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二 伝道者の姿勢

1 伝道出発前の準備

 皆さんは、伝道に行きたくて夜眠りもせずに、世間にどんな貴いことがあってもみなよけておいて、天の国の一員として、み旨のための一員にならなければなりません。それで汽車に乗っていきながらも、「車よ、よく行くのだなあ。きょうは、私の一生の貴重な日として一ページを記録できる、最高の瞬間になるだろう。神様、ありがとうございます」と、こう言える自分にならなければなりません。世界で一番難しく、大変な場で「私は一等の国民だ」と、堂々と宣布できなければなりません。神様を愛そうとすれば、皆さんは欲張りにならなければならないのです。(二四―三三六)

 皆さんは、伝道対象者を前にして夜を更かし、痛哭して祈祷してみましたか? 自分の母、父が死んだ以上に悲しみながら、また愛する恋人が死んだ以上に悲しみながら、痛哭してみたかということです。してみましたか、してみませんでしたか? してみなかったならしてみなければなりません。夜を更かしながら痛哭しなければならないのです。一つの生命を生かすことさえできるなら、何も惜しいことはないというのです。お金や、服や家が問題ではないということです。人を愛するのに、狂わなければなりません。(三四―二七〇)

 皆さんが、教会に来るとき、ここにいる食口たち、これくらいの食口たちだけでは駄目なのです。皆さんが、教会に来るときは、自分の父母、妻子をみな連れてこいというのです。自分の兄姉をみな連れてこなければなりません。皆さんが、お母さん、お父さん、自分のおじさんや、姻戚のはとこまで伝道するために、どれほど血の涙を流したのでしょうか。その一つの生命を引っ張ってあげるため、夜を更かしながら、精誠を尽くして、祈祷しながら、自分の一身を祭物として、どれほど身もだえしてみたのか……。というのです。これが問題となるのです。皆さんは、その置かれた環境において、中心にならなければなりません。皆さんが中心となって行かなければならないということを知らなければなりません。(四一―九〇)

 伝道しようとすれば、人の心理を研究しなければなりません。表情や、歩き方だけ見ても、あの人が喜ぶか、嫌がるか、分からなければなりません。その人の感情を公式的に鑑定できなければなりません。

 自分の妻や、家で一緒に住む人の足音だけ聞いても、彼にいいことがあるのか、悪いことがあるのか分かるのです。そうして、自分の妻が、部屋にすっと入ってくれば、「あなた、何で気分が悪いのか」と言うのです。そうすれば、妻は、いつ見たわけではないのに、既にだんなさんがみな知っているので、言うことがないのです。そういう定規をもって暮らさなければなりません。関心をもって祈祷するようになれば、その人が、私に関心をもつようになるのです。(四二―一七四)

 皆さんが、伝道に出るときは、全部霊的に指導を受け、コーチを受けてこそ、その次から、これが開かれていくのです。例えば、市場に行っていた人が車を運転して、皆さんのいる所を探し、皆さんの家に来れるようにつくる霊的な何かがなければならないのです。そうしようとすれば、どうすればいいのでしょうか? 自分の愛する人が来るより、より深い心、愛する人を探して迷う心と同じような心をもって、伝道しなければなりません。そういった雰囲気にならなければ駄目なのです。(九六―三二〇)

 私たちが伝道をする時も、きのう伝道する時の心と、きょう伝道する時の心が、出発する時から違わなければならないのです。言い換えれば、過去にはこういう心をもって出たけれども、きょうは新しい心をもってなさなければならないという覚悟で、出発の動機から、そのように違う覚悟で行ったなら間違いなくいい結果をもたらすというのです。しかしそうもできず、昔よりもっと低い立場で、きのうより駄目な心で出発するようになれば、必ず後退の一路を歩くようになるのです。そのような環境の中で、継続的に仕事をすればするほど、そこに破局を自ら招くようになるのです。また、それが一方的でなく、四方的に、そういった後退の感情を起こしていくなら、いくら目的が大きく、いくら固く決心をしたとしても、それは停止状態として、動こうにも動くことのできない完全に固着した立場を、私たちは体験するようになるのです。(四二―六六)

 それから、伝道に出る時、「お金がなくて行けない」ということを言うなというのです。イエス様がお金をもっていましたか? 神様は復帰歴史を、お金をもってしましたか。生命をもってしたのです。血をもってしたのです。それでキリスト教の歴史は、血で蕩減した歴史なのです。血をもって、生命をもってしたのです。お金をもってしたのではありません。お金をもって生きて死ぬのは、賃金労働者です。息子、娘はお金で育てるのではありません。そうでしょう? そう知って、皆さんがそういう心をもって行くようになれば、天が必ず役事するだろうと私は信じます。(一五四―二一〇)

 ゆえに、伝道に行くときは、伝道費を持っていきません。イエス様は、気が狂ったようだったでしょう。その、反対を受ける弟子たちを見ると、伝道に行くのに、みなお金も持たず、着る服も持っていかず、そういうことがどこにあるのですか。飢えて死ぬのが当然のようでしょう。これは何ですか。こじきの中のこじきになって行こうというのです。それはなぜですか? なぜそうだったのですか? キリスト教徒たちは分からないのです。なぜそうしましたか。これは重要な問題です。愛する弟子たちの前に直接命令するその道、一文も持たず、二着の服も持つなという、それがキリスト教の伝統的思想だということを知らなければならないのです。弟子たちに初めて指示したことなのです。その精神がクリスチャンの中心です。先生の言葉は合っていますか、間違っていますか? (合っています)。(一一八―一七七)

