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三 草創期食口たちの姿

1 伝道地で慕わしい食口に出会った事情

 私たちは、食口を食口として慕うことを知る新しい春を迎えなければなりません。昔は伝道に出かけて自分が孤独でいるので、一人の寂しい食口を尋ねるために互いに五里の道を行き、途中で出会った事情も残っているではありませんか? その時は個人を選別していく時でしたが、今は国に向かって選別していかなければならない時なのです。こういう時においてそうしたい心があるなら、周辺にいる食口たちを、一度でなく十回でも尋ねていきたくてもがくことのできる心があってこそ、統一教会を中心にして正常な統一教会の食口の名前をもてるのです。

 一つの面なら面を中心にしてそうしなければならないし、一つの道なら道を中心にしてそうしなければなりません。さらに自分の道だけ良くても駄目なのです。道全体が良くなるためには、全体の道の前に手本となり得ることをしなければなりません。その手本となるにあたっては、自分を中心としてなるのではないのです。家庭のみ旨と父母のみ心に従って手本とならなければならないのです。そうする所から、行けば行くほど輝くことができる孝子となるのです。(六〇―二九)

 ここで教会員同士出会えば互いにうれしく、もっぱらここの責任者を中心にして互いが出会って夜を明かしながら……。昔はそうしたでしょう? 青坡洞本部でも、昔は二時、三時、四時まで眠らないのが普通でした。そのように訓練をしたのです。そうして先生がどこかに行くと、会いたくておばさんも泣き、老人も泣き、おばあさんも泣き、おじさんも泣き、娘も泣き、青年も泣いたのです。会いたくてです。太陽を見上げるようにです。太陽というのは松の芽も、白菜の芽も、大根の芽も、野いばらの花も、すべての花が見上げるのです。見上げるのは同じことなのです。

 そういう運動が起こらなければなりません。このごろは教会員同士何だかんだと争い、既成教会と争い、謀略や中傷もしていますが、それではいけません。互いが会えばあげたくて、互いがためにしたくて、そうしなければなりません。どこが、そうなりましたか? (一二六―一九六)

 私たちは何のために兄弟を捨てましたか? なぜ兄弟を捨てましたか? それよりもっと近くなれる兄弟の因縁が神様を中心にして私たちを尋ねてきたので、高次的な内容と高次的な価値基準が神様を中心として私たちを尋ねてきたので、私たちは今までのものを捨てて出会ったのです。より価値あるものを迎えるために出会ったので、ここから肉身の兄弟の情よりももっと強くならなければならないのではありませんか?

 昔はそうだったのです。任地に出て伝道する時に、互いが甲・乙地域に離れていれば、出会って別れる時、会いたくて互いが送ってあげるためにあっちのほうまで行って、また送ってあげるために来て、行ったり来たりしながら夜を明かすこともありました。兄弟同士もそうなのです。弟が行く難しい道を心配しながら、食べる物があればそれを食べず、包んで五里の道を遠しとせず走り続けて持っていってあげたりしました。

 ところが今統一教会の教会員同士はそうですか、そうではありませんか? 兄弟の情以上の情が皆さんの間で結ばれなくては天国へ行くことはできません。兄弟ではない兄弟たちが、兄弟の情以上の情を結び、父母ではない父母に父母以上に侍らなければなりません。それが統一教会員です。統一教会では真の父母、真の兄弟のことを話すでしょう? 私たちは真の父母、真の夫婦、真の兄弟を中心にして、真なる家庭を願ってきたので、兄弟ではない人々が集まり、兄弟の情以上の情を結ばなければならないし、父母でない父母に父母以上に侍らなければならないのです。それが、因縁を結んだ統一食口が行くべき道です。

 世間を見なさい。今まで血族を中心として織り成してきた因縁について見るとき、父母が子供のために犠牲になる場合がどれほど多かったですか? 同じように、「統一教会の文先生である私が、そういう使命を果たせる道を歩いてきたか?」と自問自答してみます。そうできなかったら後退せよというのです。(四九―二二九)

