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四.血統が変わってこそ統一を成すことができる

 

 それでは、サタンはどのようにして人間の体に侵犯し入ってきたのでしょうか。何ゆえに入ってきたかというのです。何の薬を使ったゆえに入ってきたのでしょうか。何の病気になったかというのです。これを知らなければなりません。原理で習いましたが、堕落したあとサタンの血統が入ってきたのです。サタンの血統に通じているというのです。サタンの愛を通して連結されたすべての原因と結果がもつれているためにそうだというのです。それゆえ、この体にサタンの愛よりも強い注射さえ打てば、サタンはさっと逃げるのです。神様の創造原則において、元来、体と心は何を中心として絶対的に一つになることができるのでしょうか。神様の真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、他の愛でもって一つになるようになっていません。

 人間が堕落したために何の木になったのでしょうか。野生のオリーブの木になりました。野生のオリーブの木になったというのです。ですから真のオリーブの木であられるメシヤが、必ず堕落した世の中に出てこなければならないというのです。その次にどのようにしなければならないのでしょうか。野生のオリーブの木の首を切ってしまわなければなりません。首を切ってしまい接ぎ木しなければならないというのです。芽はみな同じです。野生のオリーブの木でも真のオリーブの木でも芽を見ればみな同じです。真のオリーブの木の芽一つをもって、野生のオリーブの木のすべてのものを切ってしまおうとすれば、世の中の知らない人々は、世の中にこのような狂った野郎がどこにいるか、それと変えることができるかというのです。それゆえ、イエス様が「私の血と肉を食べない者は私とかかわりがない」とおっしゃったのもそれを意味するのです。

 野生のオリーブの木が、真のオリーブの木に接ぎ木をされた木になったのちは、サタンは関係なくなるのです。サタンとは関係ないというのです。それで接ぎ木した木は、ほうっておいても秋になれば全部この真のオリーブの木として収めるようになるので、天の国に、天国にそのまま入ることができるのです。それゆえ、これを切って接ぎ木せずには、再び生き返る道がないというのです。

 すべての宗教には、儒教教理だとか、仏教教理だとか、イスラム教教理だとかみな再臨思想があります。全部が「メシヤが来なければならない」と言い、それを願っているのです。したがって、神様の愛と一体となった体のメシヤが来て、それをみな接ぎ木することのできる世界運動圏が展開されることなしには、一つの統一された世界、統一という名詞は出てきません。宗教の教理がどうであろうとも、その教理で救いを受けるのではないのです。問題は、どのようにサタンを除去してしまうかということです。サタンを除去してしまってこそ天国に行くのであって、サタンを除去できなくては天国に行けません。サタンがついてくることができ、サタンの条件に引っ掛かっては天国に行けないのです。血統が変わらなければならないのです。血統が変わらなければなりません。(一六一―一六)

 統一の基盤は私自体ですが、私自体において、これは私一人では不可能です。血統の根がサタンであるゆえに、私一人でいては永遠にその木から抜け出ることができません。分かりますか。それゆえ、聖書では野生のオリーブの木になったと言いました。元来、真のオリーブの木になったならば、体と心が完全に一つになって、どの国、どこに行っても万民が楽しみ遊ぶことができる、誰でも好むことのできる人間になったのです。それにもかかわらず、どこに行っても悪くなれる人間になったのは、野生のオリーブの木になったためです。その根が、野生のオリーブの木の根がサタンになっているために、その結果であるすべての人類は、野生のオリーブの木の枝になり、葉になりました。それで今日人間は、闘う人間になったというのです。こういう根本を知らないために、ヘーゲルのような人は、人間をどんなに解剖してみても闘う人間であるから、弁証法という論理を探したというのです。(八六―三八)

 

 我々はサタンの血統を受けて生まれた自身であることを知らなければなりません。それゆえ、宗教は体が願うことを否定する道を歩いてきました。自分自身がサタンの血統を受けて生まれたことを否定するために、苦行の道を歩んできたのです。良いものを食べたいという体の欲望を否定するために断食をして、サタンの血統を受け継いだものを否定し、神様の愛のために夫の愛、妻の愛を捨て、子を否定しなければなりません。それだけでなく、サタンの愛を中心としてなされた家庭と社会、国家、世界を否定しなければなりません。世界全体を否定せずには神様の愛を受けることができないのです。

 今日統一教会とレバレンド・ムーンが出てきて、これを明らかにしたのです。それゆえ、統一教会を通じなくては、皆さんの体と心が愛の根を下ろすことができる道はないということを知らなければなりません。統一教会は神様の愛を中心として、民族、国家、世界まで愛の一つの根になり、枝になり、葉になって接ぎ木する役事をしなければなりません。接ぎ木するためには、世の中のすべてのものを切ってしまわなければなりません。それでイエス様は死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬと言ったのです。(一九八六・二・一)