信仰生活


信仰生活は、いつも春の雰囲気をもった生活である。

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寝ること、起きること、行くこと、来ること、与えること、受けること、全部が神様と共に隔たりなく平和な思いでやりなさい。

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統一教会の食口として一番安全な生活方法は、前線ですべての十字架を負って越えていく道である。これが統一教会の信仰の正道である。この路程で孝子、忠臣、烈女が決定される。

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我々は、自己の位置、前後関係、カイン・アベルの原則に神経を使わねばならない。

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アベルは自分の心配も引き受けたが、人の心配まで引き受けた人であり、カインは自分の苦痛まで人に譲ろうという人である。

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アベルになろうとすれば、第一に神様の愛を受けなければならないし、神様と一つにならなければならない。このために神様の思想を身につけなければならないし、伝道地に行ってその思想を実践しなければならない。

その次には神様の愛を見習ってカインを愛して屈服させなければならない。

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カイン、アベル復帰は、互いが自ら進んで苦労しようと言って、涙を流しながら天の前に立つなら問題はない。

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神様を中心として、切ない人がアベルである。より少なく寝て、より少なく食べて、より苦労する者には不平を言う者はないだろう。

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アベルになるためには、カインの前に三大試練と三大迫害を受けなければならない。

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「私」という観念を超越して、贖罪者の使命を果たして善の土台を築きなさい。私は個人であるが歴史的な心情の復活体である。

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恵みは動的なので静的な自己をつくって、大きな恵みを受け消化していきなさい。恵みを受けても、節度なくはしゃげばむなしくなり、全部こぼしてしまうようになる。

神様の前に権能よりも知恵を求めなさい。

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霊的な役事をする瞬間を飛行機に乗った場合に例えれば、その行く方向(目的観)を正確にして、再び着陸できる基地(自己整備)がなければならない。

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立体的な生活に引っ掛からない人となりなさい。まず霊的な勝利の基台をなしておいて生活しなさい。

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信仰よりももっと大きい力はないだろう。なぜか? 神様も一番怖がってみ業をなさるゆえに……真実に信じる信仰は偽を真なるものに変える力をもっている。

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人が分かってくれないと言って怒るな。先生は「『苦難』が染み込んだこの地を掘り進んでいったあとに天の宝座の前に出るとき、分かってください」と天のお父様に祈る。

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堕落性を脱ぐ道は千万人を全部アベルとして侍ることである。対してあげる価値を分かってもらえなければ、その人の恵みを奪ってくる。

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大きな願いをもった者であればあるほど長く忍耐する者である。

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恵みは生命の源泉である。

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目を覚ますときに見るもの考えること、すべてを神様と結びつけなさい。そうでなければ悔い改めなさい。最初の言葉を神様のために捧げなさい。

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悔い改める方法は、心ではなく体を打たなければならない。体を打つためには、体が嫌がる険しい道を行かなければならない。キリスト教は苦難の宗教である。険しい道を行くので、深くない宗教は全部折れてしまう。

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罪は歴史を占領してきているが、罪の拠点は人間の体である。肉の欲望を克服してこそ罪悪を退けられる。

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体を中心として占領されればサタン世界であり、心を中心として占領すれば天の側である。良心は神様が訪ねてこられる最前線である。

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平和と幸福の世界はあとに来るものである。まず、罪をなくしなさい。罪をなくさなければ平和と幸福の世界が追い出される。

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誰にもいかに小さなことでも、善なる言葉で気持ち良く接してあげなさい。十度やれば十人が私の味方になる。これが習慣になれば良い。そうすれば自分の信仰基準を失わないだろう。そうすることさえできれば祈りも必要なくなるのではないか。

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憂うつな表情をつくるな。常に心を明るくしなさい。平和な心、真実なる心で歩むとき真実と平和が始まるのである。聖書にある愛、恩恵、救いという言葉は実に恐ろしい言葉である。

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神様の愛の中には相克はあり得ないし、ただ相和相応のみがある。聖書に、平和をつくり出す人たちは神の子と呼ばれるであろう、というように記録された意味もこのような点において理解しなさい。