2 数十里の道を歩いて集会に参席した食口たち

 大韓民国各地を隅々回って五日ぶりに帰ってきました。太田を経て、全州を経て、光州を経て、馬山を通って大邱を経て三陟に、その次に堤川を経て春川を通って帰ってきました。

 今回、巡回しながら感じたことは、今は私たちが闘わなければならない時だということです。地方にいる青年男女たちが深く決意しているのを見て、今回の期間の闘いは、勝利の成果をもたらすだろうと思います。ところが今回胸痛く思われたのは、私たちの食口たちが、先生が行くという場所に数十里の道を歩いてくるということでした。世間の人々はお金があり車に乗って通えるのに、ここに来るのが嫌で来ないが、統一教会の青年は数十里の道を歩いてきます。光州へ行くと、あの木浦から、あるいは二、三日夜昼分かたず歩いてきたというのです。こういうことを見るとき、私たちの教会が目標とし、立てようとするみ旨が成されるという思いがしました。

 神様が願われる一時と一つのみ旨のために、自分の一身の困難にもかまわず飛び込んでどんな苦難をも退けて動く彼らは、社会的な経験がある人々ではありません。また、彼らは個人的な事情にとらわれている人ではないし、個人的などんな意識や知識をもっている人々でもありません。二十歳前後の幼い人が、自分でも知らずにみ旨のために生命をささげる覚悟をしていで立つ姿を見るとき、どれほど殊勝に見えたか分かりません。そういう食口が実に多いのです。

 大体において、彼らはここ本部にいる青年たちより、もっと気迫があります。本部を中心とした、ソウルと京畿道一円の食口たち、現在ここに参席した皆さんと彼らを比較してみる時、神様に向かう切なる心とみ旨に従わんとする忠誠心において、皆さん方がついていけない気迫が彼らにあります。もし、皆さんが責任を果たすことができなければ、彼らが皆さんを踏み越え、その責任を果たすだろうと感じました。(一一―一七九)

3 切符もなくて、こっそり汽車に乗った事情

 皆さんは、良い経験があれば、それについて必ず日記にでも一章記録しておきたい心をもたなければなりません。その記録は、皆さんの歴史に長く残るものです。自分の一生の信仰路程において、言葉でいえない価値ある記録になるのです。そうできないことが恨みになるのです。

 皆さんは、昔地方からソウルに上ってくるために、切符もなくて、こっそり汽車に乗ったことがあるでしょう? 一番隅っこに座り、車掌が現れるかも、と冷や冷やしたでしょう? 車掌が現れたというと、ねずみのようにどこでもこっそり入り込んで体を隠していて、車掌が通り過ぎた時になって初めて安のため息をついたでしょう? それでもそのころが良かったことを感じるのです。その時の気分は、他の世界で感じようにも感じられないものです。

 統一教会を信じつつ従ってきてみると、そういうこともあるようになったというのです。事実、お金を出して切符を購入できないことが誤りなのです。代わりに、この次にこの国のためにより大きな助けを与えなければならないのです。内的にそれ以上のものを与えなければなりません。自分個人としては、法の処罰を受けなければならないのです。しかし、法の処罰を受けても、公的基準で仕事をする時、天国ではいかなる条件にも引っかからないのです。ですから苦労はしたが、その時が良かったというのです。(三〇―一五二)

4 赤ん坊をおぶってでも白雲台に登った食口

 私たちが行く道は死から出発したので、死をかけて、死を覚悟して歩まなければなりません。行こう! 人は誰も疲れるのは同じであり、困難なのも同じです。行こう! 私たちは思想基準が違うのです。荒々しい風が吹いてきて、死亡の波濤が流れてくる位置へも行こう。天気が悪く、風が吹いてくる位置へも行こう。過去、白雲台に登山する時と今を比較してみよう。過去には、赤ん坊をおぶってでも白雲台に登山した人が四名もいました。今は何人になるでしょうか? (一二―一三)

