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人間の体と心は毎日のように闘っています。体が勝つか心が勝つかという時、いつも心が体に負けるようになっているのです。これをひっくり返して心が体を征服できる、いつも心が勝つことができる私、そのように統一された私、絶対的な基盤の上においてその誰も支配できない絶対的な善の上に立った「私」はどこにいるのでしょうか。そのような私を願えないのが、今日の我々の人生行路だということを考えるならば、極めて悲しいことだといわざるを得ません。
このような人間たちが、そのような歴史を編んできたし、今もそのように生きており、今後もそのように生きるだろうということを考える時に、ここですべてのものを清算して、それこそ生活全体が、悪と善を対比して取り出しても取り出すことができる悪がないということができる人、それが我々人間が願う最高の希望なのです。それにもかかわらず、そのような人がどこにいるかという問題をおいて見れば、それは探すのが難しいと見るのです。
こういう観点から、結果として人間によってもたらされた悪が多いけれど、これをひっくり返すことのできる人間を発見することは極めて難しいというのです。これをひっくり返して人生行路において「悪というものがない。取り除こうとしても取り除く悪がない、善だけである」と言える人間がいないということを考える時、人間を通しては、そのような善の基準を立てることができる道がないと結論づけることができるのです。(五六―二三九)
皆さんは自身を管理するのが非常に難しいのです。心はこっちへ行くことを願い、体はあっちに行くことを願うためです。東洋にはこのような格言があります。
「人心は朝夕変わり、山の色は今も昔も同じである」このように心が朝に夕に変化するのに、どのように統一をするかということが問題です。
それでは歴史的に有名な聖賢たちはどうであったかということを調べてみる必要があります。イエス様はどうしたでしょうか。孔子、釈迦はどうしたでしょうか。我々は一時間にも体と心が数百回回るけれど、聖者は体と心が一つ所にある人です。
例えば女がいるとしましょう。イエス様も女を見て心がどうでしょうか。イエス様も男であるゆえに心が揺れ得るのです。しかし足を離さないでその場に立っていることにより、体は倒れないのです。しかし普通の人々は違います。普通の人々は手足がまずついて行くのです。それで体の衝動、心の衝動を自制できず倒れるようになるというのです。
どんなに立派な人がいるとしてもイエス様以上にはなれません。イエス様は体と心が一つになったけれど、我々はそうできません。アメリカでは男と女が会えばどこででも愛し、思いのままキスをします。しかし愛は貴い場所でなされなければなりません。義人や聖人はメートル法的なキス、正常な形態のキスを願うのです。
男女関係を中心として一例を挙げましたが、この地上に住む堕落した人間はそのように考えません。義なる人として新しい理想を追求しようとするならば、まず体と心が一つになるところから出発しなければなりません。個体が一つになることができなければ、理想を成し遂げるということもまた不可能だという結論が出てきます。(一九八三・六・五)
皆さんの体と心が神様の愛を中心として生きていかなければなりません。ご飯を食べる時も神様の愛を中心として食べ、考え、活動をする時も神様の愛を中心としてしなければなりません。体と心が神様の愛を中心として生きる人にならなければなりません。
ところが皆さんの体と心が怨讐になっています。神様の愛を中心として根を下ろさなければならないのに、サタンの愛で先に根を下ろしたためです。そこから体と心が分かれて闘っています。(一九八六・二・一)
神様の創造理想はカインがアベルの兄さんになることであったのに、堕落することによりアベルが神様の長子圏に立つようになるのです。これを蕩減復帰してこそ天国理想が立てられるようになるのです。堕落した世界では体が心を支配していました。体が心を支配するために、人間世界に闘いが絶える日なく起きており、不義と不道徳な社会が続いてきたのです。堕落の世界では心の前に体が絶対に服従しないためです。
心と体が一つになれないために、個人は体と心が闘い、父と母が闘い、父母と子が闘い、民族と民族が、国家と国家が闘っています。人間世界から闘いをなくそうとするならば、心と体が一つにならなければなりませんが、そのためには真の父母を迎えて接ぎ木されなければならないのです。今日の人類は、父母を迎えて神様の愛で誤った部分に対して矯正を受け、新しくならなければなりません。そうでなくては自分自らを治められず、闘うことを中止させられないのです。(一九八六・一・一)