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三 信仰生活

1 信仰生活の定義

皆さんは、皆さん自身を個体的な自分としてだけ見てしまいがちですが、皆さんの中には創造の全体理念が入っているのです。ですから皆さんは、まず世界的な「生」の価値を実現しなければなりません。そうした後で、個人的な「生」の価値が成り立つのです。このような「生」の価値を見いだすために生活していくのがまさに信仰生活というものです。(二・九)

永遠な生命の世界を追求するのが信仰生活です。永遠な神様の愛を追求するのが信仰なのです。永遠な生命と永遠な愛とを一致させるために、神様の喜びと自分の喜びが合わさり、しかも二つの喜びではなく一つの喜びとして感じることができる最終点を見いだすのが信仰の道です。そのため、信仰生活をする私たちの個体がどれほど前進的な愛と生命力を持てるかが、何よりも重要な問題とならざるをえないのです。(三二・一九)

信仰生活とは、総合的な生活です。(三一・二二六)

2 信仰生活の第一条

宗教は、神様と人間との関係を結んでくれるものです。その関係を何でもって結ぶのでしょう? 愛で結ぶのです。その愛は、どんな因縁で結ぶのでしょうか? 主人と僕の因縁でもなく、国と国民の因縁で結ぶのでもありません。一体どんな因縁なのでしょう? 神様を自分の父とする父子の因縁で結ぶ因縁なのです。「神様は私の父である。神様はどうしても私を愛さずにはいられない」と言える信仰は素晴らしい信仰です。「自分の首が切られても愛さずにいられない」と言える信仰です。(三二・二四九)

「信仰者は絶対的に神様を信じよ! 絶対的に神様の前に帰依せよ! 神様を中心として完全に立て!」というのが信仰の第一条です。どんな宗教であれ、これが信仰者たちに第一条となっていることを知らなければなりません。その次、二番目は何でしょうか? 「原理、神様の立てた法と一つになれ、法と完全に一つになれ」ということです。(八七・一二三)

善とは何ですか? 最高の善とは何ですか? 最高の基準に対する中心性を認め、その責任を果たすことが最高の善なのです。宇宙の最高峰はだれでしょうか? 神様です。それで神様のためにすべてを捧げなさいというのです。それが信仰の第一条です。神様の勝利とは、全宇宙が含まれます。ですから、皆さんは神様のためなら盲目的であってもよいから、ありったけの力を出して苦労しなさいというのです。ある時が来れば皆解決されます。その期間に、皆さん自身を犠牲にしなければなりません。(一五・一一六)

今日、信仰者たちはどのように生きていかなければならないのでしょうか? 変わってしまう理念の条件を持ちながら生活するのではありません。変わらない不変の理念を回復するわけですが、その理念は別々に離れたものではなく、自分の生活圏内において全体が一つの理念で連結されているとうい事実を知った上で、自ら神様と関係した生活をしていかなければなりません。(三・五二)

3 信仰の出発点

統一教会は青少年時代に当たります。人類が神様の前にいつも青少年時代を中心として対した時があったでしょうか? アダム・エバは青少年時代に堕落しませんでしたか? 堕落したアダム・エバを導いてくるにおいて、サタンが誇る青年時代、サタンが誇る壮年時代、サタンが誇る老年時代としては経てきましたが、神様を中心として青年時代、壮年時代、老年時代はありましたか? 神様の側に立って愛を受けられる青少年時代、青年時代、壮年時代、老年時代を経て天国に行くのが本来の理想的な、堕落していない人間の行く道であるにもかかわらず、今日この地上にそのような道を行く人がいません。

ですから、信仰の道というものは年寄りたちが行く道ではないのです。分かりましたか? 理想的な信仰というものは、非常に活発な青少年から始まるものなのです。人間のいちばん貴い時代は青少年時代です。花が咲くときであり、香りを放つときです。そういう貴い青少年たちが愛と情熱に燃え上がり、天の国の理念を中心とする建国の勇士として登場するそういった群れが出てくるとき、そこには新しい希望の世界が展開されると見るのです。

このような青少年たちが心からの愛を受けて青年になり、愛されたその青年たちが大きくなって壮年になり、愛されたその壮年たちが年とって老人になっていくのです。(六〇・七三)

信仰者の出発点とは、外的な世界ではなく、自分自身の良心なのです。そのために、自分の良心を中心にそれ以上の問題を論ずるために信仰が必要なのであって、それ以下の問題を論ずるために信仰が必要なのではありません。(二七・一〇〇)

4 信仰生活の方法

宗教を持って信仰生活をする人は、真の道を行かなければなりません。天の真なる道を求めて行かなければなりません。人間の血筋の中に流れるサタンの血を解き砕くことができず、占領することもできずにいるために、宗教は真理を中心に「闘え、押せ、打て!」と命令するのです。これを正面から闘い挑むことが宗教なのです。(一八・一五一)

