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第二節 第三イスラエルとしての韓国

一.第一イスラエルと神様のみ旨

1 第一イスラエル圏の出発

 今我々が知らなければならないことは、聖書にイスラエルという言葉がありますが、イスラエルという言葉はいかなる言葉なのでしょうか。イスラエル! それは、人と言えば男と女をいうのですが、男を中心として女に勝ったということではなく、女を中心として男に勝ったということではありません。それはある男女を中心として、ある家庭であるとか、ある環境を中心として勝ったということではありません。それでは勝ったというその言葉は何でしょうか。サタンに勝ったということです。

 イスラエルという言葉はヤコブの時から始まりました。二十一年間ハランの地で苦労し、帰ってくる途中にヤボク川で天使と相撲をするその場において、ヤコブが勝利したその日からイスラエル圏が始まったのです。それでは、そこで勝利したというのは何に勝利したのでしょうか。天使に勝利したというのですが、その天使は誰かと言えば、堕落した天使長を代身する存在です。堕落とは何でしょうか。人間が天使長に負けたことです。それで救援なり、復帰という言葉を成就するために、人間が天使長を代身した天使と闘って勝ったということなのです。

 それではイスラエルという名前をもらったヤコブの本質的な抱負が何であったのでしょうか。それがまた問題です。エサウの長子の特権を買っておいて逃亡したヤコブは、神様が祝福したアブラハムと共にあることを知り、その神側に立つことのできる懇切な心をもった人です。弟として生まれましたが、何としても神様の祝福を受け継ぐことのできる家庭をつくろうとし、また誰よりもそのような家庭を追究した人がヤコブだというのです。そのため、皆さんが聖書を見れば、非倫理的な内容が記録されていますが、摂理史的な観点から見るとき、そのように行かなければならなかったのです。

 そうしてヤコブは二十一年間そのみ旨を成すために、ハランに行き多くの苦労をして帰ってくるのです。帰ってくるときの、その心的要因は何であったのでしょうか。新しい家庭を考えたのです。その新しい家庭は、自分一人の家庭ではありません。エサウの家庭とアブラハム一族を中心とした家庭を恋しがりながら帰ってきたのです。このように神様が祝福したその一族を中心として、それが世界的な神様のみ旨を成すことのできる版図となることを願う心をもって、希望をもって帰ってくる道で、天使と闘って勝ったということなのです。

 イスラエルという名前をもらうようになった要因は、ヤコブの一家がよい生活をするためではないというのです。アブラハム、イサク、ヤコブの三代を中心として神様が祝福してくださった一族がうまくいくことを誰よりも願って帰ってきたヤコブだったのです。そこでその一族が問題となるのです。また一国を得るようになれば世界が問題となり、天地が問題となるのです。

 そのため、ヤコブの家庭を中心とする一族の勝利基盤を中心として、ヤコブは闘ったのです。そのようなヤコブにとっては、自分の財産が問題でなく、自分の僕が問題ではありませんでした。これらすべてのものを犠牲にしてでも、一族がよい生活をし、神様のみ旨に対するアブラハム、イサク、ヤコブの三代が、神様の偉大なる摂理のみ旨を受け継いで勝利したイスラエル圏を中心として、世界的な民族となることを願ったのです。神様がアブラハムに与えた祝福によれば、その後孫は天の星のように栄えることを約束したので、ヤコブはそのみ旨を受けて、世界万民が神様の眷属となることを願いながら、闘いの道を歩んできたということを皆さんは知らなければなりません。

 それではヤコブが勝つというとき、何に対して勝ったのでしょうか。サタンに対して勝ったのです。その次には……。数多くの家庭があり、数多くの一族がありますが、その家庭が処することのできる位置は……。ヤコブは自分の一家を中心として、ヤコブを中心とする十二人の息子、娘を中心として始めたのです。ヤコブ家庭はもちろんのこと、アブラハム、イサク、ヤコブの一族を中心として神様の理想的なみ旨の勝利的足場を要求するところにおいて、イスラエルの祝福が出発したのです。それを拡大するようになれば、その後偉大な一つの世界、神様の理想へと向かう一つの勝利的民族として、一つの理想世界へ行くことのできる代表的民族となりたいという心をもって出発したのです。それが神様がイスラエルを選ばれた本意であり、選ばれたイスラエル民族はその位置へ行かなければならない召命的責任があったのです。この二つが合わさって、イスラエル圏は出発を見たのです。

 このイスラエル一族を中心として、十二支派を中心として天は育てておいて、イスラエルの国とイスラエル教会――ユダヤ教――を形成したのです。四千年という非常に長い歴史を経て、イスラエル教団とイスラエル国を形成したのです。そうしながら、メシヤを送ることを約束したのです。「メシヤを送ってやる。お前たちがどんなに難しい中にあっても、メシヤを迎えればすべてのことが解決するだろう」と。これがイスラエル民族の前に約束したメシヤ思想でした。(一六八―三〇一)

