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第四節 主が来られる国

一.神様が臨在される国

1 主が来ることのできる国

 今世界には数百の教派があるでしょう? 数百の教派があるのと同じように、この世界には数百の国家があります。そして、そこで特定の国家を中心として世界が神様のみ旨とともに、国家が神様のみ旨とともに、家庭が神様のみ旨とともに、個人が神様のみ旨とともに行くように、神様の愛の圏内へと誘導していくのです。このような圏をつくるためのものが民主世界です。

 したがって民主世界圏内で特定の国が現れなければならないのです。その特定の国はキリスト教をよく信じる国です。イエス様の思想を正しく受けた国です。そのような国の中にキリスト教がなければなりません。ちょうどイエス様が来られた時のイスラエルの国とユダヤ教のような立場の国が現れなければなりません。ですから、どのような民族が代表しなければならないのでしょうか。神様は特定の民族を代表し、特定の教会をつくるために数多くの宗派に分裂させてこられたのです。

 それでは教派が大きければ大きいほどよいのでしょうか。そうではありません。教派が小さければ小さいほどよいのです。国が大きければ大きいほど、神様のみ旨を成すことができるのでしょうか。そうではありません。小さければ小さいほど可能でしょう。イスラエルの国は、江原道くらいしかありません。私がイスラエルを一周したとき、四時間半、五時間もかかりませんでした。そのように小さな国なのです。一日あればうわさがみな広まるような所です。そのために、そのような特定の国を中心として神様は摂理されるのです。

 長いキリスト教の歴史を通して土台を築いた国では難しいのです。なぜかと言えば、何千年の間基盤を築いてきたユダヤ教の土台で滅びたからです。したがっていきなり恩恵を受けて、恩恵の火がついた土台の上に立った国でなければならないのです。言い換えれば、百二十年以上のキリスト教歴史をもった国は、主が来られることのできる国にはなれないのです。

 そのため、主が来ることのできる国が韓国だというのです。皆さん、今キリスト教では何年祝賀だと言いますか。韓国に新教が渡って来てから何年目でしょうか。百年にもならないのです。三十年から六十年の段階へと越えていくとき、キリスト教は迫害圏内に入って行かなければなりません。この時が日本統治下の時代です。キリスト教が迫害を受けてきたために、韓国のキリスト教も国家的な迫害を受けなければなりません。また、今までキリスト教が蹂躙されてきたために、特定の国としてみ旨を受け継ぐことのできる国は圧政と圧制を受ける国家にならなければならないのです。イエス様の時、イスラエルの国がそうでした。そのような条件に符合する国が韓国です。そのため、韓国に主が来られるということは、心霊的な人々はみな知っている事実です。(五一―一二九)

2 神様が臨在される国

 神様が六千年歴史を導いてこられた目的は、失ってしまった本然の真の始祖、祖先を探し出すためでした。これを我々は知らなければなりません。

 それではその方はいかにして、どこに来られるのでしょうか。どのような道を経て、どの国に来られるのでしょうか。これが問題です。アメリカに来られればよいでしょう? ところが難儀なことに、この韓国の地に来られるというのです。神様は切ない心情をもって懇求する者たちの祈祷を聞いてくださいます。食べられず、貧しい生活をする所へ行くようになれば知れたことです。世の中でも、息子が病気ならばその息子のことをもっと考えるでしょう? 神様の愛はこのようになっているのです。

 それでは、主はどこに来られなければならないのでしょうか。皆さんは主がどこに来られればよいですか。韓国人は韓国に、アメリカ人はアメリカに来いと言うことでしょう。アメリカ人が「主よ! 韓国に来てください」と祈祷するでしょうか。イギリス人が「神様! あなたは我がイギリスを愛していらっしゃいますが、主は韓国に送ってください」と祈祷するでしょうか。誰でもただ「主よ! 我が国に、私の部屋に、私の心に来てください」このように祈祷することでしょう。

 このように祈祷する人々全部が盗人たちなのです。この地を猥雑な地獄にしておいて「主よ! 早く来てください」と言っているのです。このような者たちが自分たちの欲心どおりに、自分たちの勝手気ままに「主よ! ここに来てください、あそこに来てください」と言っているのです。なんと神様はお気の毒なことでしょう。そうではありませんか。もし主が自分たちの望む所へ来られれば、どうするのかということです。(二〇―一三一)

 神様の臨在点は韓国ですが、この臨在点は韓国だけのものではありません。この臨在点は世界を代表した臨在点であるために、誰もがここに向かって一致し、同和するために精誠をもって出てくれば、自動的に分かるようになっているというのです。皆さんにそのような認識がなければなりません。皆さんが祈祷するとき、真正なる意味において神様が臨在する所がどこかということを考えてみてください。

 神様は万物を造っておいて、エデンの園にアダム・エバを創造されました。そしてこのアダム・エバを中心として臨在されようとしましたが、その基点を失ってしまったのです。

 それで復帰歴史は六千年の間悲しみの逆境と開拓路程を経て、数多くの歴史過程で犠牲の関門を選んで来たのです。そうしながら神様はどこに臨在することのできる基点を準備してきたのでしょうか。そこはイスラエルではなくて韓国です。韓国でも他の所ではなく統一教会です。それでは統一教会のどこですか。結果的に先生に帰結するのです。(二二―四六)