5 み言の前に涙の海を成した食口たち

 皆さんが統一教会へ入り、初めてみ言を聞けば涙の海を成します。さらには御飯を食べることも忘れます。自分の家へ行くのは死ぬほど嫌で、教会に来るのは本当に気分がいいというのです。皆さんもそういうことを感じてみましたか? すべてのことは、蒔いたとおりに刈り入れるのです。豆を植えれば豆を刈り入れ、小豆を植えれば小豆を刈り入れるのです。(三五―六七)

6 死んでもついていくと誓った食口のつまずき

 今まで統一教会を信じても、落ちていった人々がたくさんいます。先生の前に、人間万物相(注:金剛山にある奇岩怪石)が集まったといえるほどいろいろな種類の人々がいました。私の脳裏から忘れられない人々もたくさんいます。時々、あの平壌時代から今までをずっと振り返ると、過去に対した人々のいろいろな型が、きょうここにもあるということが分かります。数多くの人間像が通り過ぎたというのです。過去に先生に従って落ちてしまった人々の中には、現在の皆さんが決意し、駆け回るより何十倍も強い決意をした人もたくさんいました。

 では、きょう皆さんが、「先生に死んでも従います」と言う時、先生は皆さんを何パーセント信じるべきでしょうか? 一〇〇パーセント信じるべきですか、五〇パーセントだけ信じるべきですか? (一〇〇パーセント信じるべきです)。それが苦痛だというのです。一〇〇パーセント信じてあげて皆さんが背を向けたら、一〇〇パーセント分、十字架を私が負わなければならないからです。神様をそれだけしか紹介できなかったということになるので、紹介した人が恥をかくことになるのです。世間でもそうではありませんか? ですから何パーセント信じるべきかについて多くの苦しみがあります。

 過去に先生に従ったいろいろな人の中には、こういう人もいました。

 白頭山の天池までも先生に侍って登り、そこにある磐石を耕して畑をつくり、じゃがいもを植え、千年の恨みを抱いても先生に侍り、世間がすべて変わっても自分は変わらないと言った人がいました。何のことか分かりますか? 岩を耕してそこにじゃがいもを植え、千年の恨みを抱いて生きるそういう恨みがあっても、天のみ旨のために先生に侍って生きんと誓った人がいたというのです。しかし、風が吹きつけてくると、二年もしないでやめ、自分だけ生きると、先生を捨てて逃げてしまいました。

 皆さん、ペテロについての話をたくさん聞いたでしょう? 「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ二六・三三)と誓いましたが、鶏が鳴く前に三回裏切ったペテロでした。(二六―一四〇)

7 絶対服従の手本を見せたアメリカ食口

 今、韓国の統一教会員たちが麦飯を食べれば、アメリカの統一教会の人々も麦飯を食べるといいます。寝るのにも寝台が何ですか? 韓国人たちが床の上に寝るといえば、寝台を捨ててコンクリートの上でぐうぐう寝るというのです。おもしろかったのは、アメリカの四十九州を私が全部回ってみましたが、アメリカにいる若い連中がそうするというのです。カリフォルニア大学院を出た者がいますが、十一カ国の言葉をとても上手に話すのです。私がその男に、「運転せよ」と命令しました。そしてその次には教会の重鎮たちにも「運転せよ」と言ってお使いを命じ、死ぬほど苦労させました。そして、「私の宿所は一等ホテルを取るように」と言いました。「良いホテルを取るように。私がお前たちのためにアメリカへ来たのだから、お前たちはそうしなさい」と言いました。それで行く先々で一等ホテルを取っておいたのです。

 そうしながら、従っていた人々に「お前たちは床の上に寝なさい」と言いました。何日くらいもつか見てみようと思って……。このように先生も意地悪なことをよくやります。どこへ行っても必ずそのようにさせてみます。そうしておいて、終わりのころになって、できれば「お前たちも良いホテルを一緒に取りなさい」と言います。ところが、のちには一緒に取るようにといっても取らないのです。なぜそうするのかと問うと、前は、寝て目をパッチリあけると先生が見上げられたのに、そうなると先生を見下ろすことになるからというのです。その連中は背が高いですからね。(笑い) 見下ろすことになるから駄目だというのです。やあ、この連中、もういいな……。(笑い)