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恵みがあれば自慢せずに収拾する祈りをしなさい。そして一時間祈ったら三時間は収拾する行動がなければならない。

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信仰の道は船(航海)の道と同じである。艪をこぐことを信仰生活にたとえることができる。やめれば直ちに後退するのである。悪の社会ではいかなる条件も信仰それ自体には直接的に助けとなり得ない逆境ばかりである。

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私をしかるのは私を相手にしているサタンをしかるのであるから、私も同一なる位置で私を打たなければならない。

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堕落性を脱ぐのは従順屈服に限る。人間が神様のみ言に従順屈服にしなかったこと、天使長がアダムに従順屈服しなかったことが罪悪歴史をなしてしまったので、これを蕩減復帰する道は従順屈服のみである。従順屈服は一番嫌なことからしなければならない。

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信仰生活が秤と同じであるならば、一日一日の生活は善なる重さを重ねてだんだん高めていく生活とならなければならない。

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あらん限りの誠を尽くして、誠の種を蒔けば実を結ぶ。誠を尽くしたものは征服することができない。誠を尽くしたものは誠を尽くした人のものである。誠の基台は決してサタンも奪うことができない。

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死ぬとき、最小限度、自分自らを嘲笑しないようにしなさい。

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実が実り始めれば花びらは落ちてしまう。同じように心の中に神性が成長すればすべての弱点は落ちてしまう。

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自分を主として、自分が動機となるときには五パーセントの責任が必要であり、神様を主として動機となるときには五パーセントの責任は必要ない。

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自分たちだけで話し合ってうまくやったとしても、それだけでは絶対に神様の前に出られない。報告と連絡で神様の前に通達され、認定されねばならない。常に神様を中心とした四位基台を造成して、働き生活しなさい。

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心の動くままに生活すれば八〇パーセントは当たる。

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切ない神様の事情を知る者なら悔い改める前に身をおく場所を失って、自分の足りなさに涙するであろうし、お父様と呼ぶ前に痛哭するだろう。

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いくら敵が現れても腹立たしく思うな。「君(敵)は悔しさをもって現れるが、私は生涯の路程の中に勝利の一ページを記録することのできる材料と思って神に感謝する」という心をもちなさい。

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虚偽の仮面の中に自分を隠すな。サタンに攻撃される良いすきまを与えることになる。

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私一人においても、私を大切にしてくれる人、私の代わりに蕩減を受ける人、私に反対する人の三つに区分されるのを知らなければならない。

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一日の生活が善の側に傾いているかを常に反省しなさい。

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恵みは神様の宝座の前にあるのではなく、サタンの前にある。

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惨めな位置に落ちて、それ以上下がらなかったら転換する。極と極は遠いようであるが互いに通じる。サタンの後ろには神様がいらっしゃる。

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本心が動くとき、これはアベル(善)的であるので、その本心が喜ぶ方向を失わず進んでいきなさい。

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自嘆のうめきが聞こえる所がすなわち地獄である。

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私が神様を信ずる前に、私を信じてくださった内的な因縁があったので、私が信じたいのである。ゆえに、恐縮し申し訳なく思いながら、み旨に対し信じて、愛して、忠誠を尽くしなさい。もし、み旨を抱いて後悔する者があれば、その人は理想世界で存在基台を探し出せなくなる。

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本物の宝は心の中においておくものである。ゆえに、最高の貴い神様を心の中に迎えるのである。

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恵みというものは世界を救うために神様が与えてくださる恩徳である。ゆえに、自分だけのものとして考えてはならない。

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誠を尽くした以上は欲張るな。

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我々は聖地のために、聖殿のために、祝福家庭のために、父母のために誠を尽くそう。

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死ぬとしても信じて死に、滅びるとしても信じて滅びよう。

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得たものも失ったものも知らない者には、それ以上の勧告は必要ない。我々の歴史は感謝感激の涙を流すところからなされた。

