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一.怨讐を愛さなければならない根本理由
サタンは今何をねらっているのでしょうか。神様を正確にねらっています。神様は理想基準を永遠に維持される方でなければなりません。神様にお伺いしてみれば、神様はこのような事実を認められることでしょう。サタンが神様に「神様、最初に私を天使長としてお立てになられた時には一次的な愛でお立てになりましたか、それとも永遠な愛のためにお立てになりましたか」と質問をすれば、神様はどのように答えられるでしょうか。
神様は「永遠に愛するために立てた」とおっしゃることでしょう。一次的な愛で立てたと言えば一次的な神様となってしまうのです。永遠に愛するという基準をもたなければ、いつかはサタンの前に神様の権限を行使することができなくなるのです。ですから神様は、サタンがどのように反対しても、彼を愛したという条件を立てざるを得ないのです。サタンは神様に「私は堕落してこのような悪いやつに成り下がりましたが、あなたと善なる人は私と似た方法を取るわけにはいかないのではありませんか。私は争うことを好むが、あなたは争いを好んではならないのではないですか。殴られてもじっとしていなければならないのではないのですか」と言うのです。
神様は「無抵抗主義者」です。それは何のためでしょうか。神様はこの地球上に天国理想、悲願の世界を成就する時まで、どのような環境の中においても天使を愛さなければなりません。神様は、サタンがどんなに暗躍し飛び回っても、罰したり切り捨ててしまうことはできません。どこにいても愛したという基準を立てて、サタン自身が「ああ、本当に神様は神様であられる。幸福でした」と告白をしない以上、神様は完全に勝利を成し遂げることができません。それが問題です。
その問題によって神様はサタンの綱に縛られている立場になっているのです。神様がこのようにサタンを愛することによって屈服させていかれるとするなら、神様の子女である我々もやはりその道を行かなければならないのです。
世界的に迫害を受けても、世界的な怨讐圏に立つようなことがあっても、彼らを愛したという条件を立てなければなりません。これに神様も引っ掛かっており、神様の子女にならんとする宗教界のあらゆる人々が引っ掛かっているのです。「怨讐を愛せ」というみ言は偉大なる真理です。内容は簡単ですが、これが神様とサタンの戦いの勝敗の分かれる境界線となってきたということを、これまで誰も知りませんでした。
神様がサタンを敵や怨讐と見なし、それに対して復讐するという思想をもったとしたら、絶対に勝利の頂点を手に入れることはできません。そのような観点から神様は「怨讐を愛せ。怨讐を愛せ」と言いながら、愛の作戦を展開して来られました。イエス様のみ言の結論も「怨讐を愛せ」ということなのです。(一九八三・四・三)
神様のひとり子であるイエス様がサタンの前に立って、自分を殺そうとする怨讐に対して祈祷したというのは偉大なことです。イエス様が死んでいくときも怨讐に対して敵対心を抱いていたとすれば摂理は逆転していたことでしょう。愛する心をもって死を克服したためにサタンがその場において屈服したのです。
永遠に神様の子女として残ることのできる資格がそこに生まれます。サタンもこれを認めてサインするのです。皆さんも神様のみ前において、「サタンよ、私は間違いなく神様の息子だろう?」と尋ねれば、「はい、間違いありません」と言います。また、「私の形どおりに生きていく者は神様の相対圏を拡大していくであろう。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界圏へと拡大するのに、異議はないだろう?」と言えば、「はい、それは原理的ですからどうしようもありません」と答えるように行動しなければならないのです。
このような条件に沿って、キリスト教文化圏を中心に摂理を推進してきました。犠牲の道、殉教の道、血まみれの境地にあっても神様を愛し、怨讐までも愛する運動を展開しなければなりません。家庭においても、社会においても、国家においても、世界においても、この運動を展開しなければなりません。怨讐国家を愛してきたキリスト教のこのような愛によって、極めてむごい迫害を加えてきたローマ帝国が屈服したのです。キリスト教はこのようにして世界的な宗教となりました。(一九八三・四・三)