試験・試練


試験にかからない秘訣は、私を中心としないで生きる生活である。

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私に押し迫るすべての苦難と試練は、それを通じて神様の過去の日々を正しく体恤させるためである。ゆえに苦難が押し迫るときには喜んで感謝しなければならない。それはすなわち、神様が私を愛してくださっている証拠である。

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神様は常に愛する子女を先に打って、その次にサタンを打つ。

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懲戒は天的な存在基台から離脱するとき(天倫の力を外れるとき)生ずるのであって、神様が直接打つのではない。

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ぶつかることを嫌がってはいけない。その範囲が広ければ広いほど勝算も大きい。

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善なる立場でありながらも、また打たれる立場(悔しい立場)に立てば、サタンはそれ以上に打つことができない。善でありながら打たれない立場にいれば、サタンは打ってみようと讒訴する。

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自分としては誠意を尽くしたのに、指導者が自分よりも劣る者を認めてやって、自分を認めてくれないとき、寂しく思うよりもかえってこのような祈りをしなさい。「お父様! 今私を認めてくださらなくてもいいのです。私のために痛快な笑いができる時に備えます。お父様が喜ばれない立場では認めてもらうことを願いません」。

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神様の前に同情を受け、記憶され得る自分になれば、押さえようとする人よりも、神様のみ業が大きく作用するようになる。

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このごろ、先生の祈りの題目は「悲惨な中においても耐え忍べる力を食口たちに与えてください」ということである。

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一番悲しく口惜しく、無念な立場においても責任をもちなさい。そのような心をもって進めばすべての試験が解かれる。

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サタンがいくら試験して寄ってきても、自分を犠牲にさせていけば問題ない。自分を弁明して立つときにはサタンが来る。

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宗教が殉教の闘争の中で発展してきたごとく、迫害を受けるときは腐敗しない。

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キリスト教は十字架で出発して、行く先々で打たれて血を流した。今日、キリスト教は世界から打たれる立場をとらなければ世界を主管することができない。見てごらんなさい。一番多く倒れたバチカンの丘にキリスト教の宮殿が立ったではないか。

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神の戦法は打たれて奪ってくる。ゆえに打たれようとすれば奇麗に打たれなさい。

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先生は、この手首が何十回も手錠と挨拶した。しかし監獄に入ったぐらいで消える男ではない。

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へたばるな! 天理を外れなければ自動的に発展する。死なずに残りなさい。

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荒野路程で押し寄せる風を避けようとして逃げれば、荒い鳥のえさとなってしまう。荒野時代を恐れる者はイスラエルではない。

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今まで預言者が連続して打たれてきたし、個人が打たれ、民族が打たれてきた。しかし消化できれなければ屈服するようになる。

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荒野路程で環境に不平を言うな。私は女子であり、私は老人であり、私はこうであり、ああでありと言いながら、モーセのあとをついていけなかったなら、荒野で死を免れることができただろうか。

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創造本然の円満な相対基準と授受作用を結べないところに苦痛と悲しみが来る。ゆえに、悲しみや苦痛というものは、相応の立場を(特に万有の本体である神様に)とらないとき、実存の価値を立てる型を整えることができなくなるので生ずるのである。

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み旨を知って満三年を越えるときには大きな試練が来る。ちょうど、三年間主に従っていたペテロがイエス様を否認した立場を、各自が蕩減復帰していかなければならない瞬間である。

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サタンはほかの所にいるのではなく、まさしく私自身の中にいるのである。自分というものがあるために猜疑としっとと、過分な欲望と、血気が出てくるのである。自分を殺しなさい。「私」という字がついたものは全部サタンである。自分自身を嘲笑し審判しなさい。サタンはいつも私から一番近い者、一番好むことを通じて侵入してくる。

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信仰生活を通して試験をたくさん受けて、そこで勝利の基盤を築き、神様が信じることのできる硬い磐石をつくりなさい。

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一年に四季があるように、春の季節のように恵みを受ける期間があり、夏のように恵みが育つ期間があり、秋のように恵みの実を結ぶ期間を経て、冬のような試練が来るのである。したがって試練を有り難く思いなさい。試練はサタンと我々を分離させるための神様の愛である。試練は冬に当たる期間であるから耐え忍んで乗り越えれば春のような新しい恵みを受けるようになる。