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全体の前にプラスになる人とならねばならないし、またプラスになる生活をする人とならねばならない。

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善なることをしては絶対に覚えておかず、世話になったことは絶対に忘れるな。

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一緒にしようとする心、一緒に集まろうとする心、一緒に一つの方向を取ろうとする心、その心が貴重である。その心を天の前に捧げなければならない。

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恵みを与えたのに、それに対する誠を尽くせなければ、その恵みは全部奪われていく。

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積善というのは、他人に与えて忘れてしまうことである。自分は思わないが、自分のために祈ってくれる人を多くもてば、その人は絶対に滅びない。

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最高の権威意識に上がった個人や社会は滅びるのである。高いところでは下がってくる準備をしなければならない。

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皆さんは侍義により救いを受けるということをどのぐらい実感して生活しているか。

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信仰の道は生きて死の道を行くのである。

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人間は最高のものを願う。

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人に見せてあげて「あなたもそのようになりなさい」という意図で誇ることは良いことである。

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生死の問題を超越できる力の主体性をもったものが宗教である。

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天使長は神様から完全な愛を受けたことがなく、完成したアダム、エバからも完全な愛を受けたことがなかったために、サタンは今まで神様に対して反抗しながらきたし、神様も接しざるを得なかった。敵を愛しなさいという理由がここにある。

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神様が完全に捨てるときには、サタンが取る。終わりの日、一番かわいそうな者は、主を信じて従い、主から審判を受ける聖徒たちである。新郎を信じて生きてきて、彼から捨てられた新婦がいかにかわいそうか。

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信仰生活は冒険の道である。他人のできないことをしてこそ、歴史的天の系図に残るのである。

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信じるということは限界がある。ゆえに、信じることは一体化したあとには必要のない名詞である。

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キリスト教信徒が多いと自慢するな。今日のキリスト教信者は、イエス様を乗せて天国に行こうとする者はなく、全部イエス様の背中に乗って天国へ行こうと思う欲張りたちのみである。

未来的復活の価値を保有する者となるために努めなければならない。

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生活は結びつけないで、解きながら進みなさい。

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信仰生活は、他人が感得できない中で一人で感謝する生活、一人で満足する生活をしなければならない。そうでないときには、私は罪人であります。私に逃れ得る力を与えてください、と悲しみながら悔い改める立場に入らなければならない。この二つを全部失えば信仰生活をしていくことができない。

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新しい心をもちなさい。信仰はいつも楽しくなければならないし、感謝しなければならない。祈って喜んで常に愛がわきいずる心が新しい心である。

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信仰の目的は地上で死亡を踏んで立つことである。死に対する意識が少なければ、信仰生活を力強くできない。

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死の主人は誰であろうか。そして、生命の主人は誰であるか。世の人たちは普通、生命の主人は知らないと言う。しかし、我々は生命の真なる主人である神様を知って、侍って、死の主人を現実の中で探して征服しなければならない。そうして、死が占領した所を整理して、そこに生命の旗を立てなければならない。

死ぬ瞬間に恨みを残すな。

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地上で三人以上の敵をもって死ねば天国に行けない。地上で全部解いて三日以上祈ってあげなければならない。

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死と闘って勝利する道を行くのが宗教人である。寝床に就くときにも、これが私にとって最後の病床に横たわる瞬間だとしたらどうするだろうか。そして、朝、目を覚ますときにも、これが私にとって霊界に入って初めて目覚めるときだとしたらどうするだろうか。皆さんは一時も死に対する問題をおろそかにしてはならない。

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死は本郷を訪ねていく道である。行く場合に際して何を贈り物として持っていくか。このようなことを一度考えれば寸分たりといえどもおろそかにできない。霊界に行って合格できる人をつくるのが、我々統一教会の教育目標である。

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天国に入るためには、最後の談判祈祷を三度はして越えていかねばならない。

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我々は「どのようにすれば死亡線の前に素晴らしい勝利の決定をなして越えていけるか」という問題についていつも祈らなければならない。父がいらっしゃる本郷に対してどのぐらい考えてみたのか。我々の原因がそこなのに……。堕落した人間たちは自分自身の永遠なる生命問題を雑巾ほどにも考えないのに、誰が自分を尊重してくれることか。

