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二.すべての宗教が実を結んだ韓国

1 長い歴史の受難の中でも神をつかんできた韓民族

 皆さんが知っているように韓国は南北に分かれており、その次には東西文明の思想的な対決点となっています。皆さんが韓国に対してさらに知らなければならないことは、韓国民族は単一民族であると同時に外国民族によって受難に遭ってきた歴史性をもっている民族であるということです。中国に隷属し、中国の指導のもとで長い歴史過程を経たのであり、また日本であるとかソ連はそうではありませんが、強大国たちの狭間にありながらも……。

 特に女性たちは他の国の男たちとは結婚をしないという特徴を誇る、そのような民族です。特別に純潔において韓国女性たちは……。韓国人は全部いまに見ていろ、いまに見ていろという歴史性をもってきました。たとえ弱小民族であっても、いつかお前たちを踏みつけてのし上がってやるという民族性を、そのような精神をもっているのです。そこが違うというのです。

 そのため、韓国人たちはよくチュンググノム(中国のやつ)、ソリョンノム(ソ連のやつ)、イルボンノム(日本のやつ)、ミグクノム(アメリカのやつ)と言うのです。他の国の人に対してそのように見てきたのです。アメリカ人をミグクノムと言うのです。また、我々の長い歴史を見てみるとき、ユダヤ民族ももちろん苦労をしましたが、すべての強大国の中で、国と国の狭間において苦労した民族として世界の代表ではないでしょうか。歴史を通してそのような苦痛を受けてきたのは、自体が劣っていたからというよりも、強大国に包囲されていたためです。そのような侵略を受ける立場で苦痛を受けてきた代表的な国家だというのです。今も東西文化が対峙する立場で苦痛を受けているのは、韓国人が動機となっているのではないのです。世界の潮流に従って、民主世界と共産世界によってこの受難を受けているのです。これも一つの世界史的な受難過程だというのです。

 なぜこのようなことを語るのでしょうか。そのような試練の中でも、いかなる民族ももてない一つの特徴をもっていますが、それが何かと言えば、苦労の中で耐えながら、受難の中で耐えていきながら神様に対して、「我々の願いをかなえてください」という祈祷の心を、民族が一つとなって歴史を通して継承してきたという事実です。これはいかなる民族にもないものです。普通の民族ならば「神様がいるならなぜこのように苦労をさせるのか」と言って、自分たちを呪う神様と見るはずですが、その反対の立場を取ったということは歴史時代のいかなる民族とも異なる特徴性をもっていることを立証するのです。(一六八―五一)

2 信仰心の強い民族

 歴史的に見るとき、信仰心に燃えている民族はどの民族でしょう。神様という言葉も聞くことができず、先知先烈のいかなる予言もなかった五千年の歴史をもってきた韓民族が、何か知らずに天に対する信仰心が高いということを私は発見しました。皆さんが何と言ってもいいです。私は発見しました。

 この民族、東半球の爪のように小さなこの国が今まで子々孫々、時代時代を経て五千年の歴史をもってきたという事実は奇跡です。韓国歴史を調べてみてください。あれほど多くの侵犯を受ける危険な歴史路程を経てきました。食べては吐き捨て、食べては吐き捨て、吐き出すときには肉が付いていませんでした。そうしながらも民族の精気として流れるその何かをもって希望の一日を望んできました。極東の韓半島を動かしてきた希望の民族精神、これがあったために今まで闘ってきたのです。このような精神をもって動いてきた民族にメシヤが来ないでしょうか。私が見るには、来るというのです。皆さんはこれを知らなければなりません。

 また、情的な面でも極東では韓国人以上に情熱的な人はいません。また東方礼儀之国と言います。この国に儒教も入ってきて盛んになり、仏教も入ってきて盛んになりました。キリスト教も同じです。しかし今は信義の宗教、希望の宗教であると主張した仏教も、儒教も、キリスト教もその使命を果たした段階にあります。しかし残っているものは何でしょうか。民族精神を中心として世界理念に燃えることのできる隠れた情熱が心からほとばしっているのです。(七―一六六)

