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四 先生の生活信念

父母に、私が正しいと考えるときは、屈してみたことがありません。どんなにひどかったことか…。私が泣くようになれば、ただ泣かないのです。皆さん、田舎に行けば、アシで編んだ敷物があります。その敷物を知っていますか? 田舎で暮らした人たちは分かるだろうね。泣くようになればそういうところに座って…。小さいときのことを思い出すのです。一回泣くようになれば、一日中泣くのです。泣かせたその張本人が来て、頭を下げて降伏するまでは絶対に終わらないのです。(笑い)分かりますか? そのようにひどい人です。

泣いても静かに泣かないのです。血が出て、ここの皮が全部むけるほど泣くのです。ですから家では「あの子がしようと言う通りに全部してやろう。」という結論を出したというのです。母も私に降伏し、父も私に降伏し、兄も私に降伏したというのです。生きてみると、いつも生涯正しいでしょうか? しかし、正義に立脚して、私が天理の道理に従うところにおいては、父母は反対せず、何も言いませんでした。(一〇五\二三七)

今日、この世紀末的な歴史の終わりに生まれた皆さん、どうせ一度男として生まれたのですから、決着をつけなければならないのですが、そうしようとすれば、こっそりと逃げて回らないで、みんな抱えて、悪いものはつまみ投げて、きれいに片づけなければならないのではないですか? 今まで私はそのようにしてきました。

先生には無限なる資料が必要でした。労働場に行けば、一等労働者です。できないことがありません。ですから、いつでも食べて生きる心配がない人です。ところで、例えば私がある労働場に行って仕事をしても、ああ統一教会の先生が稼ぐのに困ってこんな仕事をするのだなあ、と思うならばそれは大きな誤解です。

私は今でも、どこに行ってもこの体をもって何でも皆することができます。そして、してみなかったことがありません。何でも一度つかまえたら、終わりまでしないものはありません。また、どこかで何かをするとすれば、適当にやっても三等以内になるというのです。多分神様も知恵深い方でいらっしゃるから、私のような人、特殊な人をうまく選ばれたようです。

一度手をつけて始めることには、生命が行く途中で死ぬとしても、片づけてこそ満足します。くだらなくてみっともなくするなら、全く初めからしません。だれでも一度捕まえたら、お前が潰れるか私が潰れるか二つに一つです。

私がこの道に立ち上がるときも「神様はいますか?」と最後まで突き止めて、神様がいらっしゃることを確実に知ってから出発しました。次は「神様の願いはありますか?」と尋ねて、神様の願いがあることを知りました。また、「神様、私が必要ですか?」と尋ねて、私が必要なことを知りました。「では、どのくらい必要ですか?」と問いただしました。このように、私が一度訪ねていきくっつけば、神様が返事をしてくださるなり、そうでなければ風呂敷を包んで他のところに行かれるなりしなければなりませんでした。皆さんもそのような何かがなければなりません。(一三\二〇一)

レバレンド・ムーンはどんな人か? 一つの才能しかない人です。愚かにただまっすぐにだけ行く人だというのです、まっすぐだけ。ああ、口を少しつぐんで静かにしていて、少し適当に回り道をすればいいのに、なぜしゅっちゅう悪口を言われるように作用してそうするのかというのです。そのようにしながら、多くの人々の反対を受けなければならない峠を越えていくからです。昔愛した人が反対したことも、全部越えていくことができるのです。ところで、皆さんは回り道をする考えをしているでしょう。(違います)。では、なぜ世間のすべてのものをすべて切ってしまって行かなければならないのか? 父母の愛に引かれればまっすぐに行くことができないためです。神様は今まで、まっすぐな道を訪ねて来られたために、まっすぐ行かなければならないのです。分かりますか、なんのことか?(はい)。(九七\二五七)