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第二章 メシヤと真の父母

第一節 メシヤ

 

一 救い主は父として

1 再臨の必然性

「救い主が来る! 主人が来る!」と言いますが、その主人が来て何をするのでしょうか? その国、その世界を治めます。世界を治めようとするならば、主人が全部、自分の思いどおりに率い、世界を回りながら主管するのです。その主が、あるいは救世主であるならば救世主が願う世界こそ、神様が願い、神様が喜ぶことのできる世界です。神様が喜ぶと同時に、神様と共に始まった私たちの良心が喜ぶ世界です。ここには人種差別、国家、国境問題、歴史的背景、あるいは伝統思想は問題になりません。それこそ共通的であり、善観においては一致することができ、その一致した内容は、天と共に共鳴することができる相対基準です。そのような世界に向かってお出ましすることができる一日が来るのであり、その一日が成されたその日が、救世主がこの地に来る日です。キリスト教でいうならば、再臨主が来る日です。(一九六九・六・一五、前本部教会)

 本来、神様の創造理想を前にしてみるとき、復帰の道は必要ないのです。救援摂理は必要ないというのです。私たちには、救い主とか救世主とかメシヤとか、中間媒介体になる存在は必要ないというのです。今日、宗教が必要であり、イエス様が必要であり、何かの新しい世界、今後、救世主が来てこの世の中を救ってくれなければならないという再臨思想とかいうものは、人間が堕落したので復帰摂理完成のために必要としたのです。復帰摂理完成のためにこのことが展開されるのです。               (一九八七・五・三、本部教会)

2 イエス様とメシヤ

 イエス様がこの地に来て、「私は、メシヤだ。救い主だ」と語りました。とても良い意味で語ったというのです。このようにもだえ苦しむ人間たちの前に、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と語りました。これは、いかばかりすてきですか。今日、何かの立派な人になるというより、そのような一言を語っておきなさいというのです。そのような内容をもった人であるならば、それはいかばかりすてきな人でしょうか。歴史的な宣布なのです。

 また、「救い主だ」と言いましたから、「人類の中には私しかいない」という話なのです。その話は、数多くの人類が生きていますが、私しかいないというのです。ですから、「あなたは何をする人なのか?」と聞くとき、「人類の希望の本体であり、人類の生命の本体であり、人類の救援の根源体だ」と、こう言わなければなりません。そうでなければ必要ないというのです。イエス様が、「私は道であり、真理であり、命であるから、私によらなければ父のもとに来る人がいない」と、そう語りました。

 先生は、そうです。それ一つだけ取っても、救い主の資格があると思います。奇跡は必要ないというのです。「本当に根源が通ずるのか、通じないのか?」と、これさえ間違いないとすれば、メシヤなのです。それは、救い主だというのです。堂々と人類を身代わりして一つの総結論を下すことができる腹をもち、手を挙げて叫んだというのです。そのくらいするならば、メシヤの資格になり得るというのです。(一九六二・一〇・二八、前本部教会)

3 救世主は父

 歴史は、回り回って目的地に向かい、目的の結実点に向かってだんだんぶつかっていき、進展していきます。その目的点は停止していますが、目的に向かっていく歴史は進展していき、進展していくこの思潮的な運命が目的的な基準とぶつかるのです。そうなればこの目的基準は何になりますか? この目的基準を収拾して、ここの主人に誰がならなければなりませんか? 天がいるならば、天が主人にならなければならないのです。神様がおられるならば、神様がその主人にならなければならないのです。ですから、その目的の基準が変わらず、一つの目的の時が、環境が、展開されるというのです。それで神様は、その時と環境が具備されるならば、指導者を送ると約束されたのです。

 ですから、「終わりの日に環境が整い、一つの時期を迎えるならば、その時期と環境を支配できる一人の指導者を送る」という約束が今日、道の世界に残されているのです。それがキリスト教でいうならば、再臨思想です。メシヤ思想なのです。

 そのメシヤという方は、どのような方なのでしょうか? 自分を世界のように愛される方ではありません。自分を天地のように愛する、そのような主義者ではないのです。まず誰を自分以上に愛するのでしょうか? 神様を自分以上に愛するというのです。自分が世界の人類から推薦された存在だということを知り、世界の人類を背後におき、責任を背負い、彼らと共に一つの目的を中心として同じ勝利の結果を獲得し、同じ栄光の座に同参するという心をもった方です。そのような方がメシヤなのです。そのような方であってこそ、人が好きになるというのです。それでこそメシヤになるのです。

 ですから、終わりの日には、どのような主義が出てくるのでしょうか? 天宙主義なのです。これが私たちの理念です。天宙主義は、神様と私の主義です。今日、多くの人々は、天がいるかいないかを知ることができず、生の終末時代における環境をどのように収拾し、その時がどのようになるのかも分からずにいます。それゆえに、その時が来て環境が成される時に、天が収拾することのできる方として送られた方が誰なのかといえば、メシヤという方なのです。救世主なのです。

 救世主なのですが、その方はどのような方なのでしょうか? 今日、私たち統一教会でいう救世主は、歴史上に既に来て死んだ、そのような世界的な偉大な師ではありません。その救世主とは誰なのでしょうか? 父です。父なのですが、何の父なのでしょうか? 神様は内的な父であり、来られる救世主は外的な父です。事実そうです。(一九六三・一〇・一八、光州教会)