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三 幼少時代の自然探求

1 自然から学ぶ

先生の幼年期は田舎で育ったので、季節が変わる度に渡り鳥がやって来て、季節それぞれの花がいっぱいに咲く環境の中で成長しました。先生が幼い頃は、韓国のどこに行っても季節がはっきりしていて、季節が変わるごとに美しい自然を見ることができました。今日のソウルは一日中歩いて行っても自然とは出会うことができず、すべて人為的な自然しか見られない索漠とした都会地になっていて、悲しみを感じたりもします。このような都会の環境の中で育った人間は情緒が不足し、自然の神秘と美しさを感じる機会がないため、乱暴であったり個人主義の性格になりやすいことを知らなければなりません。自然との出会いの中で多くのことを学び、悟るようになるのです。

先生は自然の中で多くのことを学び、身につけることができました。その中で、本当の愛とはどのようなものか、幸福とはどのようなものか、についても自分で悟りました。学校教育よりもっと根本的なことを学ぶことができるのが自然の世界でした。

季節が変わり、美しい鳥が飛んで来たのを見つけると、その鳥を追いかけながら、どのようにして巣を作り、どのように生きていくのか、様子を観察しました。あるときは、鳥の巣を探すのに一週間かかったり、鳥が卵を産んでひなをかえすのを見るために十日以上かかったりもしました。親鳥に似たかわいらしく美しいひなを見ながら、神様の神秘と愛を深く確認したりもしました。(一九八六・一・三)

昔、私は田舎で暮らしていましたが、そのときいちばん嫌だったのが、牛に餌をやりにいくことでした。ところが初めのうちはうんざりしていたのに、悟ってからは、牛を心から愛するようになったのです。あるときこんなことがありました。牛はお昼になると、時間になったことがちゃんと分かります。でも、私はいたずらしたり遊んでいるとき、最後までやらずに途中で餌をやりに行くのが嫌でした。それで「十分だけ待ってろよ。いや、あと三十分だけ」そうこうしているうちに一時間、二時間…。こんな調子なので、牛は野原につながれたまま「自分を迎えにくる主人はどこへ行ったんだろう」と待っているのです。しかし、遅れて行っても、私なら腹を立てて暴れるでしょうに、何も言わずにじっと見つめているのです。そんなとき、私は「偉い! 立派だ! 君子だ! すまなかった!」と心の中でつぶやきました。そんなことが何度もありました。「おい! お前は僕よりも…」そう気づいてからは「おい、お前の偉いところが分かったから、きょうはいっぱい食べさせて蕩減復帰するぞ!」と、陽が沈み暗くなるまで餌を与えました。ところで、牛は腹が膨れてパンパンになっても主人が食べさせるのでずっと食べ続けます。夜を明かしてでも食べています。胃が大きいですから、その餌の貯金通帳にたくさん入るわけです。

このように、私は牛について学んだことがたくさんあります。焼けつくような真夏の陽射しの中に座り、汗をたらたら流しつつも、遠くの山を望みながら瞑想する大王様の観があります。だから世界の人々は、とらの肉は嫌いでも牛肉は好きなのです。犬の肉も嫌いだし、猫の肉も嫌い、皆嫌がります。それらはどんなにすばしっこいですか? 猫はしつこくニャンニャン鳴くし、犬はやたら吠えます。「だから牛の肉はみんなが好きなんだな」と思いました。歯ブラシなども、牛の骨のかけらでつくったものです。尻尾ひとつ取っても捨てるところがありません。糞も肥料に使いますね。ですから「牛がいいことはいい!」というわけです。分かりましたか?(一〇九\四〇)

2 自然を通して情緒豊かな人格を養う

私の家には、大きな栗の木があります。約二百年になる栗の木で、とても美しい木です。私はさる年生まれのせいか、よく木に登りました。それも枝という枝、栗の実のある枝を片っ端から…。(笑い)このように太った人ですから\そのときも太っていました\木の枝が曲がって落ちそうになると、その下の枝にうまくぶら下がるように考えておきます。ですから落ちるときは、別な枝に引っかかって落ちるわけです。わざわざ枝の先へ行って、その枝の届くところへ渡るテストまでやるのです。