 伝道に出る時は、お金をたくさん持っていくな、心情をもっていけ。(二七―二六七)

2 精誠と伝道

 皆さんが、伝道しに行くというとき、ただ行ってはいけません。どれほど精誠を尽くして行くのかということが問題です。ある人を伝道する際に、一週間や一カ月、あるいは、一年、二年、三年はかかるだろうと思えば、その期間は精誠を尽くさなければなりません。雨が降っても、雪が降っても、御飯を食べても、寝ても覚めても、あるいは行こうが来ようが、休んでも、どんな行動をしても、一体の心をもって、その人の前に完全に、全部与えてみよということです。完全に与えれば、完全に返ってくるのです。これが原理です。

 ゆえに、神様を愛するにおいて、どれほど精誠を通じて愛し、人間を愛するにおいて、どれほど精誠を通じて愛するのかが、問題なのです。これが霊界に行って人格になるのです。栄光の基台になるというのです。(四二―二二八)

 皆さんが伝道してみると、伝道ができないのですが、できないことをしなければなりません。して、またして、石を海に投げるのと同じです。そうすることによって、海の水をみな埋めて、山になる時まで、限りなくするのです。そうすることによってどうなるのでしょうか? 私が心情的に成長するというのです。体は何も変わることはありませんが、心情が成長するというのです。

 早朝に起きて、その村のため、自分が引き受けた責任地域のため、祈祷し、涙を流すその道は、心情的で、霊界と霊的な因縁を結ぶ道です。神様が村内を見下ろすと、みな地獄に行くしかない人間なので、涙を流すしかないのではないかと思って、神様の代わりに自分が涙を流すということを自ら感じるというのです。神様の心情で涙を流せるそのような共鳴力が入るなら、霊界が総動員するのです。

 人間として、神様の前に、感動的涙を流して、神様が「やあ、有り難いなあ! 堕落したアダム・エバの後孫は、昔のアダム・エバよりましだなあ!」という感動を受けて涙ぐむ場に入ってこそ、霊界と通じます。「堕落したアダム・エバの後孫として、天を背信した後孫が、こんなことでいいのか」と言いながら、神様が感動的涙を流してこそ、霊界が協助するというのです。そこから霊界が開かれるのです。それ以下では、絶対駄目です。それが原理です。原理、原理なのです。ですからその場と、皆さんと、どれほど距離が遠いかというのです。(九六―二八二)

 伝道しようとすれば、自分が原理のみ言を知らなくても駄目だし、自分が涙を流すことができなくても駄目だし、精誠を尽くさなくても駄目なのです。(二〇―三四五)

 どこに行っても、一人でいるときには、いつも祈祷せよというのです。いつでも考えを集中させて伝道する人は、その目を通して見るとき、即刻的に伝道するのです。環境とか、位置は考えないのです。それが、ぴったりと合っていくのです。それが行く道なのです。そういう自分になってこそ、世間で生き残るのです。どこに行っても成功するのです。都市で歩いていて、商店を見ても、あの品で商売すればもうけが残るだろうということが、すぐ分かるのです。何のことか分かりますか? 天が共にあるのです。今はっきり分かりますね? 人類と神様に重荷になる人が人類を解放することはできず、神様を解放できないという事実、それは真理です。(一二八―一七三)

 今、世界の私たち食口たちの中でも、先生を知る前から、先生を夢の啓示の中で見た人が多いのです。ここにもそういう人がいるでしょう。統一教会に入り、先生に会ってみると、統一教会に入る前に、夢の中で会ってみたこともあり、教えを受けた因縁があったという人たちなのです。分かりますか? それは、自分の先祖たちが善であるのでそうなのであって、自分のできが良くてそうなのではありません。先祖たちの功績を通じて、そうだったということを、皆さんは知らなければなりません。そういうことが起こるのです。

 そういう因縁をもつようになれば、そこに相対される人は、やけに心が不安で、自分は他の所に行かなければならないのに、北側にしきりと行きたくなるのです。しきりに行きたくなるのです。それで引っ張られる所に行ったところ、人にふっと出会ってみると、因縁を結んだ人に会うようになるのです。

 ゆえに、皆さんが伝道に初めて行くとき、祈るような気持ちをもって精誠を尽くしながら行けば、自分が行かなければならない方向が分かるようになるのです。このように天が導く道に従って生活すれば、遠くにいらっしゃる神様でなく、自分の生活圏の中で、すべての心情的変遷を主管される、左右される、主体的神様を感じるようになるのです。ゆえに、神様を感情的な自然の環境に接して暮らされる父として、侍ることのできる生活をするために努力しなければならないのです。(五〇―三一五)

 皆さんは純粋な立場で、祈祷をたくさんしなければなりません。ある部落で伝道しようとすれば、早朝に起き、その部落を眺めるとき、その部落が死んでいく子供のようであり、自分の息子、娘のように感じなければなりません。そうして、夜を更かすように、その部落のために痛哭することのできる心をもって、伝道してみろというのです。そうしたのに伝道が駄目なら、先生が責任を負います。(三六―一三四)

 伝道するため、徹夜してみましたか。先生は夜もたくさん明かしました。あの世で、聞くでしょう。伝道するため幾晩明かしてみたかと。皆さんは、すべての力をささげ、伝道しなければなりません。(一〇―二五二)

 精誠を尽くして、どれほど天が協助したのか見なさい。地で自分の親戚と両親を伝道しなければ、あの世に行って彼らの讒訴を免れないでしょう。(一八―一三四)

