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三千万の国民がいる一つの国が戦乱時あるいは非常時に臨んでいるとすれば、その国を救う人はその三千万の国民全体ではありません。国民が数億いたとしても彼ら全体が国を救うのではありません。その国を救うことのできる人は、一つの基準を立てたただ一人の人なのです。ただ一人の人の影響で国を救うことができます。彼は過去から現在まで、どこの誰よりもこの民族が積んできた歴史的な善の実績を重要視します。そして彼は現時点において、この民族が歩まなければならないあらゆる問題に対して責任を負い、未来にはこの民族はこうあらなければならないという信念をもって断固として立ち上がる愛国者です。
そのような愛国者が提唱する内容が一つの基点となり、この国家を救うことのできる道が開拓されるのです。それゆえ国民全体が国を救うのではなく、その国民を代表する方によって新たなる運勢を迎えることもできるのです。その反面で、新たな運勢を迎え損う可能性もあるということを、我々は知らなければなりません。
ですから、それを提唱する人は新たな運勢を迎えるために険しい道を行かなければなりません。彼に押し寄せるあらゆる試練と苦痛を、将来の希望の世界と比べてみる時、希望の世界へと向かう心がより強ければ試練や苦痛を克服することができます。険しい峠を越すことができるのです。そのような心の姿勢が生命と一体とならなければなりません。そのような基準にならなければ、歴史時代を越えて新しい時代の基盤を立てることができなくなるのです。(二六―二五六)
自分の体を公的な仕事にささげなければなりません。三千里半島の至る所を走りながら、その山野や道を眺めながら「お前は私のことを知ってくれ」と言わなければなりません。我々は昔の通りすがりのお客とは違い、憂国の士とも違います。過去に大韓民国のために尽くし、四十年間の倭政圧制下の時代に、国を想い涙を流してこの道を歩んでいった人がいたかもしれませんが、そのような人たちとは種子が違うのです。数千年の歴史路程において天が探し求めてきたその道を、自分が受け継いで涙を流すことができる、このようなことは歴史上初めて成し遂げられる神聖なことであるということを、よく考えてみなければなりません。汗を流してもやはり同様であり、眠っても同様なのです。(五八―一六〇)
我々は、大韓民国をどうやって神様のみ前に復帰させるのかという目標を中心に進まなければなりません。イエス様がユダヤの国を救うために命を懸けて戦ったように、我々も大韓民国を救うために命を懸けて戦わなければなりません。この国がどこへ行くのかを神様に代わって凝視しながら、怨讐どもが出没する根拠地を必ずや破壊してしまわなければなりません。しかし、この世的な方法でしたのではだめなのです。
統一教会が行う作戦と方法は別にあります。涙と血と汗を流しながら打たれて奪ってくる、踏みにじられながら奪ってくるのが、我々の作戦と方法なのです。その作戦の結果、我々は敗者の悲しい位置を免れたのです。皆さんは既にこれを実施して勝利の結果をもたらす体験をしたので、このような作戦を休みなく展開しなければなりません。そのためには我々が果たさなければならない責任分野がいかに多いか、体が百万、千万あっても足りないということを感じなければなりません。
私は今までどのような愛国者にも負けないほど、大韓民国のために涙を流してきました。骨がにじみ出るほど涙を流しました。どのような愛国者にも負けないというのです。このことは先生が弁明しなくても、神様がご存じでしょう。
宗教分野においてキリスト教を中心に見れば、キリスト教徒たちが殉教を目前にして、露のように消えゆく場面において神様のみ前に祈祷した、そのような瞬間を先生はすべて経験しました。死ぬことは簡単です。しかし死ぬことによって終わるのではありません。死んではならない運命をもって死の道を分け行くことはかえって難しいのです。このように今まで五十歳近い生涯をかき分けて、恨の歴史と悲しみの歴史を伴ってきました。(二六―二一)
今や皆さんは歴史上の先祖たちを代身した代表者であり、世界を収拾することのできる救世主と同じ立場において、未来の患難をすべて打ち倒し、最高の幸せの土台と天国の枠組みを整え、生きているうちに天に無限の栄光の土台をつくって、それから死ぬと誓い、恨の絶頂も感謝しながら歩んでいかなければなりません。そのようになれば必ずこの時代の十字架は終わるのです。
終わるとは世界が終わるということではありません。大韓民国です。大韓民国! 大韓民国が我々に反対せずに、歓迎する時が来るというのです。三十八度線以北が我々と対等な立場で、腹を割って話をするようになれば、我々が優位に立たなければならないというのです。我々が彼らよりも優勢な立場において彼らを養い、愛で抱いて解かしてしまわなければならない道が残っているのです。そのようなことを考えれば、我々は以北の怨讐たちを愛することのできる訓練を行わなければならないのです。
それゆえ我々は今日、国民から受ける受難を訓練と見なさなければなりません。未来の第二の戦場において勝利の結果を得るように、発展するためにはそれを一つの訓練と考えることができなければならないのです。そうして、これよりもっと困難なことがあっても、我々はたやすく実行するのだという決心をして進むなら、皆さんはどのような道を行こうとも滅びることはないでしょう。(四三―二八〇)