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皆さんがいくら死なないと言っても、死ぬ時になれば死ぬのです。劉協会長が霊界に行く前に、霊通する数多くの人たちが証をしました。先生もある程度知っていましたが、誰でも時になれば霊界に行かなければならないのです。
霊界に行く人にも種類があります。自分の寿命どおりに生きて行く人と、自分の寿命どおりに生きられずに行く人がいます。自分の寿命どおりに生きられずに行く人には、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するために行く人がいます。
もしある町内で、指折りの三〇代の若者が三人だけ死ぬようになれば、その町内には福が来るというのです。ある一族なら一族でも期待を受けた竿のような若者が、三人だけ死ぬようになれば、その一族には福が来るというのです。すなわち、蕩減を払わなければならないということです。どこでもそうなのです。因果法則はどこでも作用するのです。
神様が、千人の価値を持った一つの存在を中心的な立場に立てて、人に代わって死の道を行かせたとき、千人がその人の恩徳の前に感動して、その人を慈しみ、その人の生涯を見習い、その人のように生きると言うようになれば、その民族はその人のような恵沢圏内に入ってくるのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の思想を見習おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入るためにそうなのです。
昨年も何人かが霊界に行きましたが、今年も何人かが霊界に行くでしょう。言いはしませんでしたが、先生はすでに皆知っています。これはなぜそうなのか? 一段階越えていくときには、必ず蕩減を払わなければならないためです。今は、民族が払うべき蕩減が残っています。これを我々統一教会でしなければなりません。(三三\一〇)
この地上に生まれた人間たちの中には、希望を持って生きる人たちがあり、希望を持てずに生きる人たちがいます。しかし、希望は人間を中心とした希望と、天を中心とした希望の二つがあるのです。
我々は、生まれたその日から、母の懐の中が何よりも自分にいちばんいいものと思って育ちますが、育ちながら母の懐を離れるようになり、次には友達と付き合って、友達がいちばんいいものと思って過ごしますが、友達とも別れてしまうのです。
それで、人間たちは、だんだん育ちながら、愛する父母も自分の希望の全体になれず、愛する夫婦も自分の希望の全体になれず、さらには、愛する子女も自分の希望の全体になれない、という事実を知るようになります。
人間たちが多くのことを希望しますが、希望するその心が薄れてなくなってしまうことを知っています。家庭に対する希望、あるいは国家に対する希望、さらには世界に対する希望を持っていますが、年齢が多くなるに従って、その希望する心がだんだん弱くなっていくのが事実です。
地上に生きている人間たちの中には、その希望を自分の全体の希望として誇り、自分の生命を失う恨があっても、それを離れては生きられないという確固たる信念を持って生きていく人が多くないという事実を、我々は知っています。人間は、そのように生きて、最後には死と戦って越えなければいけない運命に逢着するようになります。
人間は、一生の間、すべての希望を抱いて生きますが、後には死にぶつかり、自分が抱いていた希望の全部を皆捨てたまま行ってしまうのです。今日も生きるのを願い、明日も生きるのを願い、新しい希望を探してさまよっていますが、死にぶつかるようになるときには、希望を持てなかったまま、絶望しながら最後の道を行くのです。この事実を我々はよく知っています。
人間が自分を中心として見るときは、希望を持ったようですが、死の峠を越えることができる希望を持てずにいます。そのような希望を持てなかったまま、消えています。これを人生の手本と思って死んでいくのか? そうでなければ、死もあざ笑って越えていくことができる一つの希望を探して、その希望を楽しみながら行くのか? これが今日、地上に生きている人間たちが考えなければいけない、重要な問題だと思います。
今日、世の中の万事は、皆過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、世界あるいはある主義も、皆過ぎ去ってしまうのに、最後に残るべきものは何かといえば、死と戦って勝利することができる一つの希望でしょう。我々にそのような希望がなければ、我々は人生の敗北者と言うことができるでしょう。
このような人たちがいる反面に、生まれながら世の中の人たちが願う一切の希望を拒否し、生活しながら人間的なものを一切拒否し、人間の世の中の希望でない、新しい天の希望、永遠の希望を抱いて生きる群があるのです。
天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望を持って死の峠を越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら生きることができるようにするために、無限に苦労されたのです。それゆえ、信仰生活をする人たちは、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立つことができる希望を抱いて、永遠の希望の世界を夢見て生活すべきなのです。(六\四四)
いくら文なにがしだとしても、いくら先生だとしても、死んでいくのです。君たち! 昔、四〇代のときには、死を考えませんでしたが、今は死に対して深刻に考えるようになるでしょう? 明日あさってだなあ。頭を見ても、手を見ても死に至っており、体を動かしてみても、死に至っているな。深刻になるのです。死というものは、運命の関門です。越えざるをえないというのです。
さあ、では、死んだ以後にはどのようになるか? それが分からないでしょう? 一般の人たちは分かりませんが、統一教会の輩は? 分かりますか、分かりませんか?(分かります)。どのように分かりますか? では、死んだ後には下りていく運命ですか、上っていく運命ですか?(上っていく運命です)。欲張りが多いなあ。(笑い)何、全部答えるに「上っていく運命」と言いますが、運命は「上っていく運命だけになるとは何か? この野郎!」このように言うのです。「おい、こいつら、そうではない」と言うのです。(一二〇\二三一)