 伝道するにおいても、商売するのと同じように伝道しろというのです。効果的にせよというのです。昔は、伝道に行く時、どこに行っても何の準備もなく通ったけれど、今は準備して行けというのです。精誠を尽くして通えというのです。分かりますか? 昔と違わなければいけないのです。(一〇二―四五)

3 伝道隊員がもたなければならない姿勢

 皆さんは、「生きた人間」哲学を探究しなければなりません。いつも私がどうすればあの人を、先生に、あるいは皆さんに、導くことができるかを考えよというのです。その人たちが、皆さんに引っ張られるようにせよというのです。こうするための、ただ一つの方法がありますが、先生はその方法を知っています。それは他の人をあがめるという精神です。人間には自分に利益になることがある時には、いつでもその方向に行こうとする本性があります。

 皆さんの接触している人が利益を受け、皆さんが与えれば、皆さんは自然に他の一人を導くことができます。もし皆さんがその相手から、ある利益を受けようとすれば、障害が生じるようになります。皆さんがある人をあがめれば、皆さんは彼と近くなるのです。このような方法を通じて、皆さんは、すべてのことを教えることができます。伝道は、自分のためのものではないという固い信念をもたなければなりません。

 問題は、皆さんが一人の個人を救うため、彼にどれほどのエネルギーを投入することができ、彼の心を動かすためにどれほど与えることができるか、ということです。それが私たちの活動の核心です。このようにすることによって、皆さんは神様の心情を知り、神様がアダムにどれほど多くの力を注がれ、またアダムを復帰するため、どれほど多くの力を注がれたかということを知るようになるのです。

 皆さんも一人を中心に、神様と同じ心情をもたなければなりません。皆さんが、その一人に皆さんのすべてのエネルギーを投入はできないといっても、「私はこの件では最善を尽くします」ということだけは決定されていなければなりません。それが、皆さんのもたなければならない心の姿勢です。

 そういう心の姿勢をもってこそ皆さんは、神様がアダムを再び探した時の、喜びの涙を知るようになるのです。そして皆さんは、神様の心情を体恤するようになるのです。ゆえに、伝道に出て人に会うとき、皆さんは、それと同じような悲しみの涙を流さなければならないのであり、また神様が一人の人間について感じた愛を感じなければならず、その立場を感知しなければならないのです。

 皆さんは、それと同じようなことを経験するため、努力しなければなりません。そうすれば、その人が神様に帰ってくるとき、皆さんは彼と一緒に、喜びの涙を流すようになるでしょう。彼は、悲しみのその瞬間、そして苦痛のその瞬間を永遠に記憶するでしょう。そういった状況で、皆さんがその人の知っている過去に過ごしたどの人より、より大きい感動を彼に与えるようになれば、皆さんは永遠に忘れられることはないでしょう。その時、皆さんは彼に、彼の友人が与えることのできる助けよりも、より大きい助けを与えなければなりません。彼が喜ぶ時には、彼に似合う何かを言ってあげ、苦痛を受けるようになればその苦痛を心配してあげ、慰労してあげなければなりません。伝道する時には、このようなことを考えなければなりません。このような関係によって人間は、互いになじみ合っているのです。(五二―二七六)

 路傍伝道をする場合においても、私一人ですると考えるかもしれませんが、決して一人ではありません。皆さんは、いつでも神様の心情の中にいるという考えをもって、国を一つの祭壇と考え、その最低点に立っている自分だということを知らなければなりません。そういった場で、「すべてのサタンよ、来るなら来てみろ」という心をもって、伝道しなければなりません。そういった勇気と、経験が必要です。(一八―二七六)

 皆さんが、地方に行って伝道する時は、皆さんの個体が行って伝道するのではありません。天の国全体に代わって、出ていって戦うのです。全家庭のため、行って戦うのであり、全兄弟と全食口のために行って戦うのです。(一五―三〇四)

 皆さんは、伝道に行くとき、一人で行ってはいけません。必ず、伝道に出られない人たちと連係作戦をしなければなりません。そうして、一線と後方が、合同作戦をしなければいけません。一線にいる人は、前で戦い、後方にいる人は、精誠を尽くし、精神的にも、物質的にも協力しなければなりません。そういった精誠がなくてはならないのです。今回は、仕方ない食口は行かなくても、みな同席したという条件を立てなければなりません。(一一―二一〇)

 伝道しても、女性は一人で行くなというのです。歳の多いおじいさんやおばあさんでも、杖をついて歩くおじいさん、おばあさんでも連れていけというのです。そうでなければ、小学校の学生でも、一人連れて歩けというのです。分かりますか? (はい)。伝道するなというのではありません。危険なのでそうしろというのです。(六六―二二六)

 今回の期間に、皆さんが引き受けた地域に行けば、「面の者たちは、みんな来い。面の出身の霊人たちよ、みな集まれ! 忠誠大会をしよう」と言える覚悟で仕事をしなければなりません。ある反対者が現れれば、皆さんは、彼が自分の子供にも与えることのできない大きな愛で、父母の立場で、その人に対してください。被造物の生命の要素になるのは、神様の愛なので、極致の愛は、その者を屈伏させることができます。また父母が、自分の子女のために仕事をするよりも、より大きな奉仕で、その反対者のために仕事ができる子女の立場に立ってください。そうすれば、その反対者を屈伏することができるようになります。(一一―二七四)

