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3.天国に行くことができる要素と条件

1)天国に行くことができる要素

@ 苦労が必要

永遠に残るものがあるなら、公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅びたら、先生に抗議をしてもいいです。

民族と世界、天地をかけて、公的に合う人が知恵深い人です。(一九\三〇)

今、この国にどのような伝統を残すか? 我々は怨讐に占領された圏内にいるのです。この国に責任を持った人が、怨讐の前に捕まっていったのです。しかし、怨讐の国に捕まっていったその責任者を優待してはいけません。団結ができないのです。何の話か分かりますか? 捕まっていった責任者が悲惨に死ねば死ぬほど、その責任者との関係が父子の関係のように近くなればなるほど、団結ができるのです。

そうでしょう? しかし、その責任者を怨讐の国が愛すれば愛するほど、彼との団結力は、かすかになるのです。殺すのにおいては、足を切って、指を切って、目を抜いて、そのように悲惨に死ななければならないのです。そのように死ねば死ぬほど、彼と因縁を持った輩は、鉄石のように団結するのです。そうですか、違いますか?(そうです)。方法は、その方法しかありません。

では、霊界が我々と結束されうる内容は、どのようになっているか? 我々が苦労しなければなりません。我々が苦労すれば苦労するほど霊界は? 統一教会が霊界と関係ができて、父子の関係になっていて、兄弟の関係になっていれば、我々が怨讐たちに引かれて回り、ひどい苦労をすればするほど霊界は? 粘り強く団結するのです。

それゆえ、我々が直接動員され、殴り捕まえるのです。そうしないで、ただうかうかとしていれば霊界も? 同じです。そのような意味で、神様はサタンを通じて作戦されるのです。粘り強く苦労させるのです。殺したりもするのです。死ぬそれ自体はかわいそうですが、それによって反作用的な結合を固めようとするから…。そうでしょう?(四九\一〇八)

では、模範を立てるべき地上時代において、我々は今、何の模範を立てるべきか? 何、孝行者…。孝行者になれば何をしますか、忠臣になれば何をしますか? 地上の根拠ではないのです。孝行者になれば何をして、忠臣になれば何をするかというのです。この国の歴史に名前を残したら何をしますか? 一つの本然の原則的な世界を標準にして、そこに合格しうるように、すべてのケースの規格を合うようにするから、今日孝行者の中の孝行者になるべきであり、忠臣になるべきであり、烈女の中の烈女にならなければならないのです。それがどの時か? 他の時ではなく、この時なのです、この時。

ですから、天国に行こうとする人は、悲惨に暮らせ、悲惨に死ね、悲惨に行けというのです。さあ、その言葉が良い言葉ですか、悪い言葉ですか? 良い言葉ですか、悪い言葉ですか?(良い言葉です)。では、死ぬほど出て伝道しろという言葉が、良い言葉ですか、悪い言葉ですか?(良い言葉です)。それなのに、なぜ出ていきませんか? 人のために命を捨てろというのです。自分のためではなく、人のために、世界のために、天下のために命を捨てれば、大宇宙の主人として立ててくれるのです。

貴いものは、万物と人間と神様ですが、この世界を善なる立場で抱くと、命をかけて犠牲になった人は、その三つをかけて犠牲になったために、神様は、その三つ以上のものを返してあげなければならないのです。イエス様はそのような観点で見たので、この地に来て、人間たちの前に初めて宣布した福音の標語が何だったかというと、「汝の家の家族が怨讐だ。」、「死なんとする者は生き、生きようとする者は死ぬ。」ということでした。そうしなくては天国に行けないために、これがいちばん幸福な教訓であるという結論が出てきたのです。分かりますか? いちばん高く、いちばん貴く、いちばんなくてはならない、絶対的な福音なのです。

それで、統一教会に来るようになれば、地上で豊かに暮らそうとしません。ひどく貧乏で、ひどく苦労して死んで、道端に倒れて犬もかみついていかない、しかばねを残したとしても、その場には花が咲く日が来るでしょう。そこには、すべての聖なる人たちが集まって、城郭を造るでしょう。このようになるのです。さあ、皆さんはどのような立場で死にたいですか? 統一教会の輩たちを、国のために、世界のためにひどい苦労をさせて、孝行者、忠臣にしてみようというのが、先生の考えです。それは気分が悪いですか、良いですか?(良いです)。行かないと言うなら張り飛ばすべきですか? どのようにすべきですか? 私とあなたの生活において、これを知る人と父子の関係にあれば、兄弟の関係にあれば、師弟の関係にあれば、「ご両親様、骨を分けてください。お兄さん、、骨を分けてください。先生、骨を分けてください。」と言うべきなのです。足で蹴って、現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。

