一 伝 道
伝道は情緒が先立って万人を引っ張ることのできる心情的磁石とならねばならない。常に心情的な引力をいかに補充していくかを考えなさい。
伝道は第二の私をつくることである。母が、子供を生んで育てるほどの誠を尽くせば問題ないことである。
サタンの墓の中で呻吟する多くの民のうめき声を聞いたことがあるか。そして、彼らを解放させようとする公憤心をもったことがあるか。
善なる人を救おうとする人は多いが、悪なるかわいそうな人を善なる幸福なる人として導こうとする人は少ない。罪悪の歴史が六千年あったので、私は一人の人を捕まえて少なくとも六カ月は誠意を尽くし、伝道しなければならない。
先生が三千里隅々を訪ね歩きながら叫びたかったその心情を引き継いで、代わりに叫ぶ者はだれか。
神様が私を送っておいて、気をもむそのような者とならず、「あなたは私の代わりに早く行きなさい」と言える実体となりなさい。これが地上の栄光である。
私は常に私の体を爆発させて、ある地域をひっくり返して、そこにお父様に侍る天の土台を建設する覚悟がなければならない。
今の時は、世の堕落した人間たちの救ってほしいという怨声が天地に響く時である。この声を聞くことができなければ復帰の心情を通過することはできない。
自分の伝道任地に対しては骨と肉が溶けてしまうほどの感性をもたねばならない。「お父様! 私はこんなにも足りません。しかし私が出なければならなくて申し訳ありません」と祈る心情で壇上で語りなさい。自分を中心とせず、天の通牒文を持って出た天の精兵だと思いなさい。
伝道の効果は霊的四〇パーセント、原理三〇パーセント、実践三〇パーセントとして表れる。
伝道の任地では、その町民を全部集め、その町に生きていた霊人たちを全部集めて、その町のための忠誠大会を自信をもってやることのできる、信念と生活姿勢をもって歩まねばならない。
高い木に登ろうと思えば、まず下から上がっていかねばならない。下の方は汚い。同じように一つの村を復帰するためにも一番悲惨な立場から解決してあげなければならない。
自分が汗と涙を流した所から、一握りの土でも復帰しようと考えなさい。
神様が与えてくださったこの期間中に神様の仕事を多くやった者は、これから神の恵みを多く受けるであろう。ちょうど、学校の成績が自分の一生を付きまとうのと同じように、この一時の功が永遠について回るだろう。
生死の頂点を共に越えることのできる三人を探し出して立てなさい。
目で多く見てあげ、口で多く語ってあげ、耳で多く聞いてあげ、心情で大いに心配してあげ、その人のために多くあげることが人を伝道する秘訣である。
問題は「私」である。地方へ伝道に行ったときも、私は「乞食」として来たのか、「見物人」として来たのか、「主人」として来たのかが問題である。伝道に行くのは、世話になるために行くのではなく、世話をするために行くのであるということを明確に知りなさい。
彼を利用しようとする心をもってみ言を伝えては絶対に道の基準が立たない。真実をもって与えなさい。
かわいそうな人を見て泣きたい心、与えたい心があふれなければならない。このような心をもって伝道し、祈る立場は神様はどうすることもできない立場である。
休むな! 休んでいては必ず地をたたきながら痛哭する時が来るだろう。
できないと言うな。できなかったら無理にでもやってみなさい。必ず道がある。見つけだしなさい。
「活動するな!」、この言葉はすなわち「あなたは必要ない」ということではないか。世の中で一番恐ろしい言葉があるとしたら、この言葉であろう。
私はいない。私は既に罪によって亡くなった私であるので私を埋葬して進め。
伝道ができないと嘆く前に、私自身が心と体が一体化され、万民の前にプラスになる実体となっているかということをまず嘆き反省しなさい。
自分の基盤を築きあげるため、あるだけの誠意を尽くしなさい。そうするために、@み言を与えて、A行動と人格でみ言に対する手本を見せてあげて、Bその人をして自分のすべてを直告することのできる心情的因縁を自分と結ぶようにさせ、C彼に信仰の道において忘れようとしても忘れられない数多くの追憶を残させて、D彼のために自分が動いたのと同じように彼もそのように動くようにさせ、E自分の代身者としなければならない。
伝道がうまくいかないときは、望みを失わず備えておきなさい。時が来るまで誠意を尽くしなさい。そして善なる人を真心から慕いなさい。
万民を救おうとするならば、万民の境遇を理解しなければならない。そのためにはその立場に立って考えなければならない。
心苦しいときには、沈黙しなさい。そして計画を立てなさい。それでできなければ反対作戦も必要である。
家庭はいつでも出動準備をなしておきなさい。先生は太平洋を越えなさいと言えば、死ぬことを知りながらも行く。
こちらに来いと言わずに、こちらから出ていって伝道せよ。
私はどれほど人を愛するために、人を救うために、涙したことがあるか。真なる犠牲なくしては、人を真に生かすことはできない。
自分の親戚と親友から伝道しなさい。伝道は、昔は恵みを奪うためであったが、今は恵みを与えるために行くのであるから反対しないだろう。
伝道するときには、その人の話を全部聞いてあげて、その人の事情を全部受け入れたあとに自分の事情を知らせなければならない。
伝道は接ぎ木する業であるので、その人と、相衝突する要素を全部除去したあとに相通ずる要素をもって伝道しなければならない。その人の全事情、自分の父母や相対者にも言えない秘密を全部吐き出させるようにしたあとに伝道し始めなければならない。
自分が誠意を尽くしたことに対して、たとえ結実がなくても後悔するな。神様のみ業は発展するものであるため、十年、二十年を耐えて誠意を尽くせば発展するようになっている。
職場において働いても「何とかしてこの場までも神の因縁を広めさせてください」という心情をもって働かなければならない。
帰らなかったならば、もっといてくれたならば何でも与えてあげたい、という心情があってこそ人が伝道され、復興される。自分の救いのみを目的とする宗教は必ず滅びる。すべての人と共に救いを受けていかなければならない。
善い祖先をもった人を伝道すれば、自分の祖先の功労がなくても善なる祖先をもった人の祖先の功労が自分に連結される。
一番低い人に対し、一番最高の人と同じように伝道すれば神様も感動なさるだろう。
我々食口たちだけに火をつければ、この民族は回転するようになっている。我々はこの地を自分の地、この民族を自分の家族と思って民族の前にモーセとカレブのような立場に立たねばならない。
床に就くときも「人類を復帰するための父のみ旨があるのに果たせずして、彼らのために力を尽くせずに寝る自分を許してください」と祈って寝なければならない。
いつ生命を懸けてみ言を伝えたことがあるか。神様の事情、心情、願いをもって相手の事情、心情、願いに訴えるときに感動を受ける。
私が行って伝道すれば神様、私、伝道を受ける人、このようにして三代のみ業がなされるので力が出る。
先生の願いはこの民族と世界が先生と共に涙して泣ける時がいつ来るかということである。
世界を心に抱いて進むのが天の生活である。
イエス様のみ旨を世界的に広めることのできる弟子たちが多かったとしたら、悲惨な歴史は始まらなかっただろう。
一時間伝道しようとすれば三時間は祈りなさい! 人を訪ねていく前に涙を流さなければならない。涙を流す人は神様が共に働いてくださる。
夜遅くても帰るのか、と思って心配するようになってこそ伝道できる。行ってしまえばいいと思えばできない。何でも与えたいし、食べさせたいようになれば発展する。そして誰よりも引っ張ってあげ、抱いてあげれば導かれる。夜、寝ずに祈れば、夜寝ずに訪ねてくるようになっている。
特に親戚と親友に伝道しなさい。この地上で自分の親戚と親友に伝道しなければ、あの世に行って彼らの讒訴を免れることはできない。
皆さんが先にみ旨の道に入ったことによって、天の門を狭める者、すなわち妨げる者になったか、それとも広める者となったか反省してみなさい。
前線へ伝道に行って、心霊のショックを受け、神様の許しなしに後退するようになれば、後方に来ては絶対に心霊を回復できない。再び前方へ訪ねていかなければ。そして今まで自分が行っていた所より何倍ももっと悪い所でも自ら進んで訪ねていける決意をもたねばならない。
良心の呵責を受けながらも活動しなければ病気になる。
統一教会に入ってきて伝道を一度もしないで霊界に行けばおしになる。
伝道に行かせたのは蕩減させるための天の恵みである。善い祖先の後孫はサタンもその道を妨げることができない。妨げればサタンが蕩減を受ける。そのために助けてくれるのである。
反対する人三人以上を屈服させておけば伝道は容易なものである。
高い所からは必ず再び下がってこなければならないが、自分の力で下がれなければ伝道した子女を通して謙遜なる立場に下がってくることができる。
三千万のこの民を追い立てて世界伝道に送ることのできる時となって初めて、我々の責任を全部果たしたといえる。
牛も毒草を分けて食べ、屠殺場であることを知るのに、いわんや霊物という人間が自分の死ぬ所と生きる道とを知らないはずがない。生かそうとする切ない心情で対してあげたにもかかわらず、相手が受け入れてくれなければ、彼が築いてきた恵みをすべて奪ってくるし、彼の功労も苦労した者のものとなってしまう。
伝道できなければ道がふさがれる。
イエス・キリストも福音の道を出発するとき、家庭的生活環境、息子の立場、さらには自分の願望までも捨てて十字架の路程を歩まれた。
人を無視するな。尋ねてくる人をいい加減に扱えば道がふさがれる。
伝えるときに応ずることよりも、伝えようとする心に応ずることのできる人が神の食口である。
み旨を受けるとき真心から受け入れたように、真心を込めて伝えなさい。
人をしかったなら祈ってあげて収拾し越えていかなければならない。
人に対して関心をもちなさい。愛しなさい。
原理で伝道するのは愛を探す運動である。
生命を懸けて闘ってきた目標は、正しい人を探すことである。いかにして残り得る天倫の人物として立たせることができるか。
あざ笑って与えれば滅びる。与えるにおいては涙で与えなければならない。
歴史が悲しむことは、もっている人が与えることを知らず、学んだ者が教えることができず、見せてあげることができないところにある。
み旨を伝えながらもオーバーを敷いて山の上で眠るようなとき「ああ! すてきな俳優になった。このフィルムが回る日、痛哭する瞬間がいつか来るであろう」と考えなさい。
原理講義は神の代わりに叫ぶ内情的な事実を講義しなければならない。講義より心情的な位置がどうであるかをもっと心配しなさい。
祝福家庭は聖日は必ず伝道しなさい。
昔、先生についてきながら忠誠を尽くした時と、皆さんを中心として活動する時は異ならなければならない。ついてきた時は霊的基準を復帰する時であり、今は引き受け繁殖する時である。
一年に最小限三人は伝道しなければならない。
死刑囚に一月に一人ずつ伝道しなさいと言えばできないだろうか。我々も何十年たてば死ぬしかない自然死刑圏内にいる。
極度に反対する人三人が現れれば、味方になる人一人が必ず現れる。
事業も伝道のための条件的事業としてしなければならない。