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すべての人は各自の心霊状態に該当する霊界に行ってとどまるようになる。霊界に行けば普通の人は十二の峠の試験を経なければならないし、功労の多い人でも三つの峠の試験を経なければならない。第一、霊界に行けば、地上で自分の一番敵であった者が現れる。第二、歴史的な敵であるサタンが現れて讒訴する。あなたの祖先であるノア、アブラハム、モーセ、イエスがこのように忠誠をし、先生がそんなにもみ言を教えてあげたのに、あなたはそのみ言と一つになって、そのとおりに実践したのか。第三、天使界の試験がある。

我々の道理と法度はこうなっているのに、あなたはそのような忠臣の道理を立ててきたか。その次に、主の子女の峠を越えるためにイエス様と聖霊との問答があって、これを越えて完成である。

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恵みを受けた人がもっと渇いてたまらなくなるのは、体のない霊と同じようなものであるので、実績を立てなければならない。そうできないときには恵みは離れてしまう。

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恵みを回復することのできる道は、一度祈ったことを十度以上実践するところにある。

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信仰の道には、信仰の真なる友が必要である。互いが支えることができ、愛することができる、そのような美しい姿をもってそれを見て周囲の人々がうらやましがるようになれば、神様のみ旨は自動的に繁殖されるのである。

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信仰者は常に新しい心が生じてこそ発展する。朝も新鮮だから良いのである。

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信仰生活は呼吸をするように常に平穏で、正常的でなければならない。そして、信仰生活をするにも、私はこれ以上下がらないという線を引いておいて人に対し、対社会的活動をしなければならない。

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神様を慕うことを病を忘れるほど慕い、思えば病も治る。

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先に入ってきた人がカインになることもある。入って間もない人でも、恵みを受けた人ならば、彼を前に立てて時代的蕩減の役事を復帰させることがある。そうしても、先に入ってきた人として寂しく思ってはいけない。

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罪を治めることができ、自己を平和に保つことができ、サタンを自然屈服させることができてこそ、天の人となることができる。

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歴史を抱いて、宇宙を抱いて、涙を流し、汗を流し、血を流さなければならない。

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誠を尽くしておいて後悔するのは、愚かなことであり、天法に引っ掛かる。

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先生のために誠を尽くそうとするならば、先生の愛する国と人類のため誠を尽くしたあと、そして実績をもったあとに、先生のために誠を尽くしなさい。

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死ぬとき、神様の前に感謝し、このみ旨の前に感謝し、先生の前にみ旨をなさずに行くことを恐縮に思わなければならない。

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死に対する恐怖が来るのは、この世でやるべきことを果たせなかったためであり、すべて果たせば何の恐怖も来ない。

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礼拝の時間に遅れてでるときには、頭を上げることができないほど悔い改めの心情をもってでなさい。讒訴を避ける道は死ぬほど苦労するしかない。み旨のために死ぬと覚悟し、涙を流すのに対して誰が讒訴しようか。

皆さんは、み旨を中心として復帰の責任をもってどのぐらいの期間戦ってみたか。この道は先生に従っていこうともがくか、一線についていくために身もだえするか、いずれかがなかったら行けない道である。

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朝笑いながら「お父様!」と言って床から起き、夜にまた笑いながら「お父様!」と言って床に就きなさい。

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細密な部分まで父と相談しながら生きる息子が孝子である。父母の手を固く握っていかなければならない。

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自分を低く見、世の中のすべての罪悪は私によって生じていると思って、これに対して心配しながら痛哀する心をもって、すべての責任をまとめて背負うことができる人となろう。

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イエス様を信じることを知りながらイエス様の心を知らないようであってはいけない。

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歴史を支配してきた人間の理念と、天的な理念を一致させるために出てきたのが宗教生活である。

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天倫的な創造の理念を生活的な面で実践させるため、六千年間神様は摂理してこられたのである。