それゆえ、み旨のために…。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と言われたのが、第二の戒めではなく、第一の戒めです。その次に「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と言われました。あなたの隣人が誰か? 世界万民が隣人であり、兄弟です。世界万民のために、心をつくし、精神をつくし、命を差し出せというのです。命を差し出せば、すっかりしたということです。それで、み旨のために一度死んでみようというのです。どこで死ぬのか? 自分の死ぬ所を探さなければなりません。一つの爆弾として生まれたら、爆破するにはきれいに岩に落ちるのであって、下水のたまりに落ちないようにしようというのです。「木っ端微塵に爆発しよう。我々は、弾丸と同様に撃ってしまった爆弾だ。盤石の上に落ちよう。ひどいものどうし、一度やってみよう」と言うのです。このような決心をしたために、今日統一教会の文先生が五〇を越えても、まだ行くべき道が遠いのです。躊躇しません。

明日の希望の実現者になり、その世界を管理する責任を果たす人がいない歴史上に、私がそれを眺めて精誠を捧げ、涙を流し、それに対して努力と精誠を、熱と誠を尽くして、この標準の前に符合しうる一つの帰一点、その一点を備えるために行くのである、それのために、命をちりあくたのように捨てる覚悟をしていくのが、これが統一教会の先生が持った主流的な思想です。ここには、冒険が内外につながっているのです。無慈悲な決闘を展開していくべき場を、今経ていくのです。

さあ、皆さん、その場が良いですか、悪いですか? 命を尽くしてしても、死なずに残る基盤になるなら、これは人類歴史に手本になるであろうし、万民の幸福の基調になるでしょう。全天下がそれを和動の起点として、大運動を展開することができる軸になりうる立場で、神様を動かし出して、人類の希望の基盤をそっくり結束させうる立場に立って、自分が動ずれば動ずることができ、自分が静ずれば静ずることができる、宇宙史的な責任感を感じながら暮らす男なら、決して臆病者ではないのではないかというのです。そうでしょう? 皆さんは、それをよく知るべきです。それゆえ、死ねというのです。死になさい。(四九\三〇三)

修行の道に入っては、人は死ぬときまで死の道を行かなければなりません。死んですべき苦労を、生きて蕩減しようとするから、そのような道を行かなければならないのです。死んで億千万年苦労することを、この地上で生きている間に縮小して、蕩減してしまおうというのです。皆さん、それを知るべきです。どうせ修行の道は、永遠に受難の路程を行かなければならないことを、この地上で受難の道を歩んでいくことで蕩減しようというのです。(三一\三二〇)

神様が、み旨のために苦労した皆さんに福を与えるのです。どこに行って? 天国に行って。皆さんのその最高の福は、天国に行って受けるのです。天国に行って福を受けるのです。天国に行ってもらうのです。監獄に行ってそれを探すのです。それゆえ、監獄に行く日が希望の日です。手錠をはめても希望の日だというのです。口笛を吹いて行くから、私が来るのを予め知って、準備しておいているのです。すっかり準備しておいていました。私に会って、教えを受ける準備をすっかりして、待ったのです。お腹が空けばご飯を、食べるものを配達してくれる人も皆いたのです。何、エリヤがカラスに命じて食べたというのはなんでもないことなのです、なんでもないこと。共産党に命じて食べるものを持ってきてもらうのです、共産党に命じて。分かりますか、何の話か? 霊界を通じて…。(一〇三\二〇七)

A 愛が必要

天国は何に乗って行くか? ジェット飛行機に乗って行くのではないのです。天国は、愛の軌道に乗って行くのです。このように話すと実感がわくでしょう?(はい)。その愛の綱を引けば引くほど細くなるのではないのです。ゴムひものようなものではないという話です。愛の綱というものはものすごくて、ゴムひもは引けば引くほど細くなりますが、こいつの愛の綱は、引けば引くほど反対に太くなるようになっています。これは一挙両得が起こります。

ですから、このような観点で見るとき、み旨のために苦労の哲学博士の親分になるのが、世界を占領することができる秘法なのです。このような結論が出てくるのです。分かりますか?(はい)。苦労の何ですか?(苦労の親分)。苦労の親分なのです、苦労の親分。皆さんは、このような言葉を言えば実感がわくのです。若い奴等が偉そうに横柄に生きたためにです。苦労の親分、苦労の哲学博士になるのが、天国の何ですって? 栄光を独り占めする人になるのです。分かりますか?(はい)。

今日宗教を信じる人たちが「天国に行こう」と言いますが、天国にそのまま行けますか? まず、地上で天国を迎えて、行かなければならないのです。地上で天国を迎えるためには、愛の法度を経て行かなければならないということをはっきり知るべきです。皆さんすべてが、そのようになることができるよう、祈れというのです。

