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六 教育と修練

1 教育の必要性

 悪に接することができる要因を多くもっているのか、善に接することができる要因を多くもっているのかということを見るときに、全体が悪に接する要因に囲まれています。

 悪を行う道においては教育は必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行けるのです。悪から始まった歴史なので、教育を受けなくても誰でも行けるのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか? 自らそうなったので、今日、人倫道徳を中心にして良心の標準の前に選り分けて行けと教育するのです。

 何を中心にした教育ですか? 善を中心にして、良心を中心にして教育をしたにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人がどのくらいいるのですか? 悪なることは、学ばなくても誰でもできるのです。誰でもみな満点を取れるのです。(三六―五七)

 ですから教育が必要なのです。先生が夜昼二十四時間、時間さえあれば教育したように、すがり、涙を流し、昼食、夕食を抜いてみ言を語るのに酔って、夜を徹する、そういうことをせよというのです。先生が今までここでしている様子で分かりますか? 私がどこかへ出かけない時は、ここにいながら何をしますか? 一人が尋ねてくれば、一人に対して話をしてあげるではないですか? 一生の間そのように生きたではないですか? いつも今に精神を投入するのです。

 そう、教育するのです。分かりますか? 教育しておけば滅びることはありません。教育は間接的準備です。間接的準備は直接的準備のためのものです。間接的準備をしておけば、直接的準備に転換することは私がやるので、皆さんは間接的準備だけしておきなさいというのです。(一四九―二〇五)

 しっかりした鉄があれば、鍛冶屋がしきりに打たなければなりません。夜も打ち、昼も打たなければならないのですが、なぜ夜昼打たなければならないのですか? 春夏秋冬の季節を通過できる条件を立てるためです。朝は春で、昼は夏で、夕は秋で、夜は冬に該当するので、春夏秋冬です。

 一年中、少年時代から青年時代を経て、壮年時代を過ぎ、老年時代を越えなければならないのです。鉄は長く打てば打つほど、一生打てば打つほど良い鉄になりませんか? (なります)。同じ道理ではありませんか? 打てというのです。あらん限りの力で打てというのです。ひっくり返して打ち、反対にひっくり返して広げ、縮めて、こうすれば……。それを知らない人は、「何だ、いつかはこうしろと言ったのに、きょうはこうせよと言い、あれこれと言う先生はもういい」と、こうも言えるのです。神様を見ると、事実「ああだこうだ」と言うのです。それはなぜそうですか? それは捨てる時だからです。一度にできない時は何も使えないのです。

 きのうも工場長が見つめる中で、ビルを建てている所へ行って、そこで鉄について話すのをずっと聞きました。鉄の強度がどう違うかというとき、鉄を引っ張って広げる力と、押してこのように腹が出るようにする力が三十倍の差があるといいます。ちょっと見ると同じようでしょう? それを見ると神様が本当に立派だというのです。高層建築物を建てるとき、こう建てば、一対一となれば大変なことになります。そうなれば高層建築はできないというのです。細いがこれを立てておけば、そこに三十倍を加えてやっとこれが崩れるので、二十九倍加えても崩れないということになります。ですから鉄筋を横に立てるのではなく直線に……。

 それと同じように、統一教会の教会員たちを全部、自分勝手になったものを打って最高にしっかりとつくらなければならないのです。そうして何をするのですか? 新しい高層建築物を建てるために投入しなければなりません。建てるのにそれが曲がりくねっていてはいけません。まっすぐに建てなければなりません。そうでなければ、それが丸くならなければなりません。それが全体を中心としては張力が十分でなければなりません。こうしておいてこそ、礎石を置くことができます。そうではありませんか? その礎石を置く時どうやって置くのかといえば、四角に入れる人はいません。力学的な力の作用を見れば、これは四十五度に通じるのでこういう力が通じるので、この原則に従うのです。ですから円形に従って、その原則によって礎石を立て、建物を建てるのではありませんか? そうでしょう? その横のものは、あってもなくても同じことです。その柱さえ受け止めてあげ、円形をつくっておけば、横のものは何も力を受けないというのです。(六四―一八三)

2 修練を受ける目的

 皆さんが修練を受けるのは、皆さんの前にいる怨讐を追い払い、怨讐を審判するためです。そうするためにはまず第一にみ言を勉強しなければなりません。このみ言はどこから出たのですか? 創造当時の心情から復帰の路程を経て出てきたのです。この事実を忘れてはなりません。み言を備えなくては実体を立てられないし、実体を立てられないでは心情を立てられないので、み言を聞く時は体で聞き、心で聞き、心情で聞かなければなりません。

 修練生には、歴史始まって以来なかった、ものすごい肉体的訓練も必要です。それをみ言と心情で耐え、打ち克たなければなりません。皆さんはアダムを学び、モーセを学び、イエス様を学び、先生を学んで、アダムやノア、アブラハム、モーセ、イエス様、先生の立場に立ってみなければならないし、み言と体と心が一つになるための内的な闘いで勝利すれば、神様は皆さんを公認せざるを得ません。私たちはいつも、「一番難しいことを私に命じてください」と言えなければなりません。(一一―一五九)

3 修練の過程と目標

 統一教会は、今から何をするのですか? 統一教会に入ってくる人々は修練過程を経るのです。修練過程はどうやって経るのかといえば、二日修練会です。その次には? (七日修練会)。七日修練会です。その次には? (二十一日修練会)。二十一日修練会。その次には? (四十日修練会)。四十日修練会。ですから七十日間の修練が必要です。では、その七十日間修練が一体全体何なのですか? 無知によって堕落した人々が、知ることによって失ったものを復帰できるというのです。また、今までいい加減に生きたけれども、この期間に自分の習慣的環境を全部清算するのです。

 では二日修練会とは何ですか? 今までもっていた思想観念を、反対にしていたその方向を新しい方向へ転換するのです。これは復帰摂理の段階でいえば、復帰基台摂理と同じだというのです。ですから今まで混乱した世間で生きた人は、統一教会の二日修練会だけは自ら行かなければならないというのです。思想的緩衝時代に入っていくのです。それで第一番目に二日修練会は、自分の立場を自覚させることです。二日修練会を受けるようになれば既成観念がどうで、統一教会の観念がどうで「これはいいな。今まで私が間違っていたな」と思って、もっていた観念をチェンジすることができるのです。

 その次、七日修練会は何なのですか? 七日修練会からは蘇生時代に入るのです。旧約時代完成摂理圏に該当するのです。こうして、旧約時代完成圏に入ることによって何になるのですか? 新約時代のメシヤを迎えにいかなければならないと考えるのです。分かりますか、何のことか。ですから七日修練会を受けるのは旧約時代に該当するのであり、蘇生人格を解放する期間だと、このように見るのです。

 ですから七日修練会を受けるようになれば、観念的チェンジから一身的チェンジになります。「やあ、み言を聞いてみると、私も今聖別された体になり、サタンに勝たなければならない。サタン世界から脱け出さなければならないな!」と思いながら、自分の観念を解消するのです。また、自分が決心をすることにおいては、一週間もすれば大概方向性をとらえるようになります。

 そして七日修練会では、七日過程では再び原理過程の七数を完成しなければなりません。六日で人を創造したからです。神様を絶対に認定できる――サタンを絶対に認定するのではありません――神様の国と神様の民としての「私」が確定されなければなりません。神様の国と神様の民としての「私」が確定されなければなりません。神様の民としての私になれば、その次には神様の人としての私となり、神様の愛として、私の責任を完遂しