P.154 |
1)生の結実を得るには
我々の生の一代というものは、わずかの間です。そうでしょう? この一代が永遠の尺度を上がったり下がったりするのです。これが延長されれば、無限に延長されるでしょう? 反面、これを折れば(動作で表現される)、ここから新しい天地が起こるのです。秤と同じように、上がったり下がったりするのです。そのようになっているのです。
そのために先生が言葉を話せば、その言葉が世界的な言葉になるのです。また、先生は、できないという言葉を言いません。分かりますか?(はい)。
皆さんは、全部先祖たちの顔に代わって被って出てきた復活体です。歴史的な復活体だというのです。その歴史がどれほどになるか? 今、何十万年になったと言います。考えてみなさい。そのように苦労した歴史過程が、結局は自分一人を作るために苦労したのです。金氏なら金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが生まれて死んだと考えるのです。同様に、世界の人類は、統一教会の文先生にかかっているのです。そのような立場なのです。先祖たちがそれほど苦労したのは、誰のためですか? それは、先生一人を出世させるためです。今、霊界が先生一人を出世させるために、動員されているのです。皆さんは分からないでしょうが、内容がそのようになっているのです。ですから、この我々は、歴史的な結実体です。とてつもないのです! だから、皆さんが歴史的な結実体だって?
皆さん、では、このような結実体が、ウジが食って、虫が食って穴がポカリと空いた果実ならいいでしょうか? ぽっかりと開いてみたら、真っ黒な種がころころと転がって出てくるリンゴがいいですか、その種がベタベタして付いて回るリンゴがいいですか? 種がよく熟したリンゴになりたいでしょう?(はい)。分かることは分かるのですね。
それで、皆さんをぽっかりと裂けば、よく熟した果実の種のようなものが出てくるでしょうか? 皆さんの二世が間違いなく、天の実になると思いますか? 皆さんの心の中を裂いてみれば、よく熟した統一教会が出てくるでしょうか?
その六千年の結実体が、落果のように熟せず、落ちていいでしょうか? ただ風が吹くか心配しながら「ああ、私が落ちそうだ。もう少し吹けば落ちるだろう、先生、揺すらないでそっとしておかなければなりません。」と言っていいですか? ここにそのような輩もいるでしょう。反面「先生が斧でぶん殴って、自分を思い通りに揺すっても、自分がちぎれる前には、絶対落ちません。」という群もいるでしょう。皆さんはどちらの輩に属しますか? 風が吹くか心配する輩たちですか?(いいえ)。では、どんな輩ですか?(揺すっても落ちない輩です)。揺すっても落ちない輩?(はい)。(四六\一五五)
人の一生において、生まれるときと、結婚するとき、そして死ぬときは、重要なときであることを我々は知っています。
ある個人が生まれて、成長して、結実を結ぶためには、必ず相対的な因縁を結ばなければならず、その次には、必ず最後の道を行くようになっているのです。これは、一つの国も同じです。ある国も、必ず創建期があり、その次には繁栄期があるのです。その次にはこの繁栄期を通じて、夜のときのような期間を必ず経ていくのです。
そのようにして、生命体として残れば、新しい生命の結実を受け継いで、自体内でその生命の結実とともに関係した内容をいつも持って準備していなければなりません。そうしなくては、いくら結実の時が来るとしても、それ自体としては結実を見ることができないのです。
それゆえ、生まれてその環境を克服しなければなりません。それだけでなく、未来に結実されうるすべての与件を受け継ぎ、その結実のすべての内容に動機になりうる、自制力を持つことができなければなりません。それでこそ結実の過程を経て、新しい歴史過程であるとか、人類社会において必要としうる一つの結実体として残ることができるのです。
これを考えるようになるときに、人は生まれて、必ずそれ自体として環境を克服しなければなりません。そうだと言って、それを克服することだけで終わるのではなく、未来に新しい生命を受け継いで、結実の内容を持ちうる過程を経ていかなければなりません。この過程を経た後には、正しい立場に立って実効を現しうる一つの位置を占めなければならないのです。例えて言えば、穀物の種が蒔かれて、芽が出て、育って、実を結び、主人の手によって収められ、倉庫に蓄えられるのと同様に、必ずある目的の前に必要で収められうる過程を経なければならないのです。
それゆえ、ここから皆さんは、皆さん自体内に、そのような希望と願いを引き継ぐことができる内的要因を強固にし、その強固になった内的要因を中心として、外的環境に再び適用しなければいけないという立場であるということを忘れてはなりません。これは、守勢の立場ではなく、必ず攻勢的な立場で表さなければなりません。
柿の木を見ると、春に花が咲きます。柿の花は、他の花のように際立って色とりどりではありません。また、柿の花は葉の色と似ています。それで、ちらっと見れば、花があるのかないのか、よく分かりません。また、実が結ばれても葉に包まれているときには、実があるのか、ないのか、よく分かりません。その葉があまりにも青々としているために、実があるのかないのか、感じられないのです。これは、夏を過ぎて秋になれば、色が変わり始めます。これが完熟するようになるときは、内外が全部赤くなります。そうして、葉は皆落ちたとしても、その実だけがひときわ輝きながら、木についているという事実を、皆さんは見るでしょう。
統一教会員もこれと同じです。我々統一教会自体について見るとき、一九七〇年代がそれこそ結実の時代だとするなら、葉のようなすべての要因は全部消えるべきでしょう。枝だけが残ったところに、一つの結実の価値を持った実が、全体の価値として現れる、そのような柿の木の実のようになりうるかというのが問題です。
このような実は、聖殿が必要ありません。それ自体を見て、内外に備わったその価値を、誰でも百パーセント評価することができる価値的な存在になっているのです。そうするために、その柿の木なら柿の木自体が、一年間どれほど粘り強く戦いをしたでしょうか? その実として完成するときまで、どれほど苦労の過程を経たでしょうか?
