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1 真とは
神様が願う真なる人とはどのような人でしょうか? これが問題になります。学者たちが、他人が解読しがたい難しい本を読み、文句を解釈し、それを説明できる能力がどれだけ立派だとしても、それが神様の真なるみ旨とどれほど関係をもっているのでしょうか? これは、深刻な問題です。
神様はどこへ行くのでしょうか? 現世に至っては、「神はみな死んだ。死んだ神が行く所もないし、神という名詞も必要ない」と結論づけ、弊履のごとくほったらかしにしました。そして現世においては価値観が没落しました。絶対善の価値基準を立てることのできる、いかなる内容もないというのです。絶対基準を立てられないので、相対的価値基準を探し求めて絶対へ到達することのできる道すら、喪失してしまったのです。
レバレンド・ムーンに会ってみれば、何、どうということがありますか? 御飯を食べ、眠り、同じなのですね。主張することが違っていますか? みな同じです。同じなのですが、何を中心として同じなのですか? 真を中心としては同じではありません。真は、過去の人においても真、現在の人においても真、未来の人においても真であり、人間のみならず神様がいるならば神様が見ても真であると言うことができなければなりません。それは、国境も人種も超越し、有形・無形世界の限界線も超越し、その次には、貴賎の差、貧富の差も克服し、今、分立している東洋・西洋の文化内容もみな、克服することができるのです。真は、すべてのものを克服することができます。
このように見るとき、真というものは何ですか? 私がどれだけ今、この時代において何がどうのと言っても、それが歴史時代の真と未来世界における真と連結された真の内容を慕いながら、つくっていっているのでしょうか? そのようにできなくなるときは、この動いたものがそののちには、必ず破綻します。どれだけ初めが良く、どれだけ過程が良かったとしても、終わりに行っては破綻します。真に至らない時は、真の前に存立することができません。このように見るとき、深刻です。
それでは、真というものはいったい誰を中心としていう言葉なのでしょうか? 普遍妥当な真理の内容が真なのですが、その普遍妥当なものが韓国的でなければならないのでしょうか、世界的でなければならないのでしょうか? また、時代的でなければならないのでしょうか、歴史的でなければならないのでしょうか? このように問うてみるならば、学者であるならば、みな分かるのです。韓国的でなく世界的であり、現実的でなく、歴史的でなければなりません。
真というものは、根をどこに置くのでしょうか? これが問題です。今日の青少年たちの問題、家庭破綻の問題が生ずるのは、真の定義と、その基準が不確実だからです。
一言でいえば、真は一人のものではないということです。どういうことかといえば、真は、私のものではないということです。私のものである前に家庭のものであり、私のものである前に社会のものです。真は、そのようなものです。大韓民国のものである前に世界のものでなければならないし、世界のものである前に神様のものでなければなりません。 (一九八七・七・一四、アラスカ、ISAハウス)
2 メシヤはモデルであり標準
メシヤは真なる男をいうのですが、彼は天地を代表し、世界を代表し、国を代表し、氏族を代表し、家庭を代表し、個人を代表するすべての面で合格者であり、モデルになる方です。天が見ようが、悪魔が見ようが、人間が見ようが、讒訴することができないというのです。すべての面で神様も「そのような人」、サタンも「そのような人」、人間も「そのような人」と公認することができる標準的男性として来られる方がメシヤです。
(一九八九・三・五、本部教会)
しかし、レバレンド・ムーンは、アメリカの大統領が正しい道を行かなければならないし、指導者が正しい道を行かなければならないし、アメリカ国民が正しい道を行かなければならないと教えてあげるそのような業をしてきました。このような標準者が出てこなければならないというのです。そうでなくしては公認する者がいないというのです。公認することができないというのです。
正しいことは尺度があってこそ合格、不合格を定めることができるのであって、そうでなくしてどのように分けることができますか? そのようになろうとするならば、個人的な標準がなければなりません。歴史を身代わりした個人的な標準であり、宗教歴史を身代わりした個人的な標準であり、摂理史を身代わりした個人的標準が二つでなくて一つにならなければなりません。そのような一人の男を探し求めるためには、どのようにしなければならないのでしょうか? 理想を成すためには、すべての摂理の標準がなければならないのですが、その内容とは何かといえば、愛です。その愛のモデルになることができる標準の男がいなければならないのです。
さあ、そのような男が現れるときは、サタン世界がどれだけ反対したでしょうか? サタン世界全体が動員されて否定し、霊界でも否定し、宗教界でも否定し、世の中まで否定するのです。その標準者が完全な標準者として立つためには、そのように否定され得る位置に立たずしてはなれないのです。
それでは、そのモデルがあるならば、昔、ノアがそのモデルに従っていかなければならなかったのですか、そのモデルがノアに従っていかなければならなかったのですか? イエス様はどうだったでしょうか? イエス様も同じです。それでは、神様はどうですか? 神様も同じだというのです。
一つのモデルが定められるならば、それを否定しては国が存続することができないのです。そこには神様も従っていかなければなりません。神様も従っていかなければならないというのです。レバレンド・ムーンはどうですか? 思いどおりにすることができますか?
