P.64

2)天国に行くことができる生活

@ 我々の立場

神様が人間の父母であられるなら、我々人間をどのように創ったか、なぜ創ったかという問題について見るとき、愛であられる神様が、我々を創られたのも、神様の愛に同参させた立場から出発したのです。神様の心から出発し、神様の愛の懐で育ち、神様の愛の懐で相続して、家庭をなしてこの地上から世界的な愛とつなげることができる相続者になって、神様の愛の懐に帰らなければならないのが、人生の道だと見るのです。

堕落することによって、これがどのようになったか? 根本的にこれが破綻したのです。神様と人間との関係が隔離されてしまったのです。いくら神様の前に帰ろうとしても、帰ることができず、また、神様が我々人間の前にいくら来ようとしても、来ることができない間隔が生じてしまいました。壁が生じて、国境が生じてしまった結果を、我々は知っているのです。

では、その壁がどんな壁か? 神様まで行くことができない、神様を父母として侍る人間が、行くことができない壁、越えることができない壁、それが何の壁か? これが問題なのです。全能であられる神様が、思いどおりにできる壁になれなかったという事実が、どのようなわけかということが、宗教人たちに問題とならざるをえません。

この壁が我々個人の心と体の間に入り込むようになりました。夫婦の間にも、口に出して言えない歴史的な環境によって、つづられた壁が入り込むようになりました。家庭がそうであり、氏族と民族と国家と世界、全霊界と肉界、いわゆる一般的に言う天国と地獄、天国と地獄の間にも、このような塀が生じたのです。この塀を取り除かなくては、神様がいくら天国の栄光の宝座におられるとしても、地上に立った我々は、塀の峠、包囲されたこの線を越えることができないのです。

これがこの地上に生きている人間の悲劇だというのです。この悲劇をどのように打破するか? 我々人間が、神様を父母として侍って生きるべきであり、すべての生活を主導されるべき、そのような立場にあるのにもかかわらず、今日神様がいるのか、いないのかも分からず、あるいは「決定的に神がいない」、さらには「神が死んだ。我々人間世界で神を掃いて捨てなければならない」という悲惨な歴史的な環境が、皆さんが生きている世界に展開してきたという、驚くべき事実を知っています。これを神様が創ったか、我々人間が作ったか? これが問題です。

我々は願わないのに、これを誰が作ったかというのです。誰が作ったか? 誰がこんな環境を提示してきたか?(一三五\二六七)

A 天国に行けない場合

先生自身も、今日統一教会に対して心配しています。み旨が動機になるか、自分が動機になるか? 自分が動機になってはいけないのです。それなのに、いつもみ旨を後にして、自分を動機とするときが多いのが、今日の人間たちです。み旨は受難の道を要求していますが「私」というのは、それに背こうとします。相反する立場なのです。み旨は右に行けというのに、自分は左に行こうとします。「私が統一教会に入ってきて、誰ほど苦労できなかったか?」という条件を提示して、自分を解明しようとします。

自分を解明しようとする者は、天国に入ることができません。絶対的な信仰というものは、自分を解明する立場ではないのです。解明される立場に立つべきです。そこには一言半句、いかなる提示の内容もありません。解明される立場なのです。うまくやっても、うまくやったと言える立場ではありません。自分が百パーセント認めることができるものだとしても、神様が見るときは一つです。自分が百に認めるものが、神様には一つなのです。それゆえ、自分を中心として提示する立場では、訪ねていくことができないのです。

天国はどこから始まるか? 絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張することができるものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずしては、絶対的な信仰が出てくることができません。皆さんが、世の中の万事を中心として、そこに肯定しながら信仰の道を行くというときには、絶対的な信仰が出てきません。

このような根本問題について、今日大部分の人を見るようになれば、一日の生活圏内で、朝に起きてご飯を食べてする習慣的な生活をしながらも「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。そのような人たちは、天国を所有することができません。堂々とすることができないのです。自分を公認するある時代的な要因がなくては、絶対的信仰基準も持てないのです。絶対的な信仰基準も持てなかったのに、絶対的な信仰基準を克服してしまった後にこそなされる天国が成就されえますか? とんでもないことです。なぜそうなのか? その立場には、サタンがとどまっているためです。(四六\七九)