 伝道しようとする人がいるときには、自分に何か貴いものがあれば、それを全部与えようとする心がなければなりません。服なら服を与えようとする、そういう心が前に立たなければならないのです。また自分に食べ物があれば、「アイゴー、おなかがすいているので、自分が食べよう」というのではなく、おなかがすいても、新聞紙で包んでおいて、「誰か来ないかなあ」というのが父母の心です。食べ物を見ると、「おなかがすいたから、自分が食べなくては。誰も来ないだろう」という考えをするのではないのです。自分がおなかがすいても、ある人がおなかのすいた立場にいれば、それをあげて、自分が食べるという考えを乗り越える心情です。そういった自分にならなければなりません。何のことか分かりますか? (五〇―三〇七)

「果たして、自分は伝道したい心が切実か」ということを考えてくださるようお願いします。ある力をすべて尽くして、死んでもいいと思わなければなりません。私は神様の心情が分かるので、皆さんを追い出すようにするのです。(一二―三二九)

 今、伝道しに行く人たちは、原理のみ言をよく知らないからといって心配することはありません。出ていって、忠誠を尽くして動いて、原理のみ言を語れる人が来れば、それに従って、み言を聞きに来れるように、人を動員する運動だけすればいいというのです。また、相手が原理のみ言を語ってくれというのに、「私は原理のみ言が分からない」と言ってはいけません。原理のみ言を精誠を尽くして語り、そこに不足なことを、今後、本部人員を配置して補充しようというのです。(一五〇―三二七)

 皆さん、伝道できないと考え、心配するなというのです。統一教会で伝道しなくてもかまわないというのです。心で、「あの人たちはいい人たちだ」といううわさを起こすのです。分かりますか? 「あの人たちは、絶対借りをつくるのを嫌がるのだ。一度してあげれば、その何倍も返してくれるのだ」。そういう人なら、嫌ではないのです。(八五―四二)

 大衆に対して、痛哭するように訴える心情にかられなければなりません。人に会えば、私ののどから血を吐いても、一人を伝道するためにそれをしなければならないというのです。こうであり得る心がなければならないのです。痛哭して、涙を流しながら、一人を伝道するため訴えてこなければなりません。(一二五―二三)

 皆さん、伝道に行って活動する時、先生が説教したように、体がどうなっても、鼻に何が入っても、目に何が入っても、そのように伝道すれば伝道されない人はいません。

 鯉のようなものをつかむときは、明珠(注:輝き光る玉)のようなもの、小さなものがあれば、背にさっと載せれば、釣れるのです。皆さんに今、教えてあげるのです。それを手でつかもうとせず、簡単につかむ方法は、小さな網をかぶせて、こうしてひっくり返しに引っ張るのです。あのえらが、後ろにこのようにひっくり返っているので、網をこうすれば、すぐに引っかかるのです(行動で示しながら語られる)。えらが、こうなっているのです。それはみな、捕まえて食べられるようになっています。(九二―三二二)

 皆さんは、伝道に出て物質についての苦痛と、人についての苦痛と、心情についての苦痛を体験しなさい。

 悪い人までも、同情心が起きるようにして後援を受け、帰ってこなければなりません。(一一―七五)

 自分一人で、独自的に「何がどうで、どうだ」と言いながら、非難してはいけません。地方に行き、伝道する時も「私がまず頑張らないといけない」と考えるとするなら、それは間違った考えです。私がよくやって、先生に褒められ、教会に行って褒められなければならないという考えは、間違った考えだというのです。褒められても、褒められようとは思わず、自分がどうしたなら父母の心情に因縁を結べるか、どうしてこそ、誰も干渉できない、固い因縁を神様と結べるかを考えなければなりません。こうした内的なことが問題であって、外的なことは問題にならないということです。(二四―一四一)

 先生は、皆さんが伝道や啓蒙がうまいことを自慢したいのでなく、涙を流して、震え、飢え、石をつかんで祈祷したことを自慢したいのです。(一一―七五)

 皆さんが伝道に出て、苦労して、飢え、悪口を言われて歩くのは、皆さん個人のことではありません。「私は、私たちの家に代わって、兄弟に代わって、十字架を背負い、自分の国を立てるため、基盤をつくるために行く」という考えをもたなければなりません。(一五―三一一)

 伝道する時も、自分のためにし、自分を考えては絶対……。「私は死ぬために来た、死ぬために、私一人を蒔いて、イエス様のように蒔いて、小麦の種になり、芽が出れば、刈り取る」こう考えなければならないのです。肉と血をみな取ってこそ、芽が出るのです。そうしなければ駄目なのです。公的生活をしなければ、引っかかるのです。こうしてパスするようになる時、堕落圏を越えていくようになるのです。長成級を越えていくのです。(九六―一一八)

 皆さんが伝道するにあたって、まず十人を伝道せよというのです。分かりますか? 伝道するようになれば、互いにまず十人を伝道せよというのです。伝道しようとすれば、犠牲にならなければなりませんか、犠牲になるべきではないですか? 犠牲にならなければなりません。そうすれば、必ず神様が助けてくださるのです。そうすれば、神様は反対の立場で助けてくださいます。

 ところで、皆さんが十人を伝道するのに、不平不満を言って伝道すれば、伝道できますか? 十人がいるのに、皆さんが、「み旨だか何だか、それがどうしたのか」と言いながら、不平を言うなら、その人たちは皆さんの言葉を聞くでしょうか、聞かないでしょうか? いくら褒めてくれて、「その言葉を聞いてみよう」と言っても、不平を言うようになれば絶対伝道がなされないというのです。