標準的な一人の男、それがメシヤです。彼がメシヤなのです。宗教的に言うとき、彼がメシヤです。その次に、歴史的に言うときは、救世主だと言うのです。また、摂理的に見るときには、神様の息子であり、聖子というものです。
それでは、統一教会がそのような男を代表したモデルになる内容を全部帯びているのでしょうか? それが問題です。レバレンド・ムーンはどうですか? (帯びています)。どのように? 皆さんにそれがどうして分かりますか? 皆さんが知っているとおり、既に霊界のすべての偉大な人たち、霊界のすべての宗教指導者たち、霊界におられる神様がそのように知らなければならないというのです。霊界で分かってくれなければならないのです。人が分かることが問題ではありません。代表者は、そのような公認を受けて世の中に出てきて、サタンが支配する世の中と戦わなければなりません。そうして、認めないと反対している個人、家庭、氏族、民族、国家、世界が全部公認するようになる時に、世の中は終わりだというのです。(一九八九・三・一五、ベルベディア修練所)
モデルが何か分かりますか? 金型。金型を一つつくっておくならば、マスプロダクション(大量生産)といって、何万個もつくることができるではありませんか? それが分かりませんでした。これを合わせることが分からなかったのですね。(一九八九・一・八、本部教会)
今や既にモデルが生じました。皆さんもモデルどおりになったか、ならなかったかという時代に入ってきます。ですから、そのモデルどおりになれば、公認されるというのです。そのような標準があるならば、その原型を直ちに写し、工程に差し込んでアッセンブリーライン(一貫作業場)で組み立てをするのですが、組み立ては皆さんが勝手にすることはできません。主人が持ってきて全部、合格品として公認して組み立てをしてこそ製品になるのです。
さあ、それで世界的な工場を造ったならば、そこでつくった品物をもってきてそのモデルに合わせ、合格品としてマスプロダクション(大量生産)して全部、世界解放運動をしなければならないのです。
皆さん、スケール、メジャー(標準尺度)というものがあるのですが、個人を計るときに、そのモデルに従って準備しておかなければなりません。家庭もそうであり、氏族もそうであり、その次に国もそうであり、世界もそうであり、全部そうでなければならないのです。そこにハーバード大学で経済学を学んだとか、何かの博士学位が通じますか? 全部通じません。アメリカの法は、アメリカ以外では通じません。さあ、ですから標準者が出てきたので、そこに合うように努力しなければなりません。そのフォームに合わせようと努力しなければならないというのです。
そのモデルが出てきたので、ここで一番の問題となるのは氏族です。家庭より氏族を必要とします。この氏族がたくさん集まるならば自動的に国家になるのです。一番の問題が何かといえば、個人から家庭、氏族までが問題です。個人が蘇生であり、家庭が長成です。そして、氏族が完成です。個人完成、家庭完成、氏族完成、このようにひとセットです。同じ形態だというのです。それで、統一教会はこのようなフォームをつくる運動をしなければならないのです。 (一九八七・三・一五、ベルベディア修練所)
3 真の父母とは
統一教会でいう真の父母とは何でしょうか? これが問題です。堕落しなかったならばどのようになるのでしょうか? 堕落しなかったならば、神様が縦的な愛になり、アダム・エバは、神様の体になるのです。神様の体と同じなのです。神様は骨と同じであり、アダム・エバは体と同じだというのです。神様も心があり、体があります。神様は、内的な位置で内的な父母になり、アダム・エバは外的な位置で外的な父母になります。内的・外的父母が一つになったその位置で愛でもって編まれ、内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間との愛の結びつきによって真の父母、完成した人間が成就されるはずだったというのです。愛と結びつかないならば、完成人間はいないというのです。
その完成した人間とは何かといえば、本然の私たちの祖先なのです。神様が創造なさった本然の人間です。そのような人から私たちが生まれるのです。そのような神性を帯びた人によって私たちが生まれるのだというのです。ですから私たちは、神性を帯びた神様の性稟をもち、人性を帯びた、神様の前に縦的な父母の性稟をもつのです。