 これを見る時、「やあ、思想とはこのように恐ろしいものだなあ。自分にお金がないと嘆くな。世間が難しいと嘆くな」。異国の地で私を見なくてもこういう群れができたということを思う時、神様がどれほど苦労なさったかということを感じました。(四八―一一七)

8 「金日成」と言えば浮かんでくる四十代のある食口

 私が今も記憶していることがあります。ある既成祝福を受けた家庭ですが、年がおそらく四十歳を越えた人です。静かな明け方に門をたたきます。それで門を開けてあげたところ入ってきました。なぜ来たのかと尋ねると、話すことがあるというのです。何のことかというと、深刻な話だというのです。話してみなさいというと、「私が金日成の首を取ってくるから送り出してください」と言うのです。(笑い) どうするのかというと、どうするのかはその時にならないと分かりませんが、とにかく送ってほしいというのです。それでいいというのです。

 どうするかというのは、その時になってみて分かることではないかというのです。まず行くのが問題であって、どうするというのはその時になってみて分かるというのです。それで私が「よしいいだろう、お前」と言いました。今も時々思い出します。私が今も北を思い、金日成を思う時は、その人の顔がふっと浮かび上がります。前に私がその人に、「今も行きたいか?」と言うと、「はい」と答えるのでした。(笑い) それでいいのです。本当にそうできる時になれば、「お前、一回してみろ」と、第一号特命、密命を下せるのです。その時まで死なないで待ってみなさいというのです。それで「金日成」と言うとその顔がぱっと浮かびます。

 もし統一教会の教会員の中で、「先生、私が神様と一本勝負をするか、神様がそれを信じてはいけないと言いつつ逃げるくらいに信じたいので、神様を少し紹介してください」と言える人がいれば、先生の心の中には、「神様」と言えばその人の顔が浮かぶのです。思い出さずにいられないのです。神様が驚いて逃げていくほど信じるという人が出れば、「神様」と言う時にはその人がいつも問題になるのです。

「信じられないことが何なのか? 一号は何で、二号は何で、三号は何で……」このようにずっと考えてみなさいというのです。なぜそうなのですか? サタン世界を料理しようとするならば、サタン世界で信じられることをもってしては駄目です。サタン世界で信じられないことをもってして料理しなければならないのです。ひっくり返すにはどうすべきですか? 下からひっくり返さないといけないですか、上からひっくり返さないといけないですか? 上からひっくり返すのは、返せるとしても価値がないというのです。(四四―三四四)

9 清平開拓時の誇らしい食口

 統一教会の文先生自身も、食口たちが見て恥ずかしくないのか? 前にもそうです。聖日に、朝から昼、夕方まで約十三時間話をして清平へ行ったのです。雨がどしゃ降りなのに、食口たちが地を掘っていました。ぴしっと決めた日付に自分の責任を遂行しなければならないので、せざるを得ないというのです。行くや否やあまりに疲れて、座って布団を広げて寝られないので、足を開いて天幕の中にある布団にもたれ、口を開けていびきをかいて寝ました。そうしていて、いびきの音に目を覚ましました。目を覚まして外をのぞくと、雨が鉄砲水のように降るのに、食口たちがつるはしを持って地面を掘り、リヤカーを引いていくのです。それを見て私は涙を流したのです。

 この場にもし神様がおいでになったら、どうなるでしょうか? 文先生が生涯をかけてきたその路程において、最後の通牒を下した神様が来られたらどうするでしょうか? そういう心が統一教会の文先生にあるので、その人々が疲れても、先生を見て、できれば寝ることを願ってそうするというのです。先生が寝ると言って、「統一教会の文先生は寝ていて、我々は働き……」こういう心があればおしまいなのです。