そのようにして、今度は枝の切れ端に細工をして、それでポキポキッと栗の実を取ると本当に面白いです。あるものは、栗のいががぱっくり口を開けています。この中実を地面に落とさないで取るのです。ボキボキ…。下手をすると落ちてしまいます。その栗の実を地面に落とさないように取る、その面白いこと…。今もはっきり覚えています。これは田舎で育った者でなければ分からないでしょう。十数本、いえ、十数本どころか数十本です。その栗の木がものすごく大きいのです。

それから大きいアカシアの木があって、そこにはカササギの巣が何個かあったのですが、四季を通じていつもカササギがさえずっています。大きな木には決まってカササギの巣が何個かあるものです。カササギは(韓国で)吉鳥(縁起のよい鳥)だというでしょう? カササギが「カッカッカッ」と鳴いたら、何かの便りがあるというでしょう? 私の家の門をくぐると、毎日、朝にも「カッカッ」晩にも「カッカッ」鳴いているのです。

そのカササギの巣がある木に、あっという間に登ってしまいます。しょっちゅう登ったり下りたりしているので、しまいには一息で登れるようになりました。

そして、このカササギの生理とういうのは、見ていると実に面白いのです。カササギの巣を見ただけで「あっ、今年は風がどこからどこへ吹くんだな」ということが分かります。東風が吹きそうだと思えば方向をちゃんと変えて、小枝をくわえて出たり入ったりしながら巣を組んでいくのを見ると…。まったくだれに教えられたのか、見事な作品を作り上げるのです。これは木の小枝を組んで作ったものなので、雨が漏ったりするでしょう? そこで、次に何をするかというと、泥を持ってきて内側を全部塗るのです。風が入らないようにそうしておいて、実に不思議なことに、雨が降ったら一カ所に流れるように小枝を巣の上にあてがい、雨が巣に入らないようにするのです。分かりますか? 小枝の端をできるだけ集めてあるのです。雨が降っても、雨水がその方向に流れ落ちるようにするわけです。これをだれが教えたのか、本当に大した腕前ですね。(笑い)私たち人間もそんな家を作ろうとすれば、たぶん数年は習わなければならないでしょう。ところが、小枝を口にくわえて要領よく作ってしまうのです。

そうして少し経って見てみると、どうでしょう。数日後には巣ができ上がって、あとどのくらいすれば卵が孵化する、ということが分かります。そのカササギの卵を見ると、薄青い筋が絡み合っています。神秘的な筋があるのです。とてもきれいです。この卵の大きさは、鶏卵の約四分の一程度です。

その卵を産む前は、いくら登って行ってもさほど騒ぎ立てたりしません。鳴きません。しかし、卵を産んでからは、面白いことが起こるのです。卵を産むころに登って行くと、このカササギが隣近所まで聞こえるほど騒ぎ立てます。すると、今度は近所にいるカササギの群がやって来てデモを始めるのです。それが面白いのです。そんな趣味がありました。だから鳥たちの生態に詳しいのです。(笑い)

そのように、一回登ってみると一個、次に登ってみると二個、三個、これがたくさん産むときは十二個、十三個まで産みます。

ところで、何度行っても危害は加えません。だんだん慣れて、ひょいと顔を突っ込むと「あっ! また来たな」とあいさつをします。「クァックァッ」とあいさつするのです。登って行っても何もしませんから。登って、見て、下りるだけです。

あるときなど、雨が降っていたりして登らないこともあります。すると、私が出かけるときに、どこから見ていたのか、「カッカッカッカ」と合図してくるのです。どうして来ないんだ、というわけです。こんなにも人になつくのかと思いました。うそではありません。皆さん、そういう趣味を知らなかったでしょう? 今ではすっかり年をとったので、そんな趣味も持てなくなりました。(笑い)

では、カササギのひながかえったらどうするでしょうか。小枝の山のように作った巣の中にひなを置き、えさをくわえてきて食べさせます。えさをくわえて食べさせるのを見ていると、鳥が自分の子を愛するのを見ていると、私たち人間も、子供をどのように愛するべきか、たくさん学ぶ点があるのです。

