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3 祭司長の祭物精神

 私たち教会の組織で見れば、地域長、地区長たちは祭司長たちです。地域長、地区長たちとは何ですか? (祭司長です)。伝道隊員たちは、正しい考えをもたなければなりません。それでは、祭司長たちは誰がなるのか? レビ一族がならなければなりません。イスラエル民族の中で、他の支派たちは全部、取り分にあずかりましたが、レビ族は、取り分にあずかりましたか? あずかりませんでした。なぜ、あずかることができなかったのですか? 祭司長は祭物だからです。

 祭司長は何ですか? (祭物です)。祭物は何かといえば、犠牲を伴うものです。犠牲にならなければなりません。ですから、何を与えることができますか? 血を売って食べて生活するのだというのです。何のことか分かりますか? 祭物は、所有権がないのです。祭物に所有権がありますか? 「私は、なにがしの息子です。私は、なにがし家の主人の伜です」と言いますか? 祭物は共同所有です。所有権のない者なのです。所有観念がありません。ひたすらに、主人がしようというままに従っていかなければなりません。自分という所有観念がないのです。

 その次に、存在意識をもってはいけません。「私がこのように生きるのは、気分が悪いのに……」と言いながら、自分を主張したり、存在意識をもったりすれば、天の反逆者になるのです。私は生きているが、死んだのと同じだと思わなければならないのです。イサクが、み旨を成したのは、所有観念がなかったからです。「私は、あなたの息子ではないですか」と思ったなら、「父親が殺す道理がどこにありますか」と、反抗したでしょう。そうしていたなら、み旨を成すことができないのです。しかし、イサクが立派だったのは、黙して語らなかったことです。不平を一言も言わず、ただひたすらに死んでいったのです。ここで神様が彼を捕らえてくださったのです。

 同じように、統一教会の地域長、地区長たちも、ただひたすら座って、飢えなければなりません。(笑い) 目がぱっちりとしてきて、頬がやせ、元気なく、ふらふらしながら、倒れて死んでみよというのです。そのように悲惨に死んでも、不平があってはなりません。そのような人は、立ち上がるのです。そのような人には、皆が頭を下げるというのです。もし、そのようにしても滅んだとするなら、キリスト教歴史、神様の復帰歴史は、根こそぎ、崩れてしまわなければならないのです。

 ですから、先生も監獄に入って、死地に行っても、静かにしていたというのです。さらに、死ぬことができなくて、恨みだったというのです。「私は死ななかったのだから、生きて責任を果たさねばならないなあ」と思っているのです。所有意識がないのです。「私は、あなたの息子ではないですか? 息子をこのように苦労させる法がどこにありますか?」そんなふうに言えないというのです。地区長、教区長婦人たちは、はっきり知りなさいというのです。分かりましたか?

 レビ族には、取り分はなかったのです。「月給が二万五千ウォンだ、三万ウォンだ、五万ウォンだ……。私は月給をもらわなくては……」このような思いを抱く牧会者の、その教会は滅びるのです。そのような宗教は、しまいには、サタンの祭物になってしまうのです。ですから、先生にお金があって、使ったあと残ったといっても、皆さんにあげては駄目だということです。分かりますか?

 皆さん、お父様に月給をもらうようになっていますか、ささげるようになっていますか? 祭物を、お父様からもらうようになっていますか、ささげるようになっていますか? (ささげるようになっています)。はっきりと知らなければなりません。皆さんの新郎たちがそのような思想をもっているなら、滅びてしまうのです。工場職員と他の仕事をする人には、月給をあげたとしても、教会責任者に月給をあげないのは、原則を立てるためです。全部滅びたとしても、天道に従って三人だけでも残って、これだけ守っていけば、統一教会員は滅びたとしても、統一教会は滅びないというのです。皆さんが、みんな離れて出ていったとしても、滅びないのです。これをはっきり知るべきです。本部から送ってくれるお金でもって教会を立てることも、原則から外れたことです。そうではないですか? (四三・二二一)

 祭司長たちは、月給をもらって天の仕事をするのではありません。月給をもらって生活するのではありません。「私の生活がどれだけ乏しいのか……。もらわなければなりません」と思うのではありません。犠牲の代価をもらい生活しなければなりません。血を流すところには、皆が頭を下げるようになっています。そうでしょう? 涙を流さず、犠牲にならずに代価を求める祭司長は、腐った祭司長です。皆さんは、それを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。地域長夫人たち、手を挙げてみなさい。このようなことを、しっかりと分からなければなりません。地域長、地区長、しっかりと分からなければなりません。