 では、どうしなければならないのでしょうか? 不平不満を言ってはいけないので、忍耐して犠牲にならなければならないのです。我慢して犠牲になる方法しかありません。そうでしょう? 我慢して犠牲になれば、その十人は、自分を「悪い」と言いますか? (「いい」と言います)。知っていることは、知っているのですね。全体が私のためにするでしょうか、引き下ろすでしょうか? 「ために」するというのです。我慢して、克服できなければ、「ために」しても、「ために」ならないこともあるのです。しかし、我慢して克服することを続ければ、続けてなされるのです。ゆえに最後まで我慢しなければなりません。忍耐して克服しなければなりません。耐え抜かなければなりません。(四四―一七)

 皆さん、伝道に出るとそうなのです。伝道に出て、部屋に行って休むのではないのです。道を逸し、道端に座って休むこともでき、夜を更かすこともでき、御飯を食べることもできるのです。御飯を食べるのも食卓で食べるのではないのです。お弁当を包んで、伝道に出て、道を歩きながら食べることもできます。それが、どれほど美しいことかというのです。それは人には分からない世界だというのです。(七二―三二五)

 伝道するには、辛抱強くなければなりません。人が悪口を言っても言わなくても、自分のすることはしなければならないのです。伝道しようとすれば、悪口を言われるようになっているのです。なぜなら、人がしないことをしながら、村の中を歩き回り、犬を吠えさせることがよくあるからです。ですから悪口を言われるようになっているのです。(四二―一七一)

 人は、辛抱強くなければなりません。辛抱強くなければならないのです。私は、皆さんが食べるものがなければ、飢えて死ねと絶対に教えないというのです。御飯を食べる人がいる所に行って、分けて食べようというのです。口があるから、そのように話をし、あいさつをし、いくらでもその人の家で食べられるというのです。先生は、そういうことをみなしてみたのです。おなかがすけば、私が国のために忠誠を尽くし、天と地のために忠誠を尽くしたので、誰よりも御飯を食べられるために、食事する人の所に行き、「三食食事ができなかったので、分けて食べよう」と言うのです。このように堂々とせよというのです。(九四―一〇二)

4 路上伝道のときに取らなければならない態度

 女性たちも、今後は少しきれいに、頭もきれいにし、服も端正に着て、そうしなければなりません。特に、髪、女性の頭というと……。(笑い) 男性はいいのです。女性たちのことなのです。外に出て回る人たちは、現在七〇パーセント以上が男性なのです。女性より男性が多いというのです。それを知らなければなりません。ですから、その人々は、男性に対する関心はないのです。全部、女性たちはどうかと見るのです。

 ですから笑う時も、「アー」(口を開けて見せながら)こうして笑うなというのです。口を開けずに、にこっと笑うのです。すべて練習しなさいというのです。(笑い) 目から笑い、口で笑えというのです。口から笑わず……です。なぜそうかというと、人は話すとき、目を見て言うのであって、口を見て言わないのです。ですから、目から笑わなければならないのです。口から笑えば失礼なのです。

 そして、女性たちは、できれば髪を垂らすなというのです。男性はみな女性が髪をこのように垂らすのを嫌うのです。気分を悪くするのです。特に春の風が強く吹く海岸沿いなので……。そうすれば、この頭の毛みんな……。気分が悪いのです。ゆえに、それを注意し、できるだけ端正でなければならないのです。私がみんな監督をすればいいというのですか。しかし、そうできなくてはいけないでしょう。ですから「先生が見ても、これだけすれば間違いなくパスだ」と言えるようにせよというのです。

 また皆さん、昼食時になっておなかがすけば、「アイゴー、御飯を食べる時間になったなあ」と思うなというのです。皆さんは行き来する人を全部、遊覧するようにじっとしていますが、ニューヨークの人たちは行き来しながら、統一教会の者と百人も会えるでしょうし、千人にも会えるでしょうから、全部同じように対さなければいけないのです。昼食の時間が来ても、「アイゴー、おなかがすいたのだが」絶対そう思ってはいけません。じっと立ちながら、(力ない表情をされる)こうしているなというのです。立っていながら、ある深い瞑想や、思索をするのはいいが、絶対こうして立っているなというのです。

 また、壁のような所に、刺激的な宣伝ビラのように、このように立っていますが、どれほど見るに堪えないですか。(笑い) 本当に休みたければ、隅にビラを置いておいて、行って少し休めというのです。多くの人に対して良く感じたのに、一人でも休んでいれば「統一教会にも、いくらか、ああいった輩がいるんだなあ」と考えるのです。しかし、そういう人をいくら探しても、探せなかったならば、考える人なら、必ず統一教会に来てみるというのです。反対の新聞を出す人は、私たちが誤ったことを写真に撮って、新聞に出すのです。そうすれば、それを見て、「統一教会の人たちはいいとばかり思っていたのに、ああいうこともある」と思うのです。そうなり得るのです。新聞に出て有名になることもあり得るのです。ですから、絶対そのように、朝出るときはこうして出て、一日中こうして回り、帰る時もこうして帰らなければならないのです。帰ってくれば、兄弟同士はうさ晴らしをしたっていいというのです。(八六―二六一)

 そして、皆さんが道を行って、ビラのようなものをたくさん分けてあげながら、捨てていったものがあれば、これは必ず人が踏まないようにし、統一教会会員ならば誰でも行って拾えというのです。これがこの市民の前に模範にならなければならないということです。道を行くのに、ビラが落ちればどうなるか、よく見なさいというのです。そこには、いろんな人がいるはずなのですが、それを拾うのは、千人、万人に分け与えるより重要だということを知らなければいけません。そういうとき、私たちが拾って模範を見せれば、ビラ千枚分けることよりそれを見た人たちは、考えのある人たちなら、それが無言の宣伝になるというのです。それを拾う人を百人、千人も見ることができるのです。それが百枚、千枚分けてあげることよりましだということを知らなければなりません。こうした、数々の動機をつくらなければならないのです。