今までの歴史上に、神様の前に呼ばれた人たちは、全部五〇代以上、六〇代以上でした。年が多くて、やつれて、まもなく共同墓地に行くしかない人たち、葬送曲を歌う日が近い輩だったのです。そのような背後から、神様は今日はこのようにやつれて痩せた老年層を捕まえて摂理しますが、これからは壮年層を捕まえて摂理なさらなければならないのに、彼らを捕まえてどのように摂理を展開させるかという心配をされたのです。神様は、そのような事情を抱いて歴史路程を歩んできたのです。

老年時代が過ぎて壮年時代に、壮年時代が過ぎて青年時代に、青年時代が過ぎて少年時代に、少年時代が過ぎて幼児時代に、そのように皆さんは再び生まれなければならないのです。そうでなけば、天国に行けないのです。皆さんは、少しも汚れなく無邪気な幼子のように、かわいがられることができなければなりません。それで、イエス様はニコデモに、おまえが再び生まれなければいけないと言いました。生まれ変わらなければ、すなわち重生しなければいけないと言われたのです。それで、神様は最高の収拾する役事として、母の腹中から救いの役事をしようというのです。どれほどすごい事情ですか?(二〇\九五)

B 天国のための我々の生活

皆さんが七〇年ないし八〇年を生きる見るとき、その中で三分の二が悲しい生活だとするなら、この三分の二をどのようにすべきか? 神様を中心として、嬉しい生活にしなければなりません。天国化させなければならないのです。天国は与えながら生きる所です。神様も与えなければならないのです。父母は、子供に与えなければならないのです。良いものを与えてしまっても、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいのが父母の心です。(三四\一四一)

皆さんは、今戦っています。自分の一生を中心として大砲を撃っているのです。世の中に対する前に、皆さん自身の体と心が戦っているのです。これをどのように平和にするか? この戦いで体が勝つか、心が勝つか? 皆さんは、体が勝ちますか、心が勝ちますか?「私は間違いなく心が勝ちます」と言える人にならなければなりません。心が勝つ人は、善の側であり、体が勝つ人は、悪の側です。

では、体と心が戦っている戦場で、心が体を倒して勝つことができる秘法は何か? または、体が心を叩いて捕まえる秘訣が何か? その戦法が何か? これが問題です。その武器とすべての装備がどのような方向を経て動員されるかという問題が、善になるか、悪になるかを決定づけるのです。では、この対立を解決することができる要因は何か? これが重要です。悪の世界に暮らしている人間の前に、善が成立しうる必要要件が何か、悪が成立しうる必要要件が何か? これを知って、取ったり取り除いたりしようというのです。この必要要件は、知ってみれば簡単です。(三六\六一)

歴史以来、優れたという男、優れたという女がいるというときに、男が男の権利を持って祝福を自分一人で受ける、また、女が女の権利を持って、自分は一人で祝福を受けると言えますか?(いいえ)。では、「はい」と言うには、どのようにすべきですか? 神様のみ旨を絶対視して、人類の希望として提示されたすべての条件を越えなければならないのです。そのままできないのです。これからの地上天国ですることが、何かというと、夫婦が互いの相手から世界的な歓迎を受け、世界から尊重されうる妻と夫になるための道を訪ねていくのです。それが地上天国で暮らす生活方法です。そうすることができますか?(はい)。(一六二\六九)

「私」という一人は、善だけを捕まえて行くことができません。これが世界的に解決されて、善が占めるとか、悪が占めるとか言うようになります。善が占めるときは生きますが、悪が占めるときは滅びるのです。このように、この世界は、死ぬか、生きるかという興亡の道を走っているのです。

個人は歴史的所産物です。家庭も歴史的所産物であり、国家、世界も歴史的所産物です。ところで、その歴史の所産物の中で、善の所産物がどれほどになるかというのです。自分の個体について比重を計算してみるとき、善の所産物がどれほどになるか? 皆さんが暮らしている生活環境の中で、善の所産物が何パーセントになり、皆さんの個体の人格の中で、何パーセントになるかというのが問題です。

悪に接することができる要因をたくさん持っているか、善に接することができる要因をたくさん持っているかということを見るようになるときに、全体が悪に接することができる要因として囲まれています。

悪がいく道においては、教育が必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行くことができるのです。悪から始まった歴史であるために、教育を受けなくても誰でも行くことができるのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか? 自らそのようになったために、今日人類道徳を中心として、良心の標準の前にわきまえて行けと教育するのです。

