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4)瞬間(一日)と一生の関係

皆さんの生涯において、皆さんの生活全体が栄養素を吸収しうる基盤にならなくては、生命体を完成することができないのです。これが、自然的な現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、ある長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるということを知るべきです。

瞬間を無視する人は、貴いものを持つことができません。大成することもできず、偉大な人にもなれず、また、神様の王座と王冠を受け継ぐことができません。それゆえ、瞬間を輝かせるために、皆さんは言葉一言、行動一つを注意すべきであり、考えることも注意すべきです。自分の生活で繰り広げられるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念を持って解決づける所でのみ、勝利圏が決定されるのです。

このように、勝利圏が決定されることは瞬間です。従って、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されるといいことを、皆さんは知るべきです。瞬間を輝かせることができる無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人になることができるのであり、聖人にもなることができ、神様の息子娘にもなることができるのです。このように、生死の分岐点は、瞬間にかかっているのです。(三一\二一八)

今日、我々の姿勢が問題です。まず、その国が来ることを願い、そのみ旨が成されることを願うのも必要でしょうが、それより、自体を中心として、どのようにすればみ旨とともに一致していくかということが重要です。

一時間なら一時間を、どのようにすればみ旨とともに一つになるかということが、み旨の国が成されるのと願うことより重要だということです。それゆえ、まずみ旨を継承しうる個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶことができるために、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間をどのようにみ旨とともに関係を結ぶかというのが、重要な問題であらざるをえないのです。

復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス様を中心としたヨセフ家庭まで、四千年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある一年を中心としたのではありません。

アダム家庭において、アダム・エバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたその国を売る基盤になったということを考えるときに、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかを知ることができるのです。

その一瞬の失敗によって、長い歴史時代に修行の道を行った数多くの人たちが、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族は、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減の祭物の起源になったということです。このような事実を考えるようになるとき、我々が過ごしている一日の生活圏内の一時間、一時間も恐ろしいですが、一時間圏内のカチカチという瞬間が、我々においてどれほど恐ろしい瞬間かということを感じて、闘っていくすべを知る人になるべきです。それゆえ、永遠の天国も一瞬を離れてはありえないということを、皆さんは知るべきです。

永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに一秒の瞬間でも、時間的関係について飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断するのです。

それゆえ、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのにおいて、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、一〇代に行けなければ二〇代に行き、二〇代に行けなければ三〇代に行き、三〇代に行けなければ四〇代に行き、四〇代に行けなければ五〇代に…。一生をこのように生きていくなら、彼は、一生を経てみ旨とともに一つになりうる一日の生活を持ってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたら、その人は天国に行けません。

いくら自分が暮らしているその国が良いと言っても、一日の勝利の基準を持てなかった人が、どうして天国に行くことができ、一年の勝利の基準を持てなかった人が、どうして永遠の世界に入ることができるでしょうか? このようなことが問題であらざるをえません。

それゆえ、信仰者の生活において、永遠を夢見ていくことも重要でしょうが、それより先立って重要なことがあるなら、それは今日の現実で、天とともにどのように悪を清算して、善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要だということを、我々は知るべきです。

このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が億千万年の恨を結んだのです。アダム家庭で、カイン・アベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源を作らなければなりませんでした。このように、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。

一二〇年かかって方舟を造ったノアの苦労の路程においても、神様がノアに「今、私の願いの成就の日が来たので、船に乗れ」と言われた命令も、一瞬に下されたという事実を知るべきです。この命令に同調した人は、永遠の神様の祝福を受けることができましたが、そうできなかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたという事実を、我々は考えてみるべきです。

アブラハムも同様です。神様が「おまえの後孫が天の星のように、海の砂のように盛んとなり、万国を覆って余るであろう」と祝福されたのに、その祝福の命令もカチカチという一瞬に下されたということを、皆さんは知るべきです。アブラハムが供え物をした時間も、何十年間供え物をしたのではなく、たった一日という時間圏内でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、一時間未満圏内でしたが、ここで歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてくるのです。ここで誤れば、その起源が破綻するという事実を考えるべきです。

今日、信仰者たちが恐れるべきことは、終わりの日に訪ねてくる審判ではなく、一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間を、どのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨とともに交差路を形成していくかという問題です。(三七\二一九)