 皆さんが立って、配ってあげたビラは、どんなに汚れたものでも、必ずみな拾ってごみ箱に入れて、環境をきれいにせよということなのです。そうすれば、そこに毎日出るので、その周囲にいる商店の人は、みな見るのです。「あの女性、また来たのだなあ。あの男性、また来たのだなあ。あそこに配置されたあの人の性質はどうだろう」と一度試験をするために、つっついてもみるというのです。

 この周囲に、商店の主人たち、息子たち、全部集まって、あの人がどうであり、どうだと言って、「お前、一度くらいあの人をテストしてみろ、つっついてみろ、どうするか見てみよう。こうなるだろう」と自分たち同士で論争も起こし、いろんなことが一度に広がります。それをみな収拾できるのです。今後、この作戦によって変わるということを知らなければならないのです。その人たちが、一度、二度、三度しても、少しも変わらなければ感服して、その次には、宣伝をするというのです。「やあ、すごいなあ、本当にすごい」と……。(八六―二六三)

 皆さんは、どこに行くにも、しっかりしなければなりません、今からは、皆さんは宣伝ビラと同じなのです。歩くのも、しっかり歩かなければなりません。整然と、端正に(行動で見せてくださる)、二人で会って行っても、列をつくっていかなければ、ショーウィンドーを見て、こんなふうにして行くなというのです。今回六十日の期間は、ニューヨークの市民を正しく指導する教育期間です。

 皆さんは、市民を教育する先生だという考えをもたなければなりません。何か、私が教えなければならないのだが、私は会わなかったけれど、私を見る人に教えてあげるという考えをもって……。こうして、今回ニューヨーク市に影響を及ぼさなければなりません。

 ゆえに皆さんは、「私は今回の期間に、こういう表情をするのだ」ということを定めよというのです。その次には、私は「こういった親切なことを言うのだ」ということを定めよというのです。いつでも、その方法を覚えて動きなさい。誰かが攻撃をしても、その表情をせよというのです。さらに論戦して、「お前行くなら行け」そう言ってはいけません。絶対そうしてはいけません。ありがたく、あいさつをせよというのです。「また会おう」と一言言うのです。論戦が終わって、互いに気分が悪くて送る時は、そのまま送るなというのです。「また一度会おう」と「本当に有り難い」と言うのです。絶対会った人を、寂しく、誤解させるように、気分を悪くするなということです。分かりますか? (はい)。(八六―二六四)

 女性は、頭を少し端正に整えなければなりません。そして、少しカラフルな服が必要です。できれば三人の友達に「私、これだけ整えればいいかな?」と言って、ちょっと見てもらうのです。いい服でなくてもです。そして端正なことだけ、認定を受けていけというのです。それが必要ですか、必要でないですか? (必要です)。

 さらに、女性たちは、靴下やストッキングのようなものも、二つも三つも伝線したのをはいて、こういうふうに……。(行動される、笑い) そうならば、はくなというのです。はくなということです。そして、私たち統一教会の女性たちは、あまり変な靴を履くなというのです。平凡なもの、普通のものを履けというのです。あまり新式でも駄目だし、あまり古くても駄目で、中間のものを。

 そして統一教会の女性たちは、見ると顔が少し、潤いがなければいけません。そういうクリームがあるのです。全部、食べれずやつれているように見えれば、「統一教会の女性たちは、レバレンド・ムーンが、あまりにも仕事をさせるので脂っ気がないんだなあ!」このように考えるので、潤いを与えるクリームを、ちょっと潤いが出るくらいに塗りなさい。脂のちょっと多いのを塗るのです。脂っ気が多いもの。(笑い) これが必要です。

 特別に女性たちの唇に塗る、紅のようなものがあるでしょう? それ、ルージュというのですか? 何ですか? 私たち統一教会の女性たちは、それは塗らないのですが、その代わりに、唇が乾かないものを塗らなければならないのです。そんなに乾いているのに、話すのを見れば、気分が悪いのです。(お父様、薄いのは、ちょっとつけてもいいですか?)。ああ、それはいいです。そういうのがあるのです。脂っ気があるの。(笑い) 女性たちが、唇が乾いて、カサカサになったまま話すのは、気持ちが悪いのです。とても気分が悪いのです。そうなのです。皆さんは知りませんが……。そういった面で全部きちんとしなければならないのです。分かりましたか? (はい)。

 それから女性たち、歩く時、お尻を振らないように。(行動でされる。笑い) 絶対そうでなければいけません。それが必要なのです。これからは女性たち、きちんとするでしょう? (八六―二六四)

 その次は男性、男性、男性……。(笑い)男性はねえ、歩く時姿勢がきちんとしてなくてはなりません。姿勢が、こうして、こうして。(行動される、笑い) 男性は背が高いので、そうやって歩く人たちが多いのです。男性は大きいのでこうやって歩くのです。(笑い) 背が高くても、ビシッとしなければなりません。

 皆さんは、歩くのもピシッと歩かなければいけません。その人が歩くのを見れば、みんな分かるのです。ピシッと歩かなくてはいけないのです。皆さんが、街に出て歩く姿を見なさい。ある人はこうやって……(行動される)。こうやって歩く人がとても多いのです。できれば、ここからここまで、まっすぐにして歩く練習をしなければいけません。