3 神様の摂理の錨はどこに下ろされるのか

 先生は韓国のような未開な国、韓国を未開な国だと言ったと寂しく思わないでください。そして今まで後進性を免れなかったこの国の民族として生まれたことを幸福であると感じました。なぜでしょうか。目の前に展開されるすべてのものが我が国のものと比較されるので、比較することのできる内容が豊富になって、自然に関心が多くなるからです。そうであらざるを得ません。

 反面、一等国家であると自負する国の人々は、そのすべてのものに対して「これが何だ」というように無関心なことでしょう。それは田舎の人がソウルに来れば見るものすべてが関心事ですが、ソウルの人が田舎に行けば田舎の人がソウルに来るときよりも比較的に関心が少ないのと同じです。このような観点から、文化水準の高いどのような国の国民よりも、このような後進国家の国民として生まれたために、世界のすべてのものを鑑別し、逐一比較して分析することのできる関心事を誰よりも豊富にもつことができるのです。後進国の国民でなければ、そのようなことを感じることはできないのです。

 救援摂理をなしてこられた神様は一等国家の国民を中心として救援摂理をするでしょうか、後進国家の国民を中心として救援摂理をするでしょうか。浅く考えると一等国家の国民を中心として摂理をなさるかのようですが、とんでもありません。世界に対しては関心がなく、自国のよいものと自分たち自身が誇る文化のみを考える民族、自国の都合のみを中心として考える、極めて制限されたことのみを考える環境に、神様は摂理の錨を下ろしません。

 その反面、未開な民族には関心事が多いのです。神様はそのように関心事が多い人々の中に摂理の錨を下ろそうとされるでしょう。もし神様が高く貴い位置に現れれば知りませんが、そうではなくて悲惨な位置に現れたなら、一等国家の一等国民であると自認する人々は、神様を値打ちのないものだと顔をそむけてしまうのではないですか。一般的に考えてみても、後進国家の国民の中に現れてこそ多くの数が神様と関係を結ぶことができ、多くの数が神様に対して関心をもつことができるのです。ところが特定の民族の前に現れたならば、神様に対して関心をもつ人が総数として限定されることでしょう。(二三―七七)

4 世界的蕩減の祭壇に上がることのできる国

 皆さん方は個人蕩減復帰から始まって家庭・氏族・国家・世界的な蕩減復帰路程を行かなければならないという話をたくさん聞いてきました。それでは世界のために蕩減路程を行くことのできる国は、いかなる国でしょうか。必ず世界を代表することのできる一つの国があることでしょう。

 日本がそのような国としての権威と威信をもっていますか。いません。それならば自ら権威を誇り先進国家としての偉大さを誇る国家の中にそのような国家がありますか。世界を代表して蕩減の祭壇に上がることのできる国があるでしょうか。ありません。今幸福を謳歌する国はそのような国ではないというのです。歴史過程において身もだえし、血のにじむ闘争をし、世界的な事件を自分と連関させ、自分のことと思って身もだえした民族、そのような国家のみが今後世界に責任をもつことができるのです。このようなことを皆さんは知らなければなりません。

 それでは、そのような民族はいかなる民族でなければならないでしょうか。そのような国を追究しながら、そのようなものを主流思想として奉ずることのできる民族でなければなりません。その国全体の国民が、老若男女を問わずその思想とその行動を一〇〇パーセント奉じ、希望の象徴として思い浮かべることのできる、そしてその国の主流思想となることのできる思想を国民の前に提示する運動を、今している民族でなければならないでしょう。そのような氏族、そのような家庭、そのような個人でなければならないのです。

 それでは世界で、どの国がそのような国でしょうか。今日世界には数多くの国がありますが、三千里半島、大韓民国は見るべきものがなく悲惨な国であり、半分に分かれた悲しみと悲運をもっている国です。しかし、この国は悲運に消え去る国ではなく、むしろその悲運を打破して、新しい世界のよろいを着て行こうと身もだえする国です。いかに歴史的な恨がしがみついて道を阻んだとしても、これに必ず責任をもたなければならない試練の舞台を知り、ここに生命を投入して一年、十年、四十年、あるいは半世紀、一世紀、数世紀を信じて行くことのできる民族団結運動、民族統一の運動に着手するならば、世界的な蕩減路程に責任をもつことのできる一つの国家となるであろうことは、改めて言うまでもない事実です。

 このような観点から見るとき、大韓民国が六千年というとてつもなく長い歳月の中で、数多くの民族が滅び数多くの民族が起こりながら織りなしてきた屈曲の歴史に、一つの国家形態を取って現れたのかと言うとき、果たしてそうだと言えるでしょうか。大韓民国の歴史は悲しみの歴史ではないでしょうか。それを認識することのできる私自身とならなければなりません。いまや数多い曲折の歴史を清算して、勝利の権限をもたなければなりません。私が住んでいる大韓の国は、このような国になることができると私は主張してきました。(二七―二七七)

 主が来られる国は分かれていなければなりません。そのために、大韓民国は南北に裂かれました。以北はカインの国であり、以南はアベルの国なのです。民主世界は唯心圏です。民主世界は内的であり天の側であり、共産世界は外的でありサタン側です。唯物と唯心は一つです。二つが一つであることを知らずに、分かれて戦っているのです。(三九―一二三)