2 イスラエル教団とイスラエル民族が行かなければならない道

 皆さんが知っているように、イスラエル民族がバビロンに捕らえられていって多くの受難を経験しました。捕虜生活をする中、三次にわたってイスラエルに復帰し、イスラエルの国に帰ってくることになったのです。そのようにして帰ってきたイスラエル民族は再整備をして聖殿を建立するようになったのです。そうしてマラキ預言者の時には彼を中心として内的にイスラエル教団を整備し、外的にイスラエルの国を整備するためのみ業をしたのです。四百年間を準備してメシヤを迎えるように、神様がそのように準備したのです。

 それではメシヤを迎えたらどうなるのでしょうか。メシヤを迎えればメシヤを迎えるそのみ旨が、メシヤを迎えるその神様のみ旨がイスラエル民族にのみ限られるのではありません。それは世界的だというのです。また、地上世界においてのみ迎えるのではなく、霊界にまで連結されているというのです。なぜそうなのでしょうか。堕落することによって、この地球星はサタンが支配するようになり、霊界には地獄が生じたのです。地獄が生じたというのです。それでサタンが支配することのできる版図は地上地獄世界と天上地獄世界までだというのです。そのため、それを解放しなければならないのです。堕落がなかったなら地上地獄も生じず、一つの理想的天国にのみ行き着くはずだったのですが、堕落によって二つの世界にサタンが支配することのできる世界形態が現れたために、これを解消しなければならないのです。これを越えていかなければならないのです。

 それではそれを越えていくことのできる人は誰でしょうか。その道を越えていこうと思えば、イスラエル人とイスラエル民族が行く道に従っていかなければならないのです。道は二つではありません。一つです。それでは、選び立てられたイスラエルの国とイスラエル教団が行かなければならない道とは何でしょうか。それは宇宙的なものです。使命が宇宙的だということです。イスラエルという特定の民族が選びを受けたとしても、その特定の民族のために行かなければならないのではなく、人類のために行かなければならない道だというのです。

 イスラエル宗教を中心として見るとき、世界には数多くの宗教があります。仏教が現れており、儒教が現れており、ヒンズー教が現れているのです。このように宗教が多いといっても、この宗教が戦うのではなくて、これを収拾して一つの世界に行かなければならない、全世界の人類がみな分かれて戦うのではなくて、一つにしなければならない、宗教と宗教が戦うのではなくて、一つにしなければならないという思想がなければなりません。

 宗教を一つにすることのできる思想があると同時に、すべてのイスラエルは民族を糾合して一つにし、引っ張っていくことのできる思想がなければならないのです。神様の創造理想実現は世界的であり、人類的であるために、その創造理想に一致することのできるこのような思想的内容をイスラエル教団とイスラエル民族がもたなければならなかったのです。(一六八―三〇三)

3 第一イスラエルを通した神様の救援摂理のみ旨

 ローマ帝国の圧制下で植民地のような立場にあったイスラエル民族は、自分たちが選ばれた民族であるためにメシヤさえ来れば一気にローマの国を打破してしまい、世界を自分たちの思いのままに屈服させて、世界を押さえつけて思いどおりにすることができると考えたのです。来られるメシヤは権能をもって世界を審判してしまい、すべてのものを自由自在にすることができるために、イスラエルが特権的世界基盤を備えて、すべての主体的行使をすることができるだろうという望みをもったのです。それは何でしょうか。世界全体を自分たちの前に結束させなければならないということです。そして世界をみな犠牲にしたとしても、自分たちが中心になって高まらなければならないという考えをもっていたのです。

 しかし神様のみ旨はそうではないのです。イスラエル国というのは小さな国であり、イスラエル教団というのは小さな教団なのです。神様はその教団を中心として世界を支配しようとし、世界を一つにしようとしたのです。世界を救おうとしたのです。ところがイスラエルの国が世界を考えなかったのです。ここでは世界に向かって与える道を行かなければ世界を連結させることはできず、イスラエル教団が世界宗教教団の前に与える道を取らなければ世界の教団を束ねることのできる道がないのです。

 ところがイスラエルという民族、選ばれたというユダヤ教は人類を一つに包摂し、宗教を包摂して、内的象徴である宗教と外的象徴である国が一つとなって、全世界を包摂し、一つに束ねなければならない責任があったにもかかわらず、彼らはそれを知らなかったのです。イスラエルの国とイスラエル民族はそのような立場にあったのです。

 それでは神様のみ旨を奉じて来られるメシヤはどのような使命をもっていたのでしょうか。イスラエル教会とイスラエルの国を立てて、これらを犠牲にしてでもアジアのインドと仏教、儒教と中国、このような環境を収拾しなければならないという使命をもって来たのです。イスラエル民族とユダヤ教団を犠牲にしてでも東方にある世界的な大きな宗教圏を収拾しなければならない責任を神様も感じ、イエス様も感じて来たのです。それだけでなく、後に至っては怨讐であるローマ帝国までも救ってあげなければならないのです。