 皆さんが、自分自身を考えてみれば、私が歩くときどうやって歩くのかが、今は分からないでしょう。どうやって歩くのか分からないでしょう? それは、既に間違ったことなのです。姿勢は必ず、まっすぐでなくてはなりません。靴が、こうやって上がってくるように歩いてはいけないのです。あまりこんなふうに歩いてもいけなく、あまりこんなふうに歩いてもいけません。ある人は、こう歩きます。こうやって(行動される)。

 そして、できるだけ男性も、お尻をこうやって振るなというのです。肩もすくめてはいけません。ボクシングする人を見れば、姿勢がまっすぐでなければいけません。それは、どんな観が揺らいだらいけないというのですか。まっすぐでなければいけないのです。必ず、そうでなければいけないのです。また、靴を脱いで、いつも後ろ側を調べなさいというのです。ある人はこうやって、こうやって擦れて減っている人。ここだけ擦れている人。それではいけません。先生は、そうではないのです。さっと、靴をひっくり返してみると、その人が分かるのです。紳士になるのは楽ではありません。それを知らなくてはいけません。頭もそうです。

 またいつでも、服を着るとき、服のボタンがいくつか知らなければいけません。人を見れば、すぐ見えるというのです。ボタンをふっと見て、既にこれが二つなら、その人は落第なのです。奥さんが、自分についての関心がない人なら、着実なだんなさんでなく、そうでなければ、その人自身が、そういった面の整理がなされていないということなのです。ゆえに、自分自身をいつも考えなければいけません。自分自身がそうならなければならないのです。それは、自分自身がそうだということをいうのです。

 そして、上着のボタンはできれば一つだけはめなさい。全部はめないで、端正にしないといけません。なおまた、そこに注意しないといけないのです。男性は、実は、必ず外に出る時には、さっと一度こうやってみよというのです。習慣をそうやってつけるのです。さらに男性はネクタイ……。私も、今行ったり来たりするので、分かりませんが、ネクタイは、いつでもまっすぐでなくてはなりません。ですから、先生はピンを使うのです。そうすれば絶対、こういうふうにはなりません。ある人はこうやって……(行動される、笑い) これをいつでも、注意しないといけないのです。ゆえに、これをきちんとして行けというのです。(拍手) そして、服の色とネクタイの色が、いつでも合わなければなりません。きちんと合わなければならないのです。これが大変なのです。(八六―二六五)

 また、できれば男性は、髪をよく切って整えよというのです。男性たちは、手を見ると、ここにあかがたまっていては、絶対いけないのです。ビラのようなものを配る時も、ここにあかがついていては絶対、失礼です。

 大体男性を見ると、後ろ姿が、どう端正でないといけないのですか。前を見ても、前を誰が見ますか? みな後ろを見るのです。さらに、黒い服を着た時には、頭をかくと、ふけが落ちるのです。ふけがあります。これが必ず落ちるのです。ゆえに、そういう時はいつでも払えというのです。それを必ず考えよというのです。

 皆さんが、自分自身の顔を見る時に、「このくらいだったらいい」という姿勢で、出ていって行動しなければなりません。分かりますか。男性は毎日出て歩くので、そういった面では相当、関心をもつだろうと見ているのです。特に独り者の男性はです。(八六―二六七)

5 伝道と牧会者の姿勢

 望みとは何かという時、人はだんだん良くなることを願うので、のちにはそれが理想になるのです。ゆえに、私が望むことをどうやって実現するのかという問題が、一番重要なのです。

 では、皆さんが教会長として祈り、出ていって活動する時、願いは何でしょうか。教会長は、多くの人を伝道するのが願いであるはずです。ゆえに、教会長として、理想実現をどうするのかというのが重要なのです。(四八―二四)

 まず地域に帰れば、その地域を伝道するためにどうしなければならないのでしょうか? この世界はサタン世界であり、この地域は、今まで怨讐が住んできた地域であることを考える時に、そこに怨讐があがめることのできる代表者が誰かということを知らなければなりません。人としては、どういう人であり、地としてはどういう地かということを知らなければなりません。

 では、私がそういった基盤を立てて、「どこの誰を屈伏させるまで、どこの誰をみ旨の前に復帰させるまで、私は決意する。ある地域を復帰する時まで決意する。今日復帰歴史というのは、人を復帰し万物を復帰しなければならないので、サタン圏の人の中に、有名な地方有志なら誰々を復帰する。どの地域を復帰する」そうやって祈祷するのです。

 この地を復帰するためには、私が死んではならないという心をもって、どんな難しいことがあっても、これを復帰するという決意をもって、自分の力が不足でもここに同志を糾合し、自分の能力が不足するならば、同志の能力を集めて、これを早く早く、夜でも昼でも休まず活動する中で、不足ならば天にすがって汗を流さなければなりません。そういう祈祷をしてみよというのです。

 ある人を選定し、祈祷するのです。戦うのです。「神様、私はこういう意味において、この地域の数多くの生命を生かすため、彼が必要です。その人の現在の状態はこうなのですが、必ず必要です。その人でなければ駄目です」と。皆さんが、腰のひもをしっかり締めて、手ぬぐいを結び、生死を決断する、こういった舞台において、天の前に訴えるようになる時に、上達するというのです。ですから精誠を込めて戦い、探してこそ貴いのです。(一五三―二七八)

