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4 祭物の復帰過程

 旧約時代に祭司長は、祭物を中心として、神様と関係を結びました。旧約時代は、祭物を中心として、一つとならなければなりません。それは、なぜそうかといえば、祭物は対象で人間は主体的立場であるので、対象が神様の前に公認を受ければ、主体も公認を受けることができるのです。完全なマイナスが現れれば、完全なプラスは自動的に生じてくるのです。また、それと同じように、完全なプラスが現れれば、完全なマイナスは自動的に生じるのだというのです。これは天地が相対因縁になっているからです。

 このような原則を見るとき、人間は、祭物と一つにならなければなりません。もし祭物と一つになれば、その上には誰がいるかといえば、神様がいます。

 万物を中心として見るとき、物の中には、真のものと偽りのもの、憎むべきものがあります。例えば、最近先生が皆さんに食べるなという犬とか蛇とかのようなものは、みんな憎むべきものだというのです。しかし、牛とか羊とか鳩とか、このようなものは、善なるものです。これらは、万物の中で一番善なるものです。祭事膳に供える肉として、脂こいものは、供えてはいけません。脂こいものに傾いては駄目だというのです。脂こいものが多ければ調和が取れないというのです。ですから祭事膳に供える肉は、脂が多く生臭いにおいが強いものではありません。たこや鯔のように、からりと乾いた肉が祭事膳に上がります。このような事実は、すべて陰陽の相対的理念から生ずるのです。

 ですから、祭物時代において、善なるものを選んでみると、牛と羊と鳩だったのです。それでは、これらは何を象徴するのでしょうか? 遠い山を見つめて、ものを噛んでいる牛は、復帰されなければならない人間を象徴しているのです。言い換えれば、日久月深(注:月日の長いことの意味で、ひたすら望むという意味をもつ)、復帰される日だけを待っている人間を象徴するというのです。

 また羊というものは、軟弱な獣です。図体は大きいのに、自分より小さい山の獣に捕まって食べられてしまうのが羊です。羊は、弱いものを象徴します。それでいて抵抗しません。羊は、主人がつぶす時も抵抗しない獣です。昔、祭事に使おうと羊を捕まえた時、抵抗した羊は祭事に使いませんでした。反抗せず、「メーメー」鳴きながら、ただ、同情を求めるように、物悲しく哀れに泣き叫ぶ、そんな羊だけを捕まえて、祭物としたのです。むやみに殴って、足で蹴って捕まえた羊は、祭物として使わなかったのです。また、鳩は何を象徴するのでしょうか? 私たちはよく、「鳩のような瞳」と言います。「鳩のような夫婦」と言うのです。それは鳩が、愛を象徴するからです。

 このようなことを見るとき、これらは獣の中で善なる意味で次元の高いものだというのです。そうであるから、これらを獣の中から抜き出しました。人間は、それらのものと一つとならなければならないのです。すなわち、牛のような忠誠で、羊のように犠牲となり、鳩のように情的(愛)になれということです。言い換えれば復帰の内容を代表する万物を中心として一つとなり、神様と関係を結んでいけということです。

 それでは、それらと一つとなるためには、どのようにしなければならないのでしょうか? 反対にならなければなりません。僕に屈伏しなければならないし、嫁に屈伏しなければなりません。そうでなければ復帰ができません。皆さんが姿勢を変えなければ、絶対復帰ができないのです。

 ある人は、「私は博士なので、博士の権威を立ててくれなければ、統一教会に行けません」と言います。そんな人は、来たければ来て、来たくなければ来るなというのです。そんなことは、先生の知ったことではありません。神様の前に博士がいますか? 全部小学生のようなものでしょう。そうではないですか? また、親なる神様の前に大人がいますか? みんな子供たちでしょう。

 では、旧約時代は祭物時代で、その次は何の時代ですか? 新約時代は何の時代ですか? イエス様が、完成された祭物実体としての資格を備えてこられました。ですから、旧約の結実はイエス様なのです。

 イエス様が、旧約時代の祭物実体の結実として来て、神様の前において、万物とカインをそのまま祭物としてささげていたなら、教団と国を復帰したでしょう。このようになれば、アベル型国家が成立されるのです。そして、サタン世界の万物も結局復帰され、カイン側教団も民族も、なくなっていたでしょう。ですから、イエス様は万物を身代わりする結実であり、教団を身代わりする結実であり、イスラエル民族を身代わりする結実です。

 イエス様が、このような立場であったので、サタンは民族を失ったとしても、その結実であるイエス様と交換しなければならなかったのです。ですから、十字架の代贖が行われるようになったのです。救いを受けるべき民は、イエス様を祭物としなければ復帰できないのです。これがすなわち、キリスト教の新約時代です。分かりますか?

 その次には成約時代です。イエス様は、再び来ると言われましたが、成約時代に来る時は、どのようになって来るでしょうか? 祭物の結実であり、アダムの結実であり、そして内的な結実においても、カインの蘇生的結実と長成的結実となって来なければなりません。ですから、カインを屈伏させなければならないのです。そのためにイエス様は、十字架で亡くなられる時、霊的に、そのようなすべてのことを、みんな備えていかれたのです。蘇生的な結実と長成的な結実を成したというのです。それが何かといえば、天使世界の屈伏と、養子的な立場の実体圏を復帰した立場に立ったので、カインを蘇生的に屈伏させ、長成的に屈伏させたというのです。イエス様は、洗礼ヨハネの仕事を身代わりして死にました。洗礼ヨハネの使命を果たして死んだので、結局息子の役目は果たせませんでした。したがって、蘇生的天使長型と長成的養子型を復帰しなければならない中心存在として、また、これを結実として現さなければ、再臨主がこの地上に来ることができないのです。蘇生的天使長型と長成的養子型、この二つを結合しなければなりません。そうしたのちに、ここに新郎が来るのです。

 再臨主を来させることのできる動機を、地上のキリスト教が準備しなければなりません。エバがアダムを誘って堕落したので、後のアダムであるイエス様が再臨できる動機を準備するためには、地上のキリスト教が世界的なエバ圏、新郎圏を形成しなければならないのです。そうすれば新郎は、特別なキリスト教国家を中心として、そこに訪ねて来られるのです。(四四・三〇四)

 復帰するには、まず、祭物から復帰しなければなりません。祭物は代身存在です。アブラハムの祭物は、アブラハムとそのみ旨を身代わりするものでした。

 養子になろうと思えば、祭物の王とならなければなりません。私たちは、天宙のための祭物です。完成したアダムは、それ自体が祭物です。祭物、祭司長、養子、先生の名前に託して、サタン世界のものを奪ってこなければなりません。

 私たちには、祭壇が別にあるわけではありません。私たちが横になって寝る所がすなわち祭壇です。これを汚してはいけません。自分が祭物にならなければなりません。そして、自分を祭物としてささげることのできる祭司長がいなければならないのです。

 神様は、先生を祭壇として贖罪の過程を経させて、皆さんを祭司長の席に立たせようとされます。そうしたのちに、養子になるようにさせます。養子は、代身権限をもつものです。そして、大祭司長の過程を経たのちに、直系となるのです。(一一・一六一)