 このごろ何かの令状がたくさん出るそうですね? 甲号訓練(注:一番困難な訓練)だ何だといって、こういう時行こうという人は多いのですが、来ようという人がどのくらいいるのですか? 終わると来る人は誰ですか? 来る人がなければ、真実な心をもって働く人ではありません。

 きのう、麗水が故郷のある青年に、二十三年ぶりにお父さんから電報が来たのですが、仕事をしていてその電報をさっと受け取りながら、「サタンが現れたな」という言葉を聞いて、「そう、サタンが現れたならお前はどうやって行動し、サタンをどうやって処理するのか?」と考え、初めて行くのでお金を一銭もあげないわけにはいかないので、二千ウォンをあげながら行ってこいと送りました。「こいつ、サタンが現れたと言ったくせに、どこかへ行って消息があるかないか見てやろう」と思ったのですが、この男がきのう来ました。「やあ、この男。お前は条件ができた。私が願う標準の前に、神様の前に、この建物を全部建てておいて、誇ることができる条件がそろった。この男よく来た」と思いました。

 皆が苦しいと行くことを願っているのに、また帰ってきたその人は本当に統一教会の人なのです。そのように行って帰ってきた人々は、今後仕事をする人の中で、行って戻ってこなかった人より、残って苦労した人よりもっと輝ける内容をもてるというのです。なぜそうなのでしょうか? まだみな試験をしてみることができなかったのです。皆さんは命令を受けた位置に立てなかったし、そういう行動をする位置に出られなかったし、これかあれかといえる決定的な立場に立てなかったので、誰を信じなければならないのですか? 行って帰ってきた人を信じなければなりません。それで、私がきょう行ったなら何を買ってあげようかと考えています。どう、買ってあげるのをやめましょうか? その人にだけ買ってあげれば、他の人が「なぜその人にばかり買ってやるの?」。(笑い) そうなってはいけないのです。(四六―五三)

10 教会がそれほど好きだった食口たち

 統一教会の教会員たちが、最初に統一教会へ入った時は、誰でも一回は夢中になる時がありました。「なぜだか知らないが教会へ来たくてたまらない。教会に行きたくてたまらない」と思うのです。ある時は、教会の門を閉めてしまっても、門を乗り越えてくる人が多かったのです。教会の隅にでも、一晩寝るのが望みだったのです。彼らを追い出すとオンオン泣き、追い出して門を閉めておくと、死んでもいいといって門を乗り越えてくるのです。門を乗り越えてくる人々は、もしも盗人だと思って打ち殺したら、その人は間違いなく天国へ直行するのです。(笑い) そういう時があったのです。

 また、教会で御飯を食べれば、御飯がなぜそんなにおいしいか分からないというのです。お化けがついたのでもなく、他の御飯と全く同じ御飯なのに一味違うというのです。すっぱくて渋い大根キムチも、立体的な味がするのです。(笑い) 教会へ来て御飯を食べればおいしいというのはなぜですか? 愛する父母が、精誠を尽くして炊いた御飯がおいしいのと同じです。そこには慕わしさがあふれ、相対的存在までもそこに結実され得る自体としてあるから、悪いものも良いものと感じられるのです。そして、これが自分と関係を結び、相対的な価値として登場するので良いものとして現れ、おいしくないものもおいしいものとして現れるというのです。

 それはすべて神経作用です。そうでしょう? 味というのは神経作用によって分かるようになります。ところが天の神経作用は超自然的な作用です。全体を合わせて主管する立場にあるので、そこには悪いものがないのです。皆さん、恵みに酔ってみなさい。世の中が王宮に見えるというのです。汚水の中に入っていても、その場所が王宮に感じられるのです。うじ虫がわくのを見ても、それが世界の一等舞姫たちが踊っているように見えるというのです。本当にそう見えるというのです。

 それは、今日の人間自体の感情ではそう感じられませんが、超自然的な感情の主体性をもったので、そう感じられるのです。ですから、そこで見えるものはすべて喜悦の対象として見えるのです。それゆえに霊界では悪いものがないという結論が出るのです。(三六―一一八)