皆さんの家庭に、愛する子女たちがたくさん生まれれば生まれるほど、神様の国をもっと愛すべき十字架が加重されるということを感じなければなりません。その家庭に息子娘をたくさん送るのは、若くなる十字架が多いということなので、国のために捧げるべき責任が多いという意味です。そのような内容を知って、責任を果たす人になるべきです。そのような家庭であってこそ、その家庭に後代を相続することができる運勢を持った息子娘が生まれるのです。(三二\二三二)

どのように天国に行くか? 神様の愛に狂って生きるべきです。アダム・エバの理想として、神様を愛すべきであり、昔のペテロ・ヤコブ・ヨハネ以上にイエス様を愛すべきです。そうしなければ、神様の国を愛してあげることができる、真の愛の相対圏を復帰することができません。これだけ復帰するようになれば、万事が思いどおりになります。分かりますか?(はい)。

お金がないと心配せず、息子娘がいないと憂慮せずに、十年、二十年その道を続けて行けというのです。続けて行ってみれば、大きな山と険しい峰が…。自分はだんだん下っていきながら、苦労ばかりするようですが、だんだん高くなるのです。統一教会は、打たれながら大きくなるのです。そうではないですか?(そうです)。一つの家の中で、十人が暮らす家庭があるなら、公的目的のために十人の反対を受けながらも、我慢して我慢する人が、その家庭の主人になるのでしょう。すぐ天国の主人になるのです。(一四二\二八九)

皆さんは、五色人種の息子娘を抱いて、その孫たちを抱くことができなければなりません。それで、世界人を神様の真なる愛を持って、真なる父母として、愛することができる家庭の主人になったという立場に立つべきです。本然の神様の愛を中心とした、父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表しうる立場に立つことによって、初めて天国に入ることができるのです。

天国に入るには、真なる神様の、真なる真の父母の、真の愛に一つになるべきです。その血統的関係から生まれた息子娘を中心として、この地上に生きてから行く所が天国ですが、今までそのように生きて行った人は、一人もいません。それゆえ、天国は空いているのです。(一七六\二一〇)

天国に行く道は、兄弟を神様のように愛するところから開かれます。皆さんは、先生についていこうとしますが、その心で兄弟に従ってともに行こうと努力してみなさい。このように見るとき、天国にいちばん高く、早く、良く導く者は、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すようになります。(六六\一二五)

では、皆さんは何の天国に行きますか? 世界天国に向かって行きますか、個人天国に向かって行きますか?(世界天国です)。先生も欲が深くて、世界天国に行くことができる愛の綱をぎゅっとつかむために、四〇年間迫害されながらこのことをしたのです。個人の愛の綱を残して、家庭の愛の綱、氏族の愛の綱、民族の愛の綱、国家の愛の綱、世界の愛の綱をぎゅっとつかむためにです。ぎゅっとつかんでどこに行くのか? 神様が保護されて、国を訪ねていかなければなりません。世界の理想はないから、神様がどこに行きますか? 世界の愛の綱を探したから、福を受けて出世したから、還故郷するのです。故郷に行って、かわいそうな人たちを生かしてあげるべきではないですか。さあ、世界の愛の綱をわしづかみにしたから、どこに訪ねていきますか? この国を生かしてあげるために来ました。(一四三\一四一)

B 実績を持つべし

我々の前には、ただ天と地に天国を建設する理想だけが目前に到達し、その栄光と栄華の世界に幸福を探して入ることができる道だけが残っているのです。今までは、これが僕の僕どうしも塀であり、全部塀です。全部が塀なのです。主体者と対象全部が塀です。ここも全部が塀です。全部が塀なのです。全部が戦いです。霊界にも塀がざらにふさがっており、地上にもざらにふさがっていますが、これを全部開いておきました。全部開いておいたのです。霊界がそのようになったために、霊界が自由に地上のどこでも定住することができる基盤を作っておきました。

過去には、祈祷をして精誠を捧げても、宗教の教祖とこのときしか会えませんでした。会っては皆分かれました。それで、また上がらなければなりません。ですが、今は全部宗教圏を中心として、地上に再臨することができる時が来ました。そのような時代が来たために、皆さんが過去の時代、現在の時代、未来の時代を動かすことができる実績を持てなければ、天国に行けません。それを知るべきなのです。過去の時代は、今霊界に行っている善なる霊たち、天使たちから善なる霊たちの時代であったし、現在の時代は、父母の時代です。そして、未来の時代は、神様の時代です。それゆえ、霊界を動員して父母様を動員して、神様を動員することができる、そのような実績を持たない人は、天国に入れないというそのことなのです。アダム・エバに天使が動いて協助し、神様が動いたのと同じなのです。そうした次に、宇宙はアダム・エバが動かさなければならないのです。