 神様の考えとイエス様の考えはそうなのですが、イスラエル民族とイスラエル教団はローマだろうと何だろうと、東方の全部が究極にはイスラエルの国の僕のようになって自分たちを受け入れ、仕えるようにしようと、自分たちの思いのままにすることのできる世界を考えたのです。その思いのままにできることがよいのだというのです。イスラエル圏が勝利して出る、世界的版図において、あるいは神様の全体宗教的版図において勝利して出た後には、そうできるかもしれませんが、そのときイスラエルが処している立場では、そうできないのです。神様の摂理はそのようになっていないのです。イスラエルの国とイスラエル宗団を犠牲にしてでも、東方の数多くの宗教圏、ヘレニズムを中心とするこのローマ圏までも包摂しなければならないのです。これが神様の摂理だと言うのです。そこで問題となるのです。

 ところがイスラエルの国がユダヤ教を中心として一つとなり、願ったことは何でしょうか。その時のすべての律法学者たちや祭司長たちの考えはみな同じでした。イスラエルの国に主が来るようになれば、自分たちを最高の位置に立たせて世界を思いのままに 弄 び、思いどおりにすることができるということでした。その考えが間違っていたのです。

 神様の救援摂理は世界的摂理なのです。救援摂理は万民のための摂理なのです。ある特定宗教を中心として、特定宗教圏内にある人を救うためのものではなくて、万民を救うためのものなのです。万民を救い万国を解放するためのものが、救援摂理というものなのです。

 万国を解放して、何をするのでしょうか。神様のみ旨に一致することのできる一つの国をつくろうというのです。万宗教を糾合して何をするのでしょうか。み旨に一致することのできる一つの宗教に結束させるのです。そうして神様の創造理想本然の世界へと帰っていかなければならないのです。それが問題です。(一六八―三〇四)

4 第一イスラエルが失敗した要因

 イスラエルにメシヤが来たのに、どうしてイスラエル教団とイスラエルの国がメシヤと一つになることができなかったのでしょうか。イエス様がそのように懇切なる心をもって奇跡を行いながら環境のすべてのものを動かして、従わないと言っても従わざるを得ない環境的与件によって追い立ててまでも、彼らを引っ張っていこうとしたにもかかわらず、イスラエル民族がなぜイエス様を十字架につけて殺したのでしょうか。それはイスラエル民族とその時まで信仰してきた教会、イスラエルの国を指導するユダヤ教自体が、特定の民族を中心とする宗教であると考えたためなのです。イスラエルが特定の民族だといっても、彼らを中心として宗教を通して成し遂げなければならないものは、特定の世界なのです。特定の世界を見いだすためなのです。

 それでは特定の世界とは何でしょうか。サタンが支配する世界から解放して、イスラエル圏にいつでも和合することのできる国家が編成され、民族が編成された世界です。そのような世界を成すことが、神様がメシヤを送る本意だったのです。そのためにユダヤ教団を犠牲にし、ユダの国を正しく指導しなければならないのです。ユダの国とユダヤ教団を犠牲にして、世界を正しく導かなければならないのです。世界的国家は神様のみ旨に従わなければならない国家であるために自分の一族、自分の民族を中心とした、そのような立場に立ってはならないのです。民族を超越して、世界民族を包括することのできる思想の世界へと引っ張っていかなければならないのです。

 第一イスラエルがこのような神様のみ旨を受け継ぐことができなかった原因とはどこにあるのでしょうか。自分の民族だけを中心としたところにあるのです。イスラエル民族だけを考え、イスラエル教団だけを考えたのです。問題がここにあるのです。自分の教団、自分の民族が第一であるということです。そうではありません。自分の民族と自分の教団が第一であるというそのことが、神様が見ている第一と一致しなかったのです。

 神様はイスラエルの国とイスラエル民族を立てて世界を一つにすることを第一と見ており、イスラエル教団を犠牲にして、数多くの宗団を一つにすることを第一と見ているのです。イスラエル宗団とイスラエルの国が世界を一つにして宗団を一つにする、世界的基準において一つとなって、霊界にある地獄まで解放することのできる動きが地上世界にあることを神様とメシヤは願うのです。

 ところがイスラエル民族は信仰の中心として出会うように準備したメシヤが来たにもかかわらず……。そこに隔たりが生じたのです。「我々はモーセの律法以外には知らない。これが第一だ」と言ったのです。モーセの律法というものは、イスラエルの国を中心としてイスラエルとユダ、分かれた北朝十支派と南朝二支派を中心とする戦いの曲折を収拾するためのものです。イスラエル民族を収拾するための法だったのです。彼らは旧約聖書の中にある神様のみ旨は知っていましたが、旧約聖書を超えて世界を救うための神様のみ旨があるとは見なかったのです。聖書の中に埋もれ、その外を見渡すことのできない教団となり、民族となったために、メシヤを迎えることができなかったのです。それが第一イスラエルが失敗した要因なのです。(一六八―三〇六)