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「ああ、あの人は私の友達の中で、あるタイプの人のようだ。あの人は、私が知っている一〇〇人の中で、あるタイプの人だなあ」ということを比較研究すべきです。それで、三、四人の人を選んで、テストをしてみるのです。温柔な人か? 傲慢な人か? 強烈な人か? その次は何と言うか、ぐずぐずとした人か?(五四\一七七)
私たちが「あの友達はいい友達だ」という言葉を例に挙げたとしても、いい友達というものは、自分がその友達をいい友達だと言うとき、その友達も自分をいい友達と言うことができてこそ、いい友達なのです。そうではなく「ああ、あいつは困る」と言う立場では、いい友達にはなりえないのです。それゆえ、いい友達を探すためには、必ず一つの峠を越えなければなりません。開拓しなければなりません。開拓するにはどのようにすべきか? 汗を流すべきでしょう? 苦労すべきでしょう? 開拓するには、必ずそこに比例する苦労の代価を支払わなければなりません。ですから、汗が出るのであり、涙が出るのです。(三三\三一七)
皆さんは、悪い人と言うとき、どのような人を悪い人と言いますか? 自分だけを中心にして、心配して考える人を悪い人だと言うのです。そのような人は、社会では悪い人と烙印が押されるのであり、家庭では悪い子になるのであり、友達の間では悪い奴になるのです。このようなことを考えるとき、人は自分を主張しながら生きるようになっているのではないということが分かります。より価値のあるものとは、自分を中心にしたものではないのです。
友達が百人、千人いるといっても、誇るのではありません。いくら友達がたくさんいるとしても、皆さんが自分の主張ばかりしていては、みんな離れていってしまうのです。離れていくなと、いくら祭りを行なっても無駄なのです。「このやろう、おまえはこれをしろ」このような目に三回だけ遭えば、逃げて行くでしょう。そのようにするのが、すなわち自滅となる動機です。(三六\一八一)
皆さんが友達とつきあおうとするときには、発展できる友達か、そうでなければ希望のない友達かということが問題になります。希望のない友達と関係を結ぶべば結ぶほど、自分にだんだん無価値な結果が現れるしかありません。それゆえ、よりましな友達と関係を結び、よりましな明日のために準備し、努力すべきなのです。(三二\一四)
信仰生活において、ある問題に対したり、あるいは、ある事件に遭ったとき、これが自分に歓迎する立場で現れるか、そうでなければ恐れとして現れるか、という問題を皆さんは、いつも心の善や、あるいは心の基準を中心として、比較検討しなければならないのです。
もし、ある友達がやって来て、信仰の道において問題となることを中心として言うようになれば、彼の言葉を初めて聞く場では、その言葉に自分の本心が和動し、自分の本心が平穏に和合するかということをいつも分析して批判すべきです。(四〇\六八)
私たちの一生の問題を考えてみるとき、皆さんが今まで生きてきたのもそうですが、これから生きていくのにもそうなのです。一言の言葉が一生を左右することがいくらでもある、ということを皆さんは知るべきです。自分が一言言わなければ、不幸な事件に遭わなかったのに、一言によって一生をだめにすることがいくらでもあるのです。それと同様に、聞くこともそうです。一言、一度過って聞くことによって、一生がだめになるのです。また、行動においてもそうです。一度行くのを、過って行けば、やはり一生はだめになるのです。また、みなさんが友達とつきあうのにおいても、友達一人に過ってつきあうことによって、一生をだめにすることもあるのです。
そのようなことが一生に一度や二度でないために、昔から、考える人たちは、言うことに注意し、聞くことに注意し、行動に注意し、友達に注意しろと教えてきたのです。これは古今東西を問わず、同じ公式で通じるものである、ということを皆さんは知るべきです。
人を見るなら、自分が不利で、自分が困難なときには、他人を考えにくいのです。これは公式です。共通です。それを認めますか?(はい)。そのとき、自分の困難から免れるためには、友達を利用することもあり、環境を利用することもあり、違うことを言うこともあり、違う行動をとることもあるのです。そのような環境が待っているということは事実です。
このように考えるとき、人間の世の中では、だれを信じるか? 自分がだれかに頼って、すべての正しい道を行くのが難しい場合は、いくらでもあるのです。いい友達だと自分が信じたのにもかかわらず、後で彼が自分を踏みにじり、利用する場合が多いのです。そうなりうるようになっているのです。それゆえ、そのような観点から見るときに、だれを友達とするのか? だれとともによい契機を持つのか? このような問題は、世の中で大きな問題です。(九一\二九)
皆さんが友達とつきあうとき、ただ今日会うそれだけで終わる友達は、いいかげんな友達です。それ以上希望のない友達です。いくら難しい道を行き、受難の道を行っても、今日会うときより次に会うとき、何だか分からずに刺激を受け、何だか分からずに衝撃を受け、何だか分からずによい決心をさせる内容を持った友達がいるならば、いくら難しく寂しい立場を経ていっても、その友達について行こうとするのです。(四二\一九四)