このひなが飛び回るようになっても、そこそこ大きくなったからと放っておいたりせずに、相変わらずえさを与え続けます。これを私が一羽ずつ放してやるのです。「きょうはいちばんお前のためになることをしてやるぞ」と言って、足に長いゴムひもを縛り付けて飛ばすのです。悪い子ですね。(笑い)そうしてやると、カササギの子がとても喜びます。この鳥がぱたぱたと飛んでいると、いつの間にやら親鳥が来て、つれていこうとします。でも、ゴムひもを結んであるのでどうなりますか?(笑い)そんないたずらをしばらくやって、そのうちかわいそうになって放してやりました。親鳥は、子を連れて森の中の大きなねずの木に移します。皆さんは、ねずの木といっても知らないかも知れませんね。大きな木です。そういった世界を見ると、すべて愛の情緒を中心として動いている事実が分かるのです。

親鳥が子を失ったとき、その心情は人間世界の父母の心情と同じです。かえって、今時の人間の親が恥ずかしいくらいです。

このような観点から見て、すべての情緒はどこに起源があるのでしょうか。どうですか? どこから来たと思いますか? 親鳥は、すべてのひなを愛することを知っています。それを人間が教えたのですか? どこで習ったのですか? 愛さずに争い合って、つついたり捕まえて食べたりしてもおかしくないでしょう。それなのに、皆一様に子を保護するのですから不思議です。

ですから先生は、神様の心情を知り、歴史の事情を知り、世界のあらゆる事情に通じ、未来の人間の事情はこのようになるということを予想して、それを描いていくのです。そういう面が違うのであって、ほかに違うところはありません。学識が高いからといって自慢にはなりません。お金持ちだからといって自慢にはならないのです。その人の心に宿る情緒的人格がどれだけ大きいか、ということが問題になるのです。(一四一\三三)

3 先生の自然に対する好奇心

先生は多方面に素質があります。何であれ、できないことがありません。人間にできることなら何にでも素質があります。体育をやろうと何をやろうと、素質が有り余って…。その代わり、極端な性格で、一度手にしたものは、頭が割れようが首が抜けようが放しません。うちの子供たちもそうです。この小さな国進でさえ、清平へつれて行ったところそうでした。ある程度のところに登ったらそれでよさそうなものを、さらに登ろうとして…。どこまでも登ろうとするのです。それはお父さんに似たのです。先生は、村でだれも登ったことのないいちばん高い木があれば、必ず登りました。夜、寝ることも忘れて、夜中なのに登るのです。あるときは、登る途中で落ちてしまい、枝をつかんでぶらんぶらんと宙吊りになったこともあります。神様のご加護です、死んだら大変ですから。(笑い)

また、近所に池があれば、その池にはどんな魚がいるのかと思い、全部釣ってみるのです。大きいやつを釣り上げようと決めたら、もう一年十二カ月でも釣りをやるのです。先生はそんな性格です。ですから、ひと度何かに取り組んだら、死なない限りそれは解決することになるのです。

それから、雪が降ったら寝ていられません。イタチ猟に出かけます、夜中に。もう、百里でも何百里でも駆け回るのです。お腹のすくのも忘れてしまいます。ですから、私の母はたいへん苦労をしました。ひどい人です、私は。早くも十代に入ったころから両親の心をつかみ、コントロールしていました。まあ、そのくらいだからこういう活動ができるわけでしょう。違いますか? だれであれ、うかつなことをしたら黙っていませんから、そのブレーキに両親でさえ降参せざるをえません。一歩も引きません。骨が折れても引き下がりません。死んでも譲らないのです。

私の家では養蜂もたくさんやっていました。本当にこの蜂蜜、アカシアの蜂蜜はおいしいです。蜂は、このアカシアの花にとまってその味に触れたとたん…。うちでは蜂を本当にたくさん飼っていました。この蜂のやつが頭を突っ込んで蜜を吸うときには、前後の足をこうしてふんばって、尻尾は下に支えおいて吸いまくるのです。そのときにピンセットで尻尾をつかんで引っ張ると、尻尾が切れても放さないのです。すごい執念でしょう? 尻尾が切れるほど引っ張る小僧もひどいですが、味をしめて放そうとしない蜂はもっとしたたかです。それを見て「うわっ! こりゃ教えられたな。僕もこのくらいになろう」と思いました。(笑い)

