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第一章 牧会者論

 第一節 召命を受けた者たちの生き方

   1 ノア

 歴史的に見れば、アベルの血統を通してのみ蕩減の因縁が結ばれるようになるので、ノアは神様から召命される前にも、多くの蕩減を受けてきたのです。それで、神様の命令を受けて百二十年にわたって条件物をささげようとする時、サタンの攻撃があったのです。「こいつ、よくやるな。どれだけ神様を愛するか見てみよう。お前が百二十年間で、箱舟を造れるか、さあ見てやろう」と言って、試験したのです。皆さん、考えてみてください。舟を川辺に造るならともかく、山の中に造るというのですから、これは根本的に狂っていることではありませんか? これは、反対を受けざるを得ないことです。絶対、正常には見えないことです。また、ノアが舟を造りに行く時、「きょうは昼食を食べて、ちょっと散歩してから、登らねば」というような気持ちで山に登ったのでしょうか? そうではありません。御飯を食べるのもそこそこにして、舟を造りに山に登ったのです。

 百二十年間で舟を造れと神様が命令されたけれども、百二十年のその期間を短縮しなければならないという心情をもって、夜も昼も全心全力を尽くしたノアでした。このように、天性の気概と節義を立てたのです。(一八―一五六)

 皆さん、ノアの家庭について考えたことがありますか? ノアは、山の頂上で箱舟を造りました。平地ならともかく、山の頂上で箱舟を造ったということは、常識を超えた、常識を超えるどころか、度を超えるのにも、とんでもなく度を超えたことです。一般的に見る時、正常的な立場で見る時に、ノアは狂った人間に近い行動をしたのです。舟を造ろうとするなら、川辺に造らなければならないのに、山に造ったのですから、これは常識を超えたことです。

 これを命令した神様は、冗談で命令したのでしょうか? 違います。生涯をささげて耐え難い道を行かなければならないのが、ノアの路程であることを誰よりもよく知っておられた神様は、ノアの受難の道より平坦な内容をもって命令されたのではないのです。それよりももっと難しい内容があったので、それを条件として解決できる、一つの方便になることを願われる心をもって、ノアに百二十年の間、受難の道を行けと命令されたのです。そのような神様の心は、どれだけ悲惨であったでしょうか? 言うに言われぬほど、悲惨だったのです。

 ですから、ノアがその命令を受け入れるか、受け入れないかという緊張した瞬間において、ノアが順応する立場を取る時、ノアよりもっと喜ばれた方が神様ではないでしょうか? また、ノアよりもっと悲しまれ得る方も神様です。そのように、喜びと悲しみに対して責任をもてる、そのような主人の立場でなければ、神様の立場にはなれないのです。(四八―六九)

 ノアは自分の一身を征服し、自分の家庭を征服するために、百二十年間闘いました。それは簡単なことではありませんでした。百二十年後にこの地を審判するという神様の命令を受けたノアは、「一年が過ぎたから、あと百十九年残っているなあ」と言って待ってはいなかったのです。神様は、大きなみ旨を抱いて、大きなみ旨に対してくる人の前に、一度約束をされるというのです。(一九―二三七)

 勝利しようとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか? サタン世界に入っていって打たれなければなりません。ヤコブがサタン世界を代表するラバンの家庭に入っていって、十回もだまされたということは、十回打たれたということと同じだというのです。しかし、ヤコブは天のみ旨の前に立つ時まで、黙々と待ちました。ノアも同じです。ノアじいさんも、百二十年の間耐えて神様の前に忠誠を尽くしました。神様は百二十年後にこの世を審判することを通告されながら、ノアにアララテ山の頂上に箱舟を造れと命令されました。どうして神様はこのような命令をされたのでしょうか? この命令は常識的に見る時に、正常なことではないのです。舟を造ろうとすれば川辺や海辺に造らなければならないのに、どうして山の上に舟を造れと言われたのでしょうか? それは、その時代の数多くの人々、すなわち、全体が反対し得る立場にノアを立てるための作戦でした。その時代の人々の中には、ノアを言葉で審判しない人はいませんでした。そのような立場に立たなければならないのです。ノアじいさんが、百二十年間箱舟を造るのを見て、老若男女を問わず、狂ったやつだと後ろ指を指し、足で蹴り、ありとあらゆることをしたというのです。これは、サタンをして、したいことを象徴的であれ、形象的であれ、すべてなすことのできる立場に立てるためでした。

 神様が愛し、神様が立てた人は、サタン世界からまず打たれるようになるのです。サタン世界でまず打たれれば、サタン世界を打つことができるからです。審判とは、そのようにすることなのです。神様が愛する息子、娘を最初に打たれるようにして、次にサタンを打つのです。ノアもそうでしたし、イスラエルという勝利の基盤を立てたヤコブも、ラバンの家でだまされたのちに奪ってきたのであり、モーセも同じであり、イエス様も同じなのです。(一四―一一二)

 私たちは、百二十年間、山に箱舟を造ったノアの行動から、さらに他の例を見ることができます。彼は、その長い間、サタンと闘ってきました。ノアは、妻をはじめとした家族、隣人と親戚から排斥を受けなければなりませんでした。彼の国から、そして世の中から、嘲弄と反対を受けました。一度でも、その仕事を放棄しようとしていたなら、彼はもう一度、サタンの侵犯を受けていたでしょう。しかし彼は、そのすべての困難を克服して、その使命を完遂するのに成功したのです。

 彼は、サタンと対抗し闘って、自分をサタンから分立させました。神様は、彼を愛するようになり、彼は神様の愛の中に住むようになりました。しかし、それがすべてではありません。誰かが神様の愛の中に住むようになれば、神様はその人をサタン世界に送り出し、困難と苦痛の中で、その人自身を犠牲にするようにさせるのです。そこにはもちろん、彼を鍛練するという理由もありますが、全世界を救うために自分を精いっぱい犠牲にしようとする彼を通して、神様はもっと多くの人々を救おうとされるのです。義人であり、正直な人であり、善なる人であったノアは、いつも悲しい心情で、涙を流しながら、自分を犠牲にしなければなりませんでした。彼は自分のためではなく、他人のために自分を犠牲にしなければなりませんでした。(五二―五二)

 ノアじいさんは、迫害が激しく荒々しい環境の中でも、渾身の力を尽くしていったので、その環境に勝利することができたのでした。神様の法度の前に、息子としての忠孝の道理を尽くすだけだ、という謙遜な心をもって進んでいったのです。神様の前に進めば進むほど、環境の非情さを感じ、悲しみを覚えましたが、そのような時であればあるほど、ノアじいさんは、神様に申し訳ない心で悔い改めの涙を流していったので、彼の行く道を遮る者がなかったというのです。何の話か分かりますか? そのようにして百二十年間を過ごしてきたノアのことを一度考えてみてください。ノア一人に対して、サタン世界は、打つすべての方法を動員し、反対するだけ反対しましたが、神様が中心として立てたその基準から見て、ノアは少しのずれもなかったのです。その基準は、天宙の絶対的な中心として立てたものであり、宇宙の正義の人間として立てたものであり、真の勝利者として立てたものです。ですから神様は、この基準に反対するすべての怨讐の要素を清算させようとされたのです。このように、最後まで打たれていけば、素晴らしいことが起こるのだというのです。(一八―一五九)