数多くの枝から咲いた花の中で、よりましな完熟した実になるまで、その実自体は、どのような花の実より、もっと闘争をし、もっと努力した事実は現れるということを、我々は知るべきです。夏を経ながら、風が吹いて雨が降り、暴風雨が吹きつける、そのような険しい環境と、栄養が足りず未熟な立場で実が落ちうる、いくつかの枝の県境を皆克服したということです。
その木が実をたくさん持てずに、一つの実だけ残したなら、その実は、その木の全体の津液を代表して、その木の総合した内容と外的な闘争力を持った実なのです。そのような実だけが残りうるのです。木にたった一つの実が残ったなら、その一つの実が、その木の価値に代わりうるのです。それが柿の木なら、その一つの柿によって秋を迎えるとき、自らの甲斐と威信と権威を立てることができるのではないだろうかというのです。
木に花もたくさん咲き、実もたくさん結んだでしょうが、そのようなものが全部落ちてしまって、秋になったのに、一つの結実も結べず、枝だけ残った木なら、どれほどみすぼらしく、どれほど悲しいでしょうか? ですが、多くの実は結べなかったとしても、どんな木の実とも比較できない完熟した一つの実を持ったなら、その一粒の実を持って数千、数万の実の前に堂々と誇ることができるのです。
現社会に数多くの宗教があります。キリスト教ならキリスト教を中心としても、数多くの宗派があります。このような現実の中で、結実の時代を迎えた統一教会自体を中心として見るなら、神様が我々にある結実を要求しておられるのです。さっき言ったように、一つの木に多くの実が結ばれなければなりませんが、そうできずに一つの実だけを残したというとき、その実がその木としてはそれ以上出すことのできない完全な実なら、その木はその実によって秋を迎えた価値と権威と威信を立てることができるのです。
これと同様に、我々統一教会を一つの木に比喩するなら、必ず結実がなければなりません。統一教会が出発して、今まで激しい風波と試練の過程を経て、一つの結実に向かって進んでいます。ここから、その結実自体がどんな結実になるかということが、大いなる問題であらざるをえません。
このような立場で、皆さん自らが果たして自分は正常な春を迎えたか、正常な夏を迎えたか、そして、正常な秋を迎えて、完熟した実になりうるだろうか、ということを批判してみなければならないでしょう。
その実一つ自体について見れば、そこには木の枝もあるのであり、木の葉もあるのであり、根もあるのであり、また種もあるのです。その実を摘んだということは、その木自体を持ったというのと同じ立場です。むしろその実には種が多いために、その実を中心として数十あるいは数百本の木を持つことができる立場に立ったのです。
一つの木の実は、その木を代表して、その木が十年過ぎても、二十年過ぎても、歴史的なその年輪のすべての要因の中で、生命力を持って引き継いでやりたかった全体的な要因を相続しなければなりません。それでこそ、完全な実として収められるのです。
そして、実が育つ過程に、その要因を一度でも切断してはいけません。絶えず育つように置いておかなければなりません。生命が始まったその日から、実として収められ、主人の手を経て倉庫に入って蓄えられるときまで、その要因がどの一時も途切れてはいけないのです。風が吹くときや、あるいはそれよりもっと暴風雨が吹きつけるときや、どんな試練の過程があっても、この要因が途切れてはいけないのです。その要因は、始終一貫連綿として、それ自体に保有されていなければならないのです。
このような過程で見るとき、皆さん自信は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこのような木になり、このような人格者になり、世界の前にこのような存在になる」という決心をして立ち上がったその日からは、その希望と秋の収穫期のために準備するすべての内的な要因が、絶えることがあってはいけません。時日が経てば経つほど念を押し、そこにプラスさせることができる内容を積載する過程がなくては、完熟した結実を見ることができないのです。(三六\一〇)
祝福家庭たちの中にも、いわゆる一文無しの家庭がたくさんいます。皆さんをじっと見るならそうです。栗のいがにも、オスのいがとメスのいががあります。形は似ていますが、オスのいがが図体が大きいです。そいつは、遊んで食べるのです。結実とは、受難を克服した内容の集約体なのです。
ところで、オスのいがは、受難の深い内容、生命力を中心として集約した実体を持てずに空いています。形はメスのいがと似ていますが、中は栗のいがではありません。
皆さん、栗のいがが分かるでしょう? 見るには刺が生えて、ちくちくするように見えます。ですが、その刺が生えた皮をほじくり返して入り、ポカリと剥いでしまえば栗の実が出てきます。栗は三枚の殻で包まれています。表の殻を剥ぐようになれば、中の殻があり、二番目の殻を剥いでしまえば、三番目の渋い味がする膜が出てきます。それを剥いだ後にこそ、本当の栗の実が出てくるのです。そのような栗の実なので、味がすばらしいのです。(三一\二〇一)