何を中心とした教育か? 善を中心として、良心を中心として教育をしたのにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人がどれほどいるか? 悪のことは習わなくても、誰でも皆することができるのです。誰でも皆、満点になることができるのです。

このような環境の中で暮らしている我々に、良心はいつも善であれと言っています。我々の心は、いつも善の人になれと、休まず自分を刺激し、自分に勧告するのにもかかわらず、善の自分になったか? このような問題を考えてみるときに、今日も嘆息であり、明日も嘆息であり、今年も嘆息であり、青春時代も嘆息であり、中年時代も嘆息であり、老年時代も嘆息なので、嘆息で一生を終えるのではないか? 言い換えれば、悪のことで終わりを見るのではないかというのです。このような結論を下すしかないのです。悪から生まれたために、悪でのたくり、悪に行くのが、今までこの世の中に生まれては死んだ数多くの人間たちの生涯であり、今この地に生きている数多くの人類の行路というものです。

今日、宗教を見るとき、統一教会は何をする所か? 悪くなれと教えてくれるものか? それなら統一教会は必要がありません。悪は教えてやる必要がないのです。悪の道は教えてやらなくても、よく行くのです。(三六\五六)

C 我々と天国

イエス様は死を目の前にしても「父よ、もしできることでしたらどうかこの、杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と言いました。死んでいきながらも、神様に抗議するのではなく、「父のみ旨がもっと大きいように、もっと大きな犠牲も当然捧げます。」このような姿勢でした。この立場は、永遠に深く入る立場であるために、永遠に神様ともっと近い立場に入るのです。そのような人の前には、神様もびくともなされません。そのような人を打つ人は、すぐに滅びます。神様が自ら制裁をされるのです。それゆえ、右手がすることを左手が分からないようにしろと言いました。そうでしょう?

ある日誰かに何千万ウォンをあげたから、それに対する利子をいくら持ってこなければならないのにと言いながら、与えたものを記憶する人は、天国の主人になりえません。与えたものを忘れなければなりません。父母が子供を育てるとき、何両何銭を投資したから、その利子をもらうという、そんな父母がいますか? 与えても皆忘れるのが父母の心です。与えたものを忘れるだけでなく、もっと良いものを与えられなくて不憫に思うのが父母の愛です。その愛は、永遠に続くために、父母のいない人を孤児と言い、孤児になるのを好む人がいないのです。(三六\八五)

霊界(天国)がどんな所か分かりますか? 為にする人たちが行く世界が、霊界(天国)です。自分のためにする人は、絶対行けないのです。そのような人は、地獄に行くのです。いくら世の中に有名な牧師だとしても、行ってみなさい。どこにいくか…。我々統一教会は、怨讐まで救ってやり、共産党まで救おうとするでしょう?(はい)。しかし、共産党は統一教会を全部首を切ってなくそうとするのです。これが違うのです。ですから、どんな思想がこの世界を支配すべきか?(神様)。我々は共産党よりもっと強くなければなりません。分かりますか、何の話か?(はい)。そうでなくては…。そうして、悪なる人、共産党のような悪くてはいけないのです。為にする愛を中心として強くなれば、世界を救っても余るのです。

今、皆さんが天国で暮らす人たちですか、天国に行こうとする人ですか?(天国に行こうとする人です)。いつ?(ナウqNow:今ですr)。ナウがいつですか? ナウがどれほど続くでしょう? 今日終わるのですか? 十年、百年かかりますか? しかし、死ねばどのようになりますか? それで接ぎ木されなければならないのです。ぷつりと切ってしまって、接ぎ木されなければならないというのです。(九一\一七三)

最後に、皆さんはどのような世界に行くでしょうか? 地獄に行くでしょうか、天国に行くでしょうか?(天国)。皆さんは行きながら「先生! 私を助けてください」と言う人になりますか「先生! どうぞ来てください」と言う人になりますか? 死ぬか生きるかなのです。皆さんは何か結婚して豊かに暮らすと言うけれど、先生が豊かに暮らせと言うのも、変わらない夫婦になれということです。変わらない夫婦になるには、変わる夫婦の世界に行って、ともに修練を受けて、二人が分かれて、四方に分かれて暮らす世界に行っても、分かれてはいけません。このような訓練された立場に立たなければなりません。(一二九\一八二)