カエルというカエル、鳥という鳥、私が捕まえてみなかったものはありません。初めて見る鳥がいると、もう捕まえなければじっとしていられません。知るまでは夜も寝ていられません。あるときなどは、渡り鳥が来て、さっと山の中に消えて…。そのときも鳥の巣という巣は…。それはまったく面白いのです。二羽の鳥がつがいになって、小枝をくわえてはせっせと巣を作って…。(お笑いになる)

それから、その鳥たちが水を飲む所があります。水を飲む所があるのです。そこで、どこで水を飲むのかを調べて、そこに枝を一つ置いておきさえすれば確実に、百発百中で捕まえることができます。(お笑いになる)鳥は地面に下りるのよりも、石の上に下りるのよりも、専門は何かというと、木に留まることです。その習性を利用して、水の上に枝を一つ渡しておけば間違いなく留まるのです。だから確実に仕留めます。馬の毛でしっかり一つ作っておいて、三回だけ行ったり来たりすれば、しっかりと首が引っかかるのです。(笑い)ああ、こいつ、これを見ればですね、これは皆全部…。

私がこんなことをなぜ言うかというと、皆さんが青春時代にすることは全部して、育てるものは全部育て、遊ぶものは全部遊んで、面白いものは全部見て、そのようにしてはだめだというのです。だめなのです。そんな遊びをしていると落ちやすく、行くことができないのが常だというのですね。分かりますか? (五一\二七〇、一三六\一三二、一八六\三〇三)

4 自然に対する新しい姿勢

先生は幼いとき、美しい鳥を見ればその鳥に対して深い関心をもちました。その鳥が何を食べて生きるのか、どこに巣を作ってひなをかえすのか? このようなことを何日かかっても、まんべんなく探して、必ず知りつくさずには終わりませんでした。また、草も数百種類を採集してどんなものが毒草でどんなものが薬草であるか、またその構造はどのようになっているか、ということを知ってみるために熱心に研究しました。

先生は自然を見る度に、神様がこのすべてのものをどのように作られたのかと深く考えてみました。どんぐりの木やいろいろな草の葉を見ながら、どのように作られたのだろうかと考え続けていると、このすべてのものが限りなく神秘的でした。

皆さんは石ころ一つでも創り出すことができますか?

先生は、蛇も数えきれないほどたくさん捕まえてみました。

私たちは何でも物事に対してたくさん関心を持たなければなりません。そしてそれに対する内容を知って初めてそれを支配することができるというのです。私たちが、自然がもつその自然の価値だけを知っても言葉にできないほどの福を受けるのです。そのようにしてみると結局、自然が私を中心として創られたという事実が分かるようになります。しかし人々はそのような事実を知りません。自然を見る術を知らないのです。

自然は本当に神秘的です。私たちがこのようなことを知れば、風の音も素晴らしい音楽に聞こえるでしょう。そして私たちの信仰生活にも大きな助けになります。

私たちの体といちばん近いのが自然です。ですから私たちは、嘆息する自然の願いをかなえてあげなければなりません。

山を愛せる人であればこそ高いところをあがめることができます。そんな意味において孔子、釈迦、イエス様はすべて山を愛した方たちでした。

先生は名勝地に行けば、それが天の運勢を中心としてどのくらいの価値があるかという立場で眺めてみます。そして、それを天の運勢と連結するようにします。だから統一教会の草創期には、山にたくさん登ったのです。

一つの国の山と地を見れば、その国の民族性を知ることができます。韓国の水はどこに行って飲んでも玉水(清らかな水)です。

私たちは、自然に対する復帰をまずなしておかなければなりません。私たちは、外国に出る前に私たちの自然を深く愛してやらなければなりません。

自分が生まれた地を愛することを知っている人は、自分の体を愛することも知っています。また自分の体を愛することを知っている人は、自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人は、神様を愛する人です。ですからこのような人は滅びません。また、このような人は天も打つことができません。私たちはナイアガラの滝よりも、自分が生まれたこの地をもっと愛さなければなりません。自然が神様の摂理路程においてどんなに多くの人々を慰労したか、という事実を私たちは知らなければなりません。(一四\一〇一)