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統一という問題は、今日単に国家的な問題として限定されたものではありません。これは拡大すれば世界的な問題であり、縮少すれば個人的な問題にも連結されるのです。世界の統一がある前に国家の統一がなければならないというのが、論理形成の正常な道だと見ます。そして国家の統一がある前に家庭の統一がなければならないのです。夫婦がどんなにお互いに幸福であることを願っても、その夫婦が一つになれない時には、その家庭は幸福になれないというのです。また家庭が幸福であることを願っても、私個人が幸福でなければその夫婦や家庭の幸福は不可能なのです。
したがって統一を願っても問題は人です。統一できる国がある前に統一できる家庭が出てこなければならず、統一できる家庭がある前に統一できる人が出てこなければなりません。
人には体と心があります。ところでこの体と心がお互いに闘うでしょう? 皆さん、自身を信じられますか。我々自身を信じられないのにアメリカをどのように信じますか。自身を信じることができない私が、どのように妻を信じ、子を信じ、国を信じることができますか。これが問題ではありませんか。
歴史始まって以来数多くの聖賢、賢哲たちが流れて行ったけれど、彼らの中で「私の体と心が闘わないで完全に統一された立場にしるしとなる石を置いた」と宣布した人が果たして何人になるでしょうか。(一九八六・三・一四)
私が私自身の統一的基盤をどのように築くかということが、極めて重要な問題です。私が統一の世界を願うならば、私自身から統一されなければなりません。私から一つになった立場に立たないで、統一的な世界と関係を結ぶということは、理論的に矛盾だと見ることができるのです。
この世界が不信の世であり、統一できない世だと見る時、この世界が一つになることができる所はどこでしょうか。同じように、国が一つになることができる所がどこで、家庭が一つになることができる所がどこかというのです。世界や国、あるいは家庭全体が統一されたその中心、その一箇所を探そうと見る時、その中心ポイントは結局「私」という人に帰着されるというのです。
すべてのものが一つから出発するのであり、一つから統一的基盤を築くには全体の統一は不可能です。混乱の中でも一つになることができる基準は私自身にあるというのです。「私」という存在を拡大させたものが世界であり、宇宙であるためです。(一九八三・六・五)
私の体と心の愛による統一は、家庭的な愛の統一といつも互いに通じることができるのです。家庭が和合した愛の夫婦は、家族だけでなく、その氏族にも通じることができます。愛する夫婦が一つになれば、その誰がかみつき引き離し、踏みつけることができますか。和合した家庭、和合した民族、和合した政府、和合した国家、和合した世界、和合した天地、和合した人間愛と神様が一体となったそのような世界が愛のユートピアではないでしょうか。そこには分立があり得ません。(一九八六・三・一四)
世界の統一に先立って国の統一、国の統一に先立って家庭の統一、家庭の統一に先立って個人の統一、結局私自体が問題だというのです。私自身の体と心が苦痛を受けているのに、家族や父母が喜んだとして安らかですか。我々の家庭がみな苦痛を受けているのに、国が何の関係がありますか。統一されたならどうだというのですか。安らかですか。世界が統一されたとしても、南北が分かれて闘うのに、我々がそこに同参できますか。ゆえに真の人を探さなければなりません。国家を越えて世界が慈しむことのできる人、世界を越えて宇宙が慈しむことのできる人、もし神様がいるならば、神様が真なる者だと信じてくれることができる人を探さなければなりません。それを妄想や空論だと言うことができますか。(一九八六・三・一四)
神様が人間をなぜ救おうとされるのでしょうか。万民を全部分裂させて、この世を戦場にしようとして救おうとされるのではありません。神様は万民が統一され互いに愛し、互いが一つの目的のもとで和同し、互いが互いを必要とする世界を構想していらっしゃいます。このような世界をつくるために、神様は万民の救いを目的としていらっしゃるのです。
しかし、どんなに神様が平和を待ちこがれていらっしゃるとしても、いつも問題ばかり起こす厄介者のこの体を、そのままにしておいて統一するというのは絶対に不可能です。万民が願い望む理想世界、統一世界を成し遂げるためには、必ず体と心を先に統一させなければならないのです。体と心が分離されたまま、そのままであっては統一されません。(一八―三一八)
この世界を救うところにおいて問題はどこにあるのでしょうか。この社会が問題ではありません。私自体が問題です。私の心と体が闘う、このような人として植えて置いたので、世界的にもそのような形態の唯物史観と唯心史観が出てこざるを得ないのです。これが世界的に結実される時期になったのです。このような時を終末というのです。
このような時点で平和か、新しい統一かという新しい一つの、その何かを創案しなければなりません。それゆえ、今後来るその世界においても問題は私自身です。私自身が問題だというのです。私の体と心に、平和の心情的基準が歴史の流れと通じることにより、社会のすべての逆境を克服できる余裕満々な心情的要所を、どのようにして私の心情の中に移し植えるか、これを我々がどのように応用するかということが問題だというのです。(三二―二〇一)