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倉庫に納めておいた穀物も収穫されることだけで終わるのではない。三度以上皮をむかなければならない。そして、もみすりする途中においてつぶれてしまっては、決して主人のおぜんに上がることはできない。同じように我々の信仰路程においても多くの試練と苦痛の中において、自分を鍛えなければならない。そこで折れてしまっては何にもならない。

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光が強く照ってきたら、それに比例し影も深くなるように、恵みが大きいと、その恵みに前後して試練も大きい。

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危機を克服するためには、深い信仰と緻密なる計画と実践するだけの信念がなければならない。

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「私」という存在は天の悲しみを与えて探されてきたものであり、買われてきたものであり、取り替えられてきたものである。これを忘れるときには歴史的な死亡の波を踏み越えて上がることはできない。

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先生はサタンの試験は受けてみたが、真の兄弟の試験、真の父母様の試験、真の子女の試験を受けてみなかった。皆三つの試験を全部受けるので、そのような面においては、先生よりも勝っている。

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サタンの試験は最高の頂点、十字架上でなされる。この時は神も干渉することができない。

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神様が私に従って動き、神様の心情が私と共にあり、天地はすべて私のもとで左右されるという確固たる信念をもって生活してこそ、サタンの侵犯を受けない。

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自分自身で自ら条件物と期間を立てて越えていく人は、サタンの試験を受けないで越えていくことができる。

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負債を負えば、その人のために僕となる。そうでなければ滅びる。反対しようとしても反対することのできない立場まで行って、そのときに初めて位置を確保することができる。

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刺激を受けながらも感じない者はその根が腐っていく人である。

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迫害を受ければ縦的に上がる。

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自分だけのための願いを抱く者は、暗黒となり陰となる時があるが、大きい願いを抱いて生きる人は何となく生き生きして価値があるように見える。

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古い食口の中には、苦労をした事実だけが頭に残って目的に向かっていこうとする力がなくなった人が多いが、このような人たちは死んだ人と同じである。

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常に信仰が大きいときには現実が小さく見えるし、信仰が小さくなるときには現実が大きく見えるようになる。

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十ぐらいの試練にぶつかれば、百ぐらいの試練を求めなさい。そうしたら反作用として打っていけるだろう。そして、自分が受ける試練以上に悲惨な立場を訪ねていけば神様が支えてくださる。

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すべての困難を自分一人で受けていると思うな。神様と共に受けていると思いなさい。そして、艱難(災い)を受けた時に、「父よ! 私の祖先からの過ちに対する蕩減を素直に受けます。以後はこのようなことがないようにしてください」と祈れば蕩減として越えてしまう。

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中心の峠と各自の峠を知って必死に越えなさい。

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試練、苦痛の路程を歩むためには、全体が私を捨てても私を分かってくれる一人の同志が必要である。

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どのような試練場においても勝つことができるまでは、勝利の月桂冠をかぶることができない。

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イエス様がサタンを屈服させる方法として「柔和謙遜になれ! 従順屈服せよ! 犠牲奉仕をせよ!」と教えてくれたのである。

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勝利者になるためには、第一に物質的な苦痛、第二に人による試練、第三にサタンの直接試練あるいはサタンの代わりに神の試練を経なければならない。

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天と地の試練を克服しなければ善の基準を復帰することができない。第一は環境的な試練であり、第二は人間的な試練であり、第三は霊的な試練である。

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木も台風を受けるため根を深く張るように、「サタンの風よ吹いてこい」と言えるようにならなければならない。

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イスラエル民族はエジプトの苦役を離れ、自由の道に出てからもっと大きな試練があるということを知らなかったゆえに滅びたのである。

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恩恵を与えるのは、より大きな受難の道を行くことのできる道を補強してあげるためである。

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麻の上着を着ていたとしても走れば冬も勝つことができる。同じようにいくら難しい立場にいたとしても、常に走る心情があれば困難を克服することができる。

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未知の世界を尋ねていく人は最高の頂上に登ってみなければならない。そうしたらその向こうの未知の世界を観望することができるであろう。しかしその頂上まで登るには安易な場においてはできない。受難と坂道を、あるいは茨の道を歩まなければならない。

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忍耐と克服は復帰途上の正常的な軌道である。