 皆さんが月給をもらうようになるならば、まず先生に月給を与えてから、もらわなければなりません。そうですか、違いますか? (そうです)。原則がそうだというのです。ところで、皆さんがいつ先生に月給を持ってきてくれましたか? 皆さんが十一条をささげなければならないのです。それを皆さん、知らなければなりません。

 私たち教会が、このような時点に来ているので、今の時は、うっかり間違えば、男性たちがうわつきやすい時なのです。自分勝手に、自分の思いを中心として考えていけば、大変なことになるというのです。ですから、皆さん方が、そのような男性を屈伏させて、引っ張っていこうという自覚をしなければならない時だということを、はっきり知らなければなりません。(四三・二二五)

 皆さん、米国を見なさい。米国が今日このように富国となった原因が何であるかといえば、自分たちにお金が入れば、食べるものも食べないで、着るものも着ないで、自分の住む家も建てないで、まず教会を建て、その次には教育機関を建て、その次に自分の家を建てたのです。先生もその思想を知ったので、またそれが原則であるので、まず教会を建てようとするのです。

 ですから、私が今年、家を買おうと涙ぐましい思いで準備しておいたお金も、教会のために、ヨイド本部建設のために投入したのです。その次には、学校を建てるために、未来の後孫のために……。現在は犠牲となるのです。そうでない民族は滅びるのです。分かりますか? (はい)。皆さんはそれを知らなければなりません。これが神様のみ旨のためにすることであり、未来が願うことです。未来は後孫を意味するのです。未来を復帰するために現在を犠牲にするのが、蕩減復帰摂理歴史ではないかというのです。(四三・二二三)

 今日私たちは、この世界を救うために神様の前に祭司長の責任を負った者として、み旨のためだけに、後代のためだけにしなければなりません。自分が、み旨のために犠牲となり後代のために犠牲となっていく人は飢えません。御飯に飢えないのです。御飯に飢えてみなさい。ただ飢えて死ぬという感じなのに、ここに逃げ、あそこに逃げしながら、それを避けていくというのです。疑うならば、皆さん一度やってみなさいというのです。死ぬ道を行っているのに、死なないのです。このように下がっていくようなのに、下がっていかないのです。自分のためにすれば下がっていきますが、神様のためにすれば上がっていくのです。ひたすら、くねくねしながら上がっていきます。これが、十二の峠です。

 アリラン峠はいくつの峠ですか? 十二の峠だというのです。神様を愛し、夫を愛する女性の心と同じ心をもって「どんな困難な道でも耐えていく。おなかがすいても耐え、涙の道も耐え、越えて、また越えていくのです。私は死んでいなくなっても、あなたの願いの基盤の上に、勝利をたたえることのできる栄光の席で、私たちの後孫たちが称賛することのできる、一つの新郎新婦として会いましょう」と言いながら……。アリラン峠が十二の峠だと言ったでしょう? そのアリラン峠は、復帰の峠です。韓国の民謡を見れば、韓国の民たちは、本当に啓示的な民族だということを知ることができます。なぜ十二の峠という言葉が出てきたのでしょうか? 復帰路程がそうだというのです。皆さん、これを知らなければなりません。

 ですから、祭司長の責任は祭物になることですが、祭物になった者は、存在意識と所有観念をもってはいけません。お金が少し入れば、「このお金で私に必要なものを買わなければならない。私に鏡がないので、良い鏡を一つ買わなければならない。ブラウスが着たい。ワンピースが着たい。あのツーピースを一度買って着てみたならいいだろうに」という、こんなくだらない考えをしている婦人たちはみんな反省しなければなりません。「私が、こんなものを着る前に、この民にそのように着せなければならない。私が良くなる前に、国が良くならなければならないし、世界が良くならなければならない」と考えなければならないのです。このようにしなければならないのが祭司長の使命です。分かりますか? 私が食べることより、この国の人々を食べさせなければならないし、私が豊かに暮らすことより、この国を豊かにしなければなりません。このようにして、この峠を越えて、イスラエルの主権をもてば、祭司長は何になるのでしょうか? その時まで祭司長として万民を代表して犠牲となり、万民がその前に頭を下げる祭司長の訓練を受けてきたので、主が来て新しい主権をもつようになる時には、主権を代行する責任者となるのです。分かりましたか? 主が歴史を通して受難の道を耐えて歩んできた伝統を祭司長の立場で引き継ぐためには、死の道も、腹のすく道も、あるいは困難な道、追われる道も、克服していかなければならないのです。これが祭司長が歩まなければならない道であることを、はっきり知らなければなりません。(四三・二二三)