説教は血を流し、涙を流し、汗を流した生活のみ言である。
説教するときには大衆をおいて説教すると思うな。一人をおいて説教しなさい。そこの一人が恵みを受けて涙を流せば全体に響いていく。ゆえにきょうの説教は誰のために霊力を消耗しようとするのか、その対象が確実に決定されていなければならない。
先生は説教する前に、説教のために祈る時間よりも食口のために祈る時間を多くもつ。「お父様! 彼らを引き上げなければならないのに、どうすればよいでしょうか、これでありますか、あれでありますか」と深刻に誠を集中して心の命令どおりに説教する。
壇上に立つときには、神様が求めていらっしゃったその人に会うために立つ、という心をもって立たねばならない。
教職者として説教を誤ったときには、三倍以上悔い改めて血と汗を流さなければならない。そして恵みを与えられなかったら、ほかの奉仕の方法ででも蕩減して、その代価を支払わなければならない。
特に壇上に立つ人が肝に命じなければならないことは、話をしてその内容を実践できないときは、実践する人にその恵みを奪われることを知らねばならない。
骨と肉を溶かして後代に見せてあげる無言の説教を残そう。
説教は刑場に出ていく気持ちでやるのである。「父よ、今立ちます」と涙を流すことのできる場にならなければならない。
医者が重病患者を扱うときの心境と同じように、教職者はそのような心境で壇に立たねばならない。
人に会うために壇上に立つのである。説教の準備ではなく心情が問題である。
三時間説教しようとすれば、三時間精誠を尽くしなさい。
説教するには、み言の動機が私からではなく神が動機とならねばならない。神のみ言を入れられる器とならねばならない。
準備をした説教には加工が加わる。それゆえ説教の題目を先には定めない。
火をつけるときは火がよく燃えつくような紙が必要であるように、説教するとき心情の火をつけることのできる人を探さねばならない。
説教はよくしようと思わないで真実にやりなさい。