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怨讐サタンまで歓迎して恵みを祈ってあげなさいというのがキリスト教の教えである。

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礼というのは前後左右が整っていることをいう。

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信仰者は恥ずかしさの涙と、感謝の涙と、喜びの涙のこの三大涙を流さなければならない。

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絶対的信仰は運命を革新することができる。

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いくら苦労をし実績をあげたとしても、父と共にしなければならないし、自分一人でやればサタンがもっていってしまう。

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侍ることによって救われる。それをどれぐらい実感したのか。

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家庭のために与え、国のために与え、世界のために与えなさい。

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信仰生活の目的は自己完成をなして無限なる愛を感じ、それでもって無限な幸福を享受しようとすることである。

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信仰生活は心情の世界において懐かしさを連結させることである。

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一度しかない生涯において、なぜ負債をもっていくのか。負債を負わせていかなければ!

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自身の環境に勝つ者となってこそ神が共にいてくださる。

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罰を受ける人のために、呪わないで祈ってあげなさい。呪われる者を呪えばかえって呪われる。

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良心作用の目的は、神の子女を完全な立場に到達させるためである。良心の安息所を探さなければならない。

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統一教会の食口は涙と汗の連結の中に生きなければならない。

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良心にすがって生きるのではなく、良心の土台を開発して生きよう。

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信仰の道は、立体的な世界だけを中心としては完成することができず、必ず相対的条件を備えて完成される。

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神の前に近い場は極めて恐ろしい場である。

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「神様、あなただけは御存じでいらっしゃいます」と言える立場、これは人間の帰結点である。

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神様が人類を愛されたとしたら、どのような基準において愛されたのか。考えたことがあるか。

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信仰生活の基準はメシヤである。メシヤに似ることが信仰である。

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涙と痛哭で行かれるとき、受けたメシヤの苦痛を引き受けるためにゴルゴタについていく道が信仰の道である。

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皆さんは、六千年の血統的罪の結実体である。六千年罪悪史の展示品である。細胞には六千年の罪が入り交じっている。これをほどくために悔い改めが必要なのである。

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眠らず休まず祈ってゲッセマネの園を守る者となりなさい。

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私は死んだとしても一つの部分を残していかなければならない。死んだとしても私の髪の毛一本でも聖殿の近くに落とさせてくださいと言わなければならない。

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この地上を離れるとき、何をもっていくべきかが問題である。ただ一つの存在になるためには、すなわちもっていくものを備えなければならない。家庭においてただ一つの存在になるためには家庭の恵みを受け、国家においてただ一つの存在になれば国家の恵みを受ける。

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天が私をこのような立場に立たせてくださったのは、天の悲しみを払って買い入れたのであり、天の悲しみを払って交換したのであり、神の悲しみを払って探し求めてこられたことを忘れてはならない。

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私を通して神を慰めることができないのかと身もだえしなければならない。

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あることに当面したとき、それを自分のものとして解決せずに、神様であればどのように解決されるかを考えれば自然に答えが出てくる。

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東西洋の昼夜が異なることを考えてみた。皆寝てしまえばサタンが一時に占領するかもしれないから、寝る人を安らかに寝かせるため東西半球をつくったと思われるときもあった。

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統一教会に入ってくるときの喜び以上の喜びをもってこそ正常である。

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今あなたの心の中心がどこにあるのか! これが問題である。

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一週間節約し計画を立てて、食口たちが喜び得る何かを与える日が聖日である。

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信仰生活において力が出ないのは、神様の内的な臨在地を決定できないためである。神様の臨在地あるいは臨在点と一致しなければならない。中心に対する関心が宇宙より大きくあってみなさい。神様が離れると思うか。

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よく信じよう。よく信じようというのは、子女を愛し世界をよく愛そうということである。

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終わりの日の聖徒たちは、聖人たちができなかったことをすべて完成していかなければならない。

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率直であるという言葉はまっすぐに治めていくという言葉である。それゆえ率直な信仰者になるためには、心をまっすぐに治めていかなければならない。

