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四 自然に対する姿勢

朝、目を開いて自然を見渡すと、その自然がしみじみと自分の本姓と因縁をもって新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし、人の世は見れば見るほど絶望と悲しみの思いがつのることを皆さんはよく知っているでしょう。本来、堕落していない本然の人間たちの住む世の中であれば、人間の価値は見る者に悲しみを感じさせるような程度の低いものではありません。人間は、一本の草、一輪の花、一本の木と同じ程度の価値でつくられたのではないのです。被造万物のいかなるものをもっても換えられない高貴な人間であり、どんなものとも比較することのできない価値を持った姿で、天の代身を務めるべき人間だったのです。(九\九七)

もう、私たちは気づかなくてはなりません。神様の愛が宿る自然を見渡し、「世の中の王や有名な人物が持っている素晴らしい品物と比較になるものか。骨董品なんかと比較になるものか。どこかの有名な婦人が着ている豪華な衣装と比較になるものか」という心を持たなくてはなりません。それができないなら、私たちは自然世界に対して知らず知らずのうちに罪を犯しているのです。

一つの生命体を見るときに、「人間の作った何と比較になろうか。いくら素晴らしい人がいようと、神様より素晴らしいはずがあろうか」と、神様が心情を注いでおつくりになった万物を抱きしめて、何よりも貴く感じる者がいたとすれば、その人は間違いなく天の子女でしょう。このような人は、祈祷が必要ありません。神様とともに生きる人です。天は人間をそのような立場に押し出すのです。

皆さん、考えてみてください。人間は自分が愛する人の者は何でも愛し、かわいがります。違いますか? それでいて、いちばん愛すべき神様のお創りになった万物は、かわいがることを知りません。こんな人間たちが神様の息子や娘になれますか?

嘆息する万物の恨みを解いてやる責任を負った皆さんは、一本の木、一本の草からも六千年前、それらをおつくりになるときの神様の心情と創造のみ業を体恤しなければなりません。そういう心を持たなければなりません。

ですから統一教会の食口たちは、道を歩いていて野の草一本見ても涙するようでなければなりません。木を抱きしめて泣くことができなければなりません。「主人を失ってどんなに寂しかったか」と。一度そうしてごらんなさい。私はたくさんの涙を味わいました。岩を抱きしめて泣いたこともあれば、風が吹くのを見て泣いたこともあります。なぜ泣いたのか、もう話を聞きましたから分かるでしょう。

「神様がおつくりになった価値ある万物が、神様と永遠の因縁で結ばれた貴い万物が、今日どこかの宮殿で国宝だの宝物だのといわれ大切にされる品物ほどの扱いも受けられずにいる悲しさを、私は分かってあげなくてはいけない」という心を皆さんが持つなら、この民族はこれから世界人類を支配できる新しい民族になるでしょう。これは観念ではなく事実です。

果たしてだれが万物に対し、先祖代々伝わる家宝より、この世で最も貴い宝石といわれるダイヤモンドより貴く思い、つかんで放すまいとするでしょうか。そういう人がどこにいますか? 神様は、ご自身のおつくりになった万物を心から思いやり、それを抱きしめて涙する者を見て「よしよし」と言われるのです。どう思われるか考えてごらんなさい。(九\一七五)

自然とは何でしょうか。神様が私たちのために、為に生きる愛を持った息子や娘が生まれるとき、その愛を与える万物として、贈り物として与えた展示品です。鳥の鳴き声ひとつ、草一本といえども、愛する子供たちの生活を美化するためにつくられた作品だということです。道端に転がっている石も、子供たちが国を治める主人となることを思い、その国の装飾品としてつくったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、調和をきわめた和合の園をつくり、愛のために生きる世界を見てそれを相続できる夢の王子、希望の王子を育てるために創造したのです。

ですから万物を通して学ぶわけです。雄・雌がチッチッとさえずるときは、(万物の)主人であるおばさんも学ばなくてはなりません。互いのために生きる世界に向かって、自分の一生、自分の命を懸けて生きる本然の被造世界の美しさを賛美できるようでなければなりません。そうなれば、その家の垣根に小鳥たちが来て住もうとするのです。巣を作ってひなを育てようとするのです。分かりますか?

博物館にある何かの作品がいくら貴重だといっても、生きている作品に勝るものがありますか? 神様の作品である地球万物博物館を、だれが神様以上に愛したかというのです。自分の国の博物館以上に愛したかというのです。道端で踏みつけられてよれよれになったタンポポであれ、神様が直接おつくりになったものを博物館にある新羅時代の金冠と比べることができますか? 祖国の地をそのように考えるのです。

そのような神様の心情を持って「お前を神様が主管できるように、本然の王の立場で、愛を受けていたその立場で愛することのできない自分が恥ずかしい。すまない」という心を持ち、立派な姿勢で万物を愛する王がいるならば、野の草もその王について行って、永遠にそばにいたいと思うものなのです。そのように生きなくてはならない人間なのです。(一七五\一八七)