの前に対することができる、そういう境地に入るようになれば、完全なプラスは完全なマイナスに対して直行してくるのです。純粋な直行の行路を通して、その完全なプラスは完全なマイナスに向かって突進してくるというのです。そこで、マイナスは新しく後方から押してくれる反対の作用を引き起こすのです。(三六―九九)

4 包容性がなければならない

 今、皆さんは縮こまり、みすぼらしく見え、粗末な着物を着ているけれども、すべてのものを備えて内外に立体性を取りそろえていれば、美しく見えるのです。そのときの美というのは、天地宇宙を与えても換えることのできない最高の美なのです。先生の目で見てもそうですから、神様が見ればなおさらです。こういう資質を備えれば、天地すべてのものは皆さんに入っているのです。目を見ればその目に天地の悲しみが入っており、手や足、どこを見ても天地を代表するものがあるのです。こういう傑作品をつくろうというのが先生の志です。

 先生が若かった時は、古物商に行って他人が着て捨てた安物の服を買って、着て歩きました。若い女性たちがついて来れないように、臭いがする服を着て歩きました。横に行けば避けて逃げる、そういう服を着て歩きました。統一教会の男なら大ざっぱでなければなりません。靴下に穴が開いていても堂々としていることができなければなりません。大きい山には、生えている樹木が多く、五色の鳥や動物たちが巣くうのと同じように、皆さんもすべてのものが宿ることができる、そのような何かをもたなければなりません。そうすれば自分の全体の姿勢を備えて、それが一つの美として現れるようになるのです。服を立派に着たからといって美しいのではなく、立派に装ったからといって美しいのではありません。天地に評判になり、関心の的になり、全部がうらやましがることのできる自分にならなければなりません。(一四―二九)

 皆さんが最初に教会に来た時に喜んだその喜びが、全部倒れてしまってはいけません。それが正常に蒔かれた一つの種になっていれば、そこから実を結んで数十、数百の種を刈り取り、その種をまた蒔いたなら数十、数百の春の日を迎えるのではないでしょうか。寂寞たる江山の上に一輪の花が咲き、数多くの花を咲かせ、花畑をなして、数多くの香りを漂わすことのできる香気の園をつくらなければならないのではないでしょうか。皆さん自身が、そういう香りを漂わすことのできる結実した園の真ん中に立っているのでしょうか? そうなり得ていないのです。

 私が自分自ら漂わす香りを楽しむということは孤独なことです。しかし多くの香りの中で、たくさんの香りとともに私がかもし出す香りは高貴なものです。それは大衆が宿ることができ、万物が和動することができる要件になるのです。しかし一つだけでは寂しくわびしいものです。(六〇―二六)

 責任者には、生命の感謝と生命の潤いがいつでも泉のように流れ出る、そういう何かが自分自らになければならないのです。苦痛に満ちていても平安であり、そこに安息することができる、ねぐらと同じように生命が宿ることができる、そういう安息所が自分の心になければなりません。その姿勢、そういう位置に立って、その次にどうなるのか? そうであるならば神様が共になされるのです。結局何かといえば、上下関係の連結をしなければならないというのです。(七〇―一四八)

 愛のリーダーは融通性があるものです。すなわち、正しくかみ合いさえすれば、どこへでも入らずにはいられないというのです。全部が入るようになっています。そうだとすれば、それはどれほど格好がいいでしょうか。そうすることができれば、神様が通じます。(一一九―一九五)

5 山(鉱脈)を当てた鉱夫の例え話

 昔、アメリカの東部の人たちが西部を開拓することができた要因とは何だったのでしょうか? その時の政治家たちの政策的な宣伝です。西部に黄金の山がある、何かがあるといい、天地に敷かれたものがすべて鉱脈であり、金の塊で、それは先に行って取り出した人のものだと宣伝をしました。それで死ぬか生きるかも知らず、インディアンであれ何であれ、生命を投げ出し、同僚が死んで倒れたのを見ても、もう少し行ってみよう、またもう少し行ってみようということで西部を開拓したのです。彼らはうわさが事実であると思ったので、みんな死んだとしても自分が残った日には、一獲千金を目指して天下第一のお金持ちになれるだろうという願いに火がついたため、西部を開拓することができたのです。

 人々はそうです。鉱夫は鉱脈を当てるために出かけて、疲労困憊して死の境に至って、つるはしをもう一度だけ振るえば倒れる瞬間だとしても、もう十回だけ掘れば間違いなく鉱脈が出るとしたらどうしますか? 皆さんなら、つるはしを振るいますか、振るいませんか? 死の際だとしてもやるというのです。ですから問題はどこにあるのでしょうか? 皆さん自身にあるというのです。

 皆さんが神様がおられることを知ったなら荷物をまとめなければなりません。嫁に行くとか、婿に行くとか、引っ越しをしなければならないならば、それに対して準備をしなければならないのと同じように、準備をするのが信仰生活です。引っ越し荷物を作って、行く準備をするのが信仰生活だというのです。

 そういう瞬間が来るのです。今と同じ世の中に、ただそのまま暮らしていてはいけません。滅びていく世の中の汚いほこりをすべて払い落とし、つばを吐いて「私は行く」という心で、荷物をまとめて、新しい世界に行く準備をする生活が信仰生活です。これは間違いない言葉です。

 神様がここに生きようとされるでしょうか? 神様が、皆さんが今住んでいる所でそのまま生きようとされるかというのです。ですから荷物をまとめなさいというのです。世間とは因縁を切らなければならないのです。

 それでは、荷物をまとめてどこに行くのでしょうか? それが漠然としているから心配なのであって、そこを確実に知りさえすれば死んでもいいというのです。私がすべての精誠と生命を尽くしてこの道を行くのはこの道が間違いない道だからであり、この道をすべて行き尽くしたら、私が磨いておいた苦労の基盤を、そのまま人類歴史に相続してあげることができるということに生き甲斐を感じるからです。(三三―二三五)

 大衆を指導するには、一つの方法だけをもっては駄目なのです。分かりますか? 松の木の根を掘ってごらんなさい。牛の角ではなく松の木の根です。松の木の根には筒の根があります。それをうやむやにしたら抜くことができないのです。もてる力を尽くして腰が折れるほどに一気に抜いてしまってこそ、根の先が切れずに出てくるようになっているのです。そういうふうに抜くときに一気に抜いてしまわなければなりません。ごっそり、全部一度にです。割れ目だけできれば、ダイナマイトを使わなくてもいいのです。(一二二―一六五)

 大衆指導をしようとすれば、指導することのできる才覚がなければなりません。指導するということは順理的にはいかないのです。しかし一発たたいておいてやるようになれば、すべて動くのです。全部たたくのではなく、代表的に立たせてぶん殴るのです。そうなのです。他人は先生を悪く言うかもしれませんが、悪口を言う人が何人になるでしょうか。そうしないで六千名にどのように相手をつくってあげますか。もじもじしていたら何もできないのです。さっさっさっとしなければならないのです。何の話か分かりますか? (はい)。(一二一―五四)