皆さん、神様を中心とした三世界を、過去・現在・未来を支配しうる人だけが、本然の天国に入ります。そうしてこそ、本然の世界である天国に行くのです。(一六一\一九九)

どのようにすれば、天国に行くことができるか? 天国に行くことができる条件は何か? 自分の息子娘よりも神様をもっと愛すべきなのです。夫より、妻よりも主をもっと愛するべきなのです。自分の体よりも聖霊をもっと愛するべきなのです。これが三位一体です。(一〇\一〇〇)

では、天国に誰が入って暮らすか? 神様を喜ばせた息子娘が入って暮らしますか、神様を悲しませた息子娘が入って暮らしますか?(喜ばせた息子娘です)。喜ばせた息子娘が入って暮らすべきなのです。ところで、堕落という名詞が生まれた以後、その堕落の後孫として、億千万年の歴史を経てきながら、数多くの堕落の人類が膨張、繁殖しました。そのように繁殖した人たちの中で、神様を幸福にしてあげた人が、この地に生まれたと思いますか、生まれなかったと思いますか?(生まれなかったと思います)。(四三\二三)

皆さんは、統一教会を信じて天国に行くのを願っているかもしれませんが、自分がこの地上である実績を積むことができなければ、たとえ天国に行くと言っても、恥ずかしいのです。我々は、既成教会の人たちのように、観念的に信仰生活をして、天国に行くという群ではありません。我々は、すべて努力と精誠を注いで、天国を建設するという群です。これに反対したり、制止する人がいるなら、許すことができません。そうするためには、自分の心身はもちろんであり、自分のすべての所有物と環境まで全部投入しなければなりません。そして、国家の運命に責任を持つべきであり、さらにアジアの運命までも責任を持たなければいけません。今がそのような時であることを、皆さんははっきりと知るべきです。(二二\二二六)

C 為に生きるべし

皆さんが五〇の生涯を生きたなら、二五年以上をこの宇宙のために、天倫に従って、天理のために生きたなら、天国に行くのです。そのように生きたなら、良い霊界にとどまることができる境界線を越えることができますが、五〇の生涯を生きるのに、自分を主にして生きたことが多くなるときは、残念ですが善なる本郷の世界に行くのではなく、自分自体を中心として吸収しようとする悪の本郷の所、地獄に行くのです。これは、間違いない事実です。皆さんが今日ここでこれを発見して、今日皆さんは、過去に自分自体が自分のために生きたことが多かったら、その生活を清算して、それを否定して、全体のために、国のために、世界のために、天地のために、神様のために生きることができる余生を残すために努力しなければなりません。そうするなら、ここから地獄ではなく、天上の理想世界に向進するであろうことは間違いありません(七八\一一九)

さあ、皆さんは霊界の事実を知らないかもしれませんが、ここにいる人は、霊界について専門家なのです。あの霊界がどのようになっているかという事実については、誰にも負けない体験をしたし、また、霊界は私の専門的な分野です。あの霊界の秩序的起源を訪ねてみれば、どのようになっているか? 為に存在する原則で構成された世界が、我々人間たちが願う天国だと、皆さんが端的に知っても、それは間違いない結論なのです。そのような所が、我々の本郷です。我々の本郷です。

我々は良かれ悪しかれ、どうせそこに行くべき運命に置かれているのです。それが我々の一生の道であることを、皆さんは知るべきです。我々は、旅人の道を行っているのです。では、人生について、ここに問題となることは何か? 自分のためにもっと暮らしたか、人のための生活をしたかということです。その差に従って、人のために生きたことが大きいというときは、天国に行くことができるのです。その反対になるようになるときは、地獄へ行くのです。この公式的原則は、皆さんがこの場では信じられないでしょうが、死んでみれば分かるでしょう。

神様は、人類を救うために、宗教の道に従ってきながら、摂理をしてきたと思います。それゆえ、高次的な宗教であるほど、その本郷のみ旨と本郷の原則に一致しうる教訓を述べざるをえず、それゆえ、数多くの高次的な宗教は「犠牲になれ、奉仕せよ」という論考を立てざるをえなかったのです。

そのようにあの世界に一致させるために、神様が歴史と宗教の背後から摂理してきたという事実を見るとき、神様は歴史の中にいるという事実を否定することができないのです。このような原則について見るとき、為になろうとする宗教は発展することができますが、自分を主にして世界に問題を提示して、主体的な立場に立とうとする宗教は下っていくという結論も、ここから見出すことができるのです。(七四\五一)

天国がどんな所か? 天国がどんな所か、確実に知らなければならないのです。天国は愛の世界だというのです。天国は、どのような世界かというと、中心者である神様のためにある世界、神様のために生きる世界だということです。(九八\三五)