 見てみなさい。自分が責任をもった地域を見るとき、全部地獄に行くだろうと、ソドムとゴモラのように全部地獄に行くだろうと感じ、私の差し伸べる手を、霊界でどれほど待っているかを感じ、その喚声が耳に聞こえるのを感じなければならないのです。皆さんは伝道に出て、人がいないと心配するなというのです。皆さんが、その村内の道を過ぎていくと、(黒板に書かれながら語られる)この道を行くようになるときには、この村内に自分が、兄弟たちが死んでいく時に来たというような、あるいは友人が来たと喜ぶような役事があるでしょう。そこではその兄弟が死んでいって悲しむ以上に私が悲しまなければならず、あるいは、会えなかった兄弟が訪ねてきて会う喜び以上の喜びを、私が完全に感じられなければなりません。こういう私にならないと駄目だというのです。それをいつも考えなくてはなりません。

 道を歩きながらも、自分でも知らずに一つの生命を救わなければならない責任を感じ、涙を流しながら歩くことのできる、心にしみるような心情にならなければならないのです。皆さん、そういうことを感じたことがありますか。涙が出て、鼻水が出て口からまで水が流れ、このズボンにこぼれたことがありますか。そうしてみなかったのではないかというのです。皆さんがもしそうなれば、このすべての自然が、皆さんが行く時、慰労の対象になるのです。事実そうなのです。感じるのです。木に寄りかかれば、お母さんが自分を抱いてくれることより、より慰めを感じるというのです。

 ですから、寂しい人ではないのです。そこで私が祈るようになると、今後起こることを天が教えてくれるのです。では、その日を描きながら、死ぬことがあっても感謝し、殴られて、追い出されることがあっても我慢して、克服しなければならないのが、私の責任であることを感じるのです。神様との約束があるのに、私がこれを捨ててはいけないということを知らなければなりません。(八八―二六五)

 先生が伝道を、どれほど一生懸命やったのか分かりますか。伝道をどれほど一生懸命にしたのでしょうか? 私が、二時間しか寝ず、二時間も寝ない日々も多かったのです。七年間続けてです。続けてみ言を語るのです。(九五―四三)

 先生は、今もそうなのです。韓国の食口たちが、きのう、おととい来たとき、十二時になったのです。私は疲れているけれど、その中に一人でもいれば、「さあ、君たち行ってくれ」とは言えません。疲れていても、私はそうできないというのです。そういう訓練をしてきたというのです。十二時が過ぎ、夜一時が過ぎても、その時間が貴いことを知って座っているなら、その一人の人のために、私がその人の友人になり、その一人の人の話し相手になり、その時間を延長しようとします。また、その時間を延長したといって、もっと寝ようとは考えない人なのです。来ることを嫌がり、何かをするのが嫌なら、それが何の喜びですか。主人がそうであってこそ、その家に入っていけばどこに行っても境界線がなく、どこに行っても自由なのです。そうでなければ不自由なのです。教会の責任者がそうで、教会がそうなら、誰が来ようとしますか。

 ゆえに、教えてあげなさい。伝道することも教えてあげ、全部教えてあげるのです。皆さんが開拓時代に出ていって、伝道するようになれば、伝道した人が来るのを見ても、自分も知らないうちに「万歳」を言い、歓迎する心でいっぱいにならなければならないのです。来て、帰る時には自分の恋人が帰っていくより、もっと寂しがれというのです。行ってしまうと、目から涙がこぼれ、それほど涙を流しながら、自分も知らないうちに祈祷してあげる心情になれというのです。そうすれば、その教会は復興するのです。絶対復興するのです。去ったのちには自分も知らずに、行かなかったらいいのにと涙を流すことができ、自分も知らずに祈祷し、そうして夜を明かして祈祷すれば、その人が啓示を受けて、自分も知らずに早朝にやって来るのです。早朝に教会に訪ねてくるのです。そういうことが起こるのです。

 ゆえに、全体の責任は責任者が負わなければなりません。一つにならなければならず、蕩減しなければなりません。それでも発展しなければ、私たちの原理が全部間違っていることになるのです。復帰原理がみなうそなのです。全部、虚風であり、空砲なのです。ですから、それをよく知って皆さん、今こそ新しい決意のもとで、こういう原則、これが分かりますか。簡単なのです。一つになることと蕩減復帰、これを忘れるなというのです。(八八―二六四)

 話をするときには、心から話を聞いてあげるのです。夜を明かしながら聞いてあげるのです。ここから、事は始まるのです。夜を明かしながら、時間が問題ではありません。お父さん、お母さんが、子供が飛び出して苦労して、自分たちを再び探してくるまでの苦労したその話を聞くようになるときには、涙を流しながら、その子供が痛がる以上の痛みを感じて、対する場なので、父母がいいのです。それと同じような心情の所有者になれというのです。

 あるいは、着た服を見るときに、古びた服を着たりすると、古びた服を見ると、恥ずかしくて、見られないような心情にならないといけません。母の心が、父母の心がそうだというのです。子供にそういう服を着せた父母が、そうでない服を着せたい心が切実ならば、その子供を見るのに恥ずかしい心を感じるように、そういった心の姿勢をもてば、そこに必ず繁殖が起こるのです。先生はこのような原則を中心として、役事をしたのです。夜でも昼でも、そうなれば西風が吹くようになるのです。(一九六九・五・一二)

 伝道しに出て、活動する中で、伝道の責任をもった人は、伝道についてのすべてのことを確実に教えてあげなければなりません。このように一回り回るようになると、生活を指導できる能力をもつ人になるのであり、教育を指導できる人になるのであり、伝道を指導できる人になるのです。

 伝道の責任者は、誰がいつ来て尋ねても答えることができるように、伝道をどうするという計画が立てられていなければならないのです。教育に責任もった人は、誰でも来て、この原理がどうなったものだと聞けば、いつでも答えられるようにみな知っていなければなりません。(五四―三三三)