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第三節 心と体の統一方案

 

一.神様が宗教を立てられた目的

 

 今までは堕落した人間の心と体が闘ってきましたが、その比率がお互いに似たり寄ったりでした。その比率が十対八程度でした。体が対している環境は世界全体と接しているけれど、心が対すべき道は一つの道しかありません。堕落した世界に対する人間の体は、時々刻々に環境に占領されてしまいましたが、心は一つの道に従って出てきたのです。それゆえ、現実世界は現れる結果を取り締まって出てくるのです。

 悪いことをしようとする時、心に恐怖が来るようになります。そうしていて、そのことを行うようになれば、今まで積んできたものが崩れます。これを見る時、心は肉身の行動を一番最初から、序盤から干渉するけれど、終盤に至っては肉身に支配されるのです。それゆえ、外的な比率で見れば十対八程度ですが、環境ゆえに心がいつも押されて出てくるのです。

 それでは神様は宗教を立てて何をされようとするのでしょうか。外的な環境に対比される恩賜を与えようとされるのです。与えるのには、ただ与えてくれるのではありません。精誠を捧げれば与えてくださるのです。その国の国運を左右する君主が精誠を捧げる以上の精誠を捧げなさい。命を懸けて精誠を捧げなければならないというのです。

 精誠を捧げるようになればどのようになるのでしょうか。神様の恩恵が来るのです。祈祷生活をしてみた人は分かるのです。祈祷生活をするようになれば、大きくて偉大な力が来るのです。ですから祈祷する人の目はその力によって、肉界だけでなく霊界までも透視するのです。

 神様は超自然的な実体の理念圏を人間に因縁づけてくださるために、宗教的な基盤を中心として摂理してこられました。人間の本質的な感情を刺激させて、そのような圏内へ行けるようにする欲求を起こすのです。そうして人間を超現実的な善に連結させようとされるのです。そのようなことをしてきたのが宗教です。

 それゆえ、信仰人は、殉教するようになって首が切られたとしてもよいとして信仰の道を行くのです。現実的な感情を超越できる超現実的な感情を実質的に、広範囲に感じるために、彼らが死線を越えながらもその道を行くのです。だからこの道を行く人々は、千万ほどの力を八千万ほどの力に増大させなければなりません。そこに神様を迎えて力を増大させ体を打てというのです。

 闘うのには力が勝敗を決定します。宗教は世の中での体の欲望と社会の要求によるすべての一切を防ぐのです。それゆえ、現実的な全体を否定して出てきた宗教こそ純粋な宗教であり、理想的な宗教だということができます。

 宗教は否定するのです。それゆえ、全部捨てなければなりません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい。情欲、食欲、睡眠欲を捨てろというのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てろというのです。人は本来食べて寝なければなりません。そして好まなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しろというのです。体に爆弾を爆発させろというのです。粉々にして全部占領しろというのです。体は高められることを好み、楽な位置を好みます。またごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。我々はこの体が好むことを好んではなりません。

 ですから我々はまるまるしたもの、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでもよく食べることを好みます。他人はどうなろうが、自分が豊かに暮らせれば喜びます。ですからそのような根性を全部たたき壊さなければなりません。高まることを好む体を低くしなさい、温柔謙遜になりなさい、犠牲奉仕しなさいというのです。(一八―六六)

 

 人類歴史に宗教が必要ならば、その宗教によって何をしなければならないのでしょうか。肉身を征服しなければならないのです。なぜなら、肉身によって歴史が滅び、肉身によって社会が滅び、肉身によってこの人類が滅びたためです。したがってこの肉身は怨讐の母胎であり、罪悪の根本の根だということを切実に感じなければなりません。

 このように体を打つことが今までの宗教の根本なので、イエス様は四十日断食を通じて凄惨に体を打たれたのです。体は高まることを願い、前に進み出ることを好むのに、宗教は体に服従し従順しろ、死んで祭物になれと教えます。全部反対に教えます。なぜそうなのでしょうか。それは心を打つためのものではなく、肉身を打つことにより世界的な綱を渡って出るためです。(一八―三二二)