 皆さんは、自分でも分からずしきりと教会へ行きたいでしょう? (はい!)。父母が「行くな」と言っても、御飯さえ食べれば行きたいのです。学校へ行っても、心がそわそわするのです。授業を終えて教会へ行かないと、何かを失ったような気分がするのです。皆さんはそういう感じをもってみましたか? (はい)。

 皆さんは、誰かが来いといったので、昼夜分かたぬ客のようにこうしてたくさんやって来て、御飯をあげ、コーラをあげ、寝かせるのですか? 皆さんはお客ですか、主人ですか? 主人がお客を冷遇すれば、その家は福を受けますか、罰を受けますか? (罰を受けます)。ですから先生は皆さんにこうして新鮮な空気で接待しています。(笑い) 門をぱあっと開いて接待するのです。その次には何の接待をするのですか? み言の接待です。先生に会って、一通り笑い、一通り喜び、一通り悪口を言われながら、一番良いものを学びます。悪口を言われても喜ぶのを見れば、一番近いでしょう? 悪口を言われても喜べば、それ以上良いものは必要ありません。こういうことああいうことを見る時、先生は行って休み、御飯一杯を食べるよりこうしてみ言を語るのがもっといいのです。皆さんがこうして喜ぶので、皆さんに御飯を食べさせなくても先生は胸が痛くありません。(笑い) (二六―一九三)

 皆さん、統一教会へ入るとおかしいのです。昔おもしろく遊んだ友達は自然と遠くなります。昔は学校が終われば家へ行くことしか知らなかったのに、統一教会を知るようになったのちには、家よりも教会へまず行きたい思いがあるのです。うそですか、当たっていますか? 事実ですか、うそですか? (事実です)。それは小学校の生徒も同じであり、大学生も同じであり、家庭をもった夫も同じであり、主婦も同じであり、父母も同じです。皆が一様に同じなのです。

 人はみな同じなので、韓国人たちがそのようであるように、アメリカ人も同じであり、日本人も同じであり、イギリス人も同じであり、ドイツ人も全部同じです。(六五―一〇二)

 統一教会へ行けばへばりつくといううわさが出ています。そういうことを知っていますか? 人は損する道には絶対行かないのです。皆さんがここへ来る時も、十ウォンでも損するという思いをもってきた人は一人もいないのです。食べ残したかすだけでも残るものと思って来たのであって、損するために来る人がいるかというのです。ですから利益になる所には「行くな」と言っても行くのです。そうでしょう?

 それで統一教会員たちにきちっと教えてあげさえすれば、私があの深い谷間へ行っていても、白頭山の頂へ行っていても、皆さんはすべて訪ねてくるようになっています。穴の中にいるならば、「入ってくるな」と言うと、痛哭しながら「老い、死んでも会うのだ」と言うのです。会わなければならないようになっています。統一教会へ行けば利益が出ることを知れば、そうなるのです。私が皆さんよりできが悪くて悪口を言われ、こういうことをするのではありません。先生の目を御覧なさい。私は虚勢を張っていますか? (四一―二三七)

 統一教会はどういう所ですか? 「統一教会へ行くと文先生に狂う、電気装置を使って流す」、そういううわさが立ちました。流すとは何を流すのですか? 春が巡ってきて暖かくなれば、凍っていた雪は「解けるな」と言っても解けるのです。牛を捕まえて、供え物、天祭をささげなくてもみな解けるのです。もっと高い愛の前には、自然に引かれて当然です。そうなっているのです。それで統一教会へ出るようになれば、自分の息子、娘もみな忘れてしまうのです。そういう何かがあるのです。自分の愛する夫が反対するなら、死んでも会いたくないのです。私は女性になってみたことがないので分かりませんが、女性たちにそうなのか、そうではないのか尋ねてみなさい。そうでなければ偽者なのです。今まで人間世界で一番貴いという問題が……。天を求めて行く道の前では、台風が吹いてくれば押し込まれない人はありません。もっと優れた愛には引きつけられて当然です。(五六―一六五)