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弁明することは私が目的とする道の前に何の助けにもならず、関係のない終着点に帰結される。十ぐらいの罪を犯したと見たとき、自分は百ぐらいの罪悪感をもってあえて神の前に立つことができないというとき、神は十ぐらいの忠誠として見てあげることができる。そのために信仰者は弁明する必要がなく、より率直でなければならない。

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開拓者は打ち寄せる試練と苦痛の前に不平を言わない。それゆえ信仰は人生の開拓であるから、信仰生活において不平を言う人は開拓者でもなく信仰する人でもない。

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希望があるところには発展があり、希望がなくなるときは、停止でなければ後退の一路にある。希望がないところには停止があるのであり、希望があるところには発展がある。それゆえ不幸と幸福は希望に左右される。あすの希望に向かって進む信仰者に希望がないとすれば、彼は極めて不幸である。それは皮だけの信仰である。

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開拓者がぶつかるすべての事柄は思いがけないことであるから、深刻な立場において判断し分別することを身につけねばならない。

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神が我々に体験させるとき、神が好むからそうするのではなく私をして絶対的な信仰をもたせるためにするのである。所望を連結してあげなければならないゆえに霊的な体験をさせてくださるのである。

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絶対的な信仰は自分を肯定する立場ではなく、自分を主張することのできない否定の立場である。信仰生活というのは我々の心の生活だけにとどまるのではなく、その心に感じられた事実が相対的な環境にいかに適応するかどうか、これが重要なのである。

知識は生を支配することはできない。ただ宗教のみが生を主管することができる。

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医者になるのは他人を救ってあげるためになるのと同じように、私がイエス様を信じるのは信じない人を天国に行かせるために信じるのである。

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自分のためにやることは良いことであると言う人はいない。他人のためにやるとき良いことであるという言葉が成立する。

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神様の救援摂理は楽な人から救援するのではない。苦労する人から救援しなければならないので信仰者たちは苦労し、貧しく、飢えている人が多いのである。

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信仰の生活は私一身のための生活ではなく、売られていった僕の生活と同じである。なぜなら僕は僕の子として生まれたので、僕としての生活を経て初めて主人の認定を受け、その後主人の愛を受けるからである。

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信仰は道案内の役割をする。そのために門の前までは案内してくれるが、それだけで部屋に入ることはできない。

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神が行く道は開拓の道であり、信仰者はついていく道である。

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信仰の道は長い期間が必要なのではなく、一日が問題であると同時に、その一日の一時間が問題である。

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信仰はみ言を通じた神と人間との契約である。

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信仰は飢えのある信仰をもたねばならない。そうして常に不足な姿を自認しながら歩んだら不平不満がない。そうすることによって、指導者が疲れていたら後ろから押してあげられる人になりなさい。

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木が枯れるとしても一時に枯れてしまうのではない。枯れるかどうか感覚しないうちにいつのまにか死亡へと押し出されていくのである。信仰も同じである。

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涙のない人は正統の信仰の道を歩む者ではない。悲しみの涙、申し訳ないという涙、感謝の涙を流さなければならない。これが心情の土台を開発するのである。

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信仰の道においては、頂上から引っ張ってくれる人がいなければ、そばにいて捕まえてくれる人、あるいは下にいて支えてくれる人がいなければならないゆえ、信仰の同志が必要である。

引っ張られていくのではなく先頭に立っていこう。

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若いときから深い信仰の土台をもった人は幸福である。信仰生活において一度力をなくしてしまえば、再びその道において蘇生することができない。

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信仰の道は心の中で千回万回誓って立たねばならない。頂上の峰を突破するために材料を収集する期間が信仰生活である。

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信念を生活を通して実践することが信仰生活である。

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命令されたから歩むのではなく、私が自分から行くべき道を代わりに先生が命令してくださるので感謝しますと思わなければならない。

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信仰者は打撃を受けるな。打撃を受けるようなことがあったときは、私の時が来たのであると思って謙遜に受け入れなければならない。