 極東において韓国人は信仰的な見地から見ても希望的な見地から見ても、どの民族にも引けを取りません。

 また、信仰的に見るとき、韓国の現下のキリスト教は七十、八十年の短い歴史をもっています。ところがそのように短い宣教の歴史でありながら、信仰的にはどの国家にも負けず、世界第一の位置に立っています。信仰問題においては、世界のどの民族にも負けない権威をもっているということが分かります。(七―一七〇)

 私は何か皆さんを慰めるためにこのようなことを言っているのではありません。私は有名な所をみんな見てきたのです。スイスのような国に行ってみても、美しいという所に行ってみても、それほど興味がないのです。美しくは見えなかったのです。しかし韓国では車に乗って走ってみれば、これが本当に、それこそ未来の公園地です。美しい峰々、これが険しくなくて、どこでも頂にとてもよい別荘を造ることができるのです。

 このような国に生まれた韓国人たちは特別に頭がよいでしょう。頭がよく、心が澄んでいるでしょう。このように見るとき、韓国民族は宗教的な民族に近いということです。そのためにこの国においては高麗時代には仏教だとか、李朝時代には儒教だとか、この現時代に至ってはキリスト教が、このアジア地域のいかなる所においても成すこのできなかった、そのような結実を成して、国家的影響を及ぼしてきた文化的背景も我々が知る事実です。このように見るとき、韓国民族はこのような美しい自然的恵沢を受けたこのような圏内で生まれたために、それと同じように人々も頭がよく心が澄んでいるのです。そのため宗教的民族に近い、このように見るのです。

 そのような人々がもし神様と一つになる日には、この民族を中心として世界に新しいことが起こるだろう、このように考えています。(八四―二三七)

 我々民族は今まで数千年の歴史を経てくる間にさまざまな道を中心としてきた民族であるために、道を中心とする民族性を潜在的にもっています。この民族のように信仰心が強い民族がありません。寂しく惨めな境遇に置かれるようになれば、すぐに占い師の所へ行って尋ねてみます。最近はそうです。上下を問わずそのような心情が濃厚なこの民族は、何かに帰依して生きなければならない民族性をもっています。(九―二九二)

3 すべての宗教が実を結ぶ韓国

 今日地球上には数多くの国家があります。その中で今までの歴史路程で人類の前に貢献した国家も多いですが、その国家の主権が宗教的な理念のもとで動いてきて、長い歴史をもった国はどのような国でしょうか。一つの宗教の理念を中心として歴史を経てきた国家は多いですが、数多くの宗教が入ってきてその理念が国家の主権を左右して、国民たちの生活全体を動かした歴史をもつ国は韓国しかないというのです。

 客観的に韓国の宗教を眺めてみれば、新羅時代から高麗時代までは仏教が入ってきて一大盛況を呈しました。その時代の国民はもちろんのこと、思潮や主権まで左右しました。宗教の起源地がどこであろうと、創設者が誰であろうと、宗教文化を花咲かせる国が韓国です。仏教はインドで発祥しましたが、中国を経て韓国に入ってきて、国家と主権を動かして是非を決する闘いをしました。また、それ以後李朝時代には儒教が入ってきて国の主権を支配し、社会制度を編成しました。そうかと思えば近代にはキリスト教が入ってきて百余年の歴史にしかなりませんが、この時代を動かしていく上で大きな影響を与えています。(九―二八〇)

 すべての宗教を結実させることのできる民族というものは、長久なる歴史を通してうまずたゆまず耐えて待つ、世界のために心配して、人類の一つの大きな目的をもって出ていく民族です。神様もそのような民族が必要だと見るのです。(一六八―五二)

 神側で世界の宗教を立てたなら、どこか一箇所で実を結んで最後の結実を収穫することのできる所を探すに違いないと見るとき、そのような民族に該当するのは韓国民族しかないのではないか、このように見るのです。

 インドで出発した仏教はインドから中国を経て、どこに来て実を結んだのかと言えば、インドではなく中国でもなく、韓国においてです。仏教が韓国で花を咲かせたのです。新羅時代を中心として燦爛たる文化の花を咲かせたのみならず、仏教教理においても革新的に、元暁大師のような両班が現れて社会と連結させことのできる新しい仏教を開発したのです。これは歴史的なことです。