向こうの山頂にある石と山のふもとにある石は同じ種類であっても、一つはてっぺんに、一つはどん底にあるとうい違いがあります。山頂にある石は、下へと転がりさえすれば下りてくる可能性がありますが、山のふもとにある石は山頂に上がることはできないのです。人間はちょうどそういった立場に位置しているのです。上がって行くことはできません。だれかが引っ張り上げてくれるまでは、堕落した人間は上がって行くことができないのです。

ですから何といいますか、ケーブル・カー式に橋を渡し、乗せて引っ張り上げようと、神様が全部装置をつくり「スイッチ・オン」とやればガタガタ動き出す、そういう道が宗教なのです。そのため、信仰生活は苦労です、苦労。「つかんでいなさい。手を放したら落ちて死ぬ! 命がない!」と言うのです。「私は力がないからお父さん・お母さん助けて」と言っても手伝うことはできません。ねばり強く、普通のねばり強さの何千倍もねばり強く、この手に一度握ったら「手の筋よ、固まれ!」とこのようにしなければなりません。そうしているうちに手が折れても、手は不平を言うことができません。すべてそのくらい努力しなければならないのです。(一三〇・三六)

私たちの信仰生活においての一つの結論は、信仰生活は深刻かつ真剣にしなければならない、ということです。(二四・二二九)

今現在、私たちが生命を維持させるためには、継続的に呼吸をしなければなりません。また、そこに相応する栄養を補給しなければなりません。このように、供給された栄養素が私たちの体の循環器を通して互いに授け受けしたときに、昨日と差があるとすれば体のコンディションは悪化してしまうのです。しかし、正常な身体リズムと歩調を合わせ、昨日より少しでも栄養を補給してやれば、私たちの体は自然と健康になるのです。そこから新しい前進の基が広がっていくことを私たちは知るようになるのです。

これと同じように、皆さんが信仰生活をするにおいても、必ず栄養剤のようなものが必要なのです。また、正常に呼吸をするのと同じ生活態度が必要なのです。つまり、「私はこのように進まなければならない」という独自的な信仰基準を中心として、呼吸するように信仰路程を行かなければならないのです。ですから呼吸するのと同じように生命力を補給できる正常な基準がなくてはならないのです。そうすれば、そこに相応して栄養を補給できるのです。そうなれば、栄養剤をどうやって補給するか、正常な信仰基準の前に正常な栄養剤を補給できる補給路をどのようにするか、という問題が後にも前にも前後左右、四方において起こってくるのです。きのうよりきょう、この時間より次にの時間にどのようにすればよりよいより価値ある栄養を補給できるかということが問題なのです。

皆さん、信仰生活で喜びというものは必ず前進し、発展するところでのみ感じられるものです。ですから、どうすればそのような内容補強できるかということをいつも考えなければなりません。(四二・六四)

今日皆さんは、皆さん個人のある欲望を満たすために努力するのではなく、より大きな目的のために犠牲になり奉仕する信仰生活をしなければなりません。(三・一三一)

5 体恤的信仰が必要

私たちは、神様は愛であると信じています。数多くのみ言も、神様は愛だと教えています。では、皆さんはそのみ言を通して神様の愛の心情に応えた信仰生活を、どれだけしてきましたか? 天の心情を抱き、恨み多き歴史を見つめ、恨み多きみ旨を憂い、恨み多き神様の心情を察しようとしたことがありますか? 愛の心情を立てて人類を呼ぶ天の父の心の中には、私たちに喜びを知らせ楽しませてくださる心よりも、私たちを探してくださる悲しみと苦痛がもっと多いのだとういことを体恤したことがありますか? このような心を体恤しなければなりません。(六・二五一)

私たち統一食口たちは復帰原理を学んで知っているように、私たち自体が神様の心情に応える体恤する信仰をしなければなりません。そういう立場からエデンの園のアダム・エバが堕落した姿を見つめて、恨多き神様の代わりに無限の恨の心情をもって泣ける者にならなければなりません。

そして、その次に神様が、カインがアベルを殺すのをご覧になったとき、無限に恨を持たれるようになった心情を、私たちは体恤しなければなりません。その後千六百年が過ぎたイエスの時まで、時代ごとに天的な使命を受け持った責任者として送られた数多くの先祖たちが、悲しみと恨みに溺れて闘い挑んだ歴史を、神様がご覧になり悲しまれた心情を実感しなければならないのです。

また、四千年が過ぎ去り、六千年の歴史を経ながら摂理してこられた神様の代表的摂理の担当者が、悲しまずにいられなかったその心情を体恤しなければなりません。今日地上に生きている人は全員、彼らに代わって悲しまなければなりません。(六・二五一)