ですから、アダム・エバの完成は、神様の愛でもって結ばれてこそ出てくるのであって、これが結ばれなければできないのです。神様の縦的な愛と横的な肉的愛が一点で結ばれたのが、まさしく私たちの祖先の血統の根です。そこが私たちの祖先の血統です。そこから全人類が生じるのです。堕落のゆえに男の愛、女の愛、神様の愛が、みな分かれました。堕落によって男の愛、女の愛、神様の愛が結ばれなかったのです。堕落しなかったならば自動的に結びつけられます。男、女は愛によって自動的に結びつけられます。なぜ、男、女が一つになろうとするのですか? 愛のゆえです。愛によって一つになったのちに何をしようと、そうしますか? 神様の祝福を受けようとするのです。それが目的なのです。(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)
真の父母という意味は、完全な男と完全な女ということです。縦的、横的に九十度の角度になった男と女ということなのです。それで先生がこれを接ぎ木するために、未婚の男女を集めて首を切ってしまい、母の芽と父の芽を持ってきて植えておくのが祝福です。(一九八四・五・一、世界宣教本部)
4 真の父母が必要な理由
今日、真の父母が出てくることによって、この地の上に何をもってきたのでしょうか? 真の愛を中心として、人類であるならば人類、霊界であるならば霊界に、新しい心情圏を形成したのです。その心情圏とは何でしょうか? 堕落の心情圏は血統的に違います。真の父母を中心として根が違います。根が違います。堕落した根ではありません。先生が根になり、ここに皆さんが接ぎ木されて大きくなっていくのです。皆さんの体が大きくなっていくのです。枝は切って火に投げ込み、サタン世界との因縁を切ってしまうのです。
そうしてこそ、初めて本然の根から本然の心情圏を再現して、堕落しなかった本然の神様の愛、絶対的な愛を中心として同位圏に参席することができ、真の愛に同参することができるのです。のみならず、神様の真の愛を中心として宇宙の相続権を受けることのできる道が、愛の道だというのです。
真の父母が必要なのはなぜかといえば、心情圏を中心としてその根を下ろさなければならないからです。今は、根が違います。堕落によって幹と枝が、全部違います。新しい根が真の父母から始まり、ここから何が出てきたのでしょうか? ここから幹と枝が出てきて、接ぎ木するのです。切り出して接ぎ木するのです。接ぎ木してそれが宇宙の大きい主流になるのです。サタン世界のすべてのものを切り捨てなければなりません。根まで切り捨てなければならないのです。
それが大審判です。大審判はいつあるのでしょうか? サタン世界の根を切り捨てる時であり、サタン世界の横枝を打ち捨てる時です。そうして主流だけが、本来の根だけが神様の愛と対等な位置に、同位の位置に立って相続権を受け継ぐのです。愛の根によって入り組んだ幹から枝へ、葉を連結させて世界を全部その葉のように再生させる業が今日、私たちの統一教会を通じた心情的救道の路程です。そのような意味で、真の父母が必要なのです。それで、真の父母の愛が必要なのです。そのような意味で、真の父母の立場が必要なのです。(一九八七・五・一〇、釜山教会)
さあ、それでは真の父母とは何でしょうか? 肉身の父母は真の父母と何が違いますか? 真の父母とは何ですか? 何をするのが真の父母ですか? 愛を中心として話すとき、その肉身の父母と真の父母と何が違いますか? 愛に対する概念が違います。愛の概念が違うというのです。肉的父母は、肉身を中心とした愛を教えてくれるのであり、霊的父母は、霊的な世界を中心とした愛を教えてくれるのです。内容が違うというのです。
肉的な父母だけいるならばそれでいいのに、霊的な父母をなぜ必要とするのでしょうか? 堕落したからです。今まで堕落した父母は何を教えたのかといえば、半分以上、もっと大きいものをみな取って捨て、自分を中心としてしきりに下っていくことを教えたのです。それで、父母の愛を中心としてこのサタン世界に永遠にいるようにするための一つの決定的な線が引かれました。これを断ち切る道はありません。
それでは、真の父母とは何ですか? そのような基盤でだんだんと、もっと大きいものを教えるのです。上がっていけば上がっていくほど、もっと大きいものを教えるのです。それで天の国、永遠な国に合うように教えるのです。永遠な国に行って拍子が合うように教えるのです。呼吸に支障がないように教えるのです。(一九八三・一〇・一、世界宣教本部)