 その次に儒教を見てみても同じです。韓国で李朝百年の間、国家全体が儒学を国民的道義の基準として全国民が儒教思想を中心とした生活をしたのです。そのような一つの国家全体を整えたのです。李退渓のような先生が現れて儒教の新しい分野を開拓したことも、儒教学界において中心的な一つの表象として表れているのです。

 その次には、キリスト教を中心として見るときも同じです。キリスト教が今までに百年の歴史をもっていますが、百年の歴史をもったキリスト教が仏教だとか儒教思想の体制を完全に革新し、新しい体制を整え、新しい文化世界を成したのです。現代文化世界を受容しているキリスト教文化を中心としてみても、アジアで完全に一つの代表的なキリスト教国家として、政治風土がみなキリスト教文化体制化したということは驚くべき事実です。さあ、このように見るとき、世界の大宗教の背景を中心とする歴史的な因縁が、神様の摂理とともに韓国民族の前にみな連結されているということを知ることができるのです。

 アジアで見ても大きな国だというインドだとか、中国だとか、日本だとか、そのほかの国を見ても、このような国がありません。このような国がないというのです。キリスト教を見ても中国は問題になりません。日本も問題にならないのです。インドも問題ではありません。ただ一つ韓国が、キリスト教が盛んなアジアの代表的国家となったのです。

 今キリスト教だけだとしても、仏教もそうで儒教もそうで、宗教がみな疲弊していくこの世の中で、その上この現代的社会文化の精神的基盤となっているキリスト教を中心として見たとしても、西欧社会においても没落していくのに、韓国だけは並外れてキリスト教が発展しているのです。それが異常なのです。異常だというのです。(一六八―五三)

4 摂理史的伝統思想をもった韓国

 韓国国民は仏教生活環境に慣れており、儒教生活環境に慣れており、キリスト教生活環境に慣れていると見ることができます。四十を越えて五十代に該当する人々はなおさらそうなのです。仏教だとか儒教だとか、その次には、それ以後のキリスト教の生活、この三大宗教生活に慣れることのできる環境的与件で生きてきたので、民族の歴史、あるいは世界の歴史を見てみるとき、神様の摂理を中心とする国家で、公的に、世界のために宗教的な面であるいは道義的な面で世界を代表し、歴史的な受難の道を行く人は、天から世界的祝福を受けなければならないということが、我々の原理の教えと通じます。

 それではその主体思想は何でしょうか。世界を一つにする思想であり、平和の思想です。そのようになったのは、この思想を受け継がせるための天の作戦だったという結論を出すことができるのです。それが何かといえば、宗教を統一しなければならず、その次には内的な基準を統一した後には、外的な基準を一つにしなければならないのです。それは平和のためにです。平和のために! 政治目的は平和を成さなければならないということです。なぜでしょうか。強大国から歴史時代に九百余回以上、九百三十回ほども侵略を受けたというこの事実を見るときに、これはだめだということです。韓国民族が平和思想をもって現れ、歴史的な代表民族となることができる、このような伝統の内容が隠されていたという事実を誰も考えないのです。

 さあ、それでは統一をするのにどうやってしなければならないのでしょうか。どうやって一つとなって平和の世界を得るのでしょうか。神様を中心として統一しなければならず、平和を達成しなければならないのです。神様を中心として見るときも、神様の願いは人類を一つにすることと平和にすること、この二つだというのです。同じだというのです。ですから摂理のみ旨の前に、歴史的な終末時代において、このすべてのことに対峙することのできる民族的精気をもってきた特殊民族だという結論が出たのです。

 そのために宗教を中心として見るとき、宗教を一つにすることのできる思想が必要であり、その次には平和の世界をつくることのできる愛が必要である、このように二種類の結論が出るのです。神様がいらっしゃるならば、このように考えるのです。

 このような観点から、今日統一原理が、この国を背景として出てこなければならないという歴史的な伝統の思想が根拠となっているという事実を我々は知らなければならないでしょう。そしてキリスト教を一つにすることはもちろん、宗教界を一つにして、世界を平和な世界にまとめるために神様の愛を主張することのできるこの原理が、必然的な伝統に従って出てきたという結論は、妥当な結論であるということを皆さんははっきりと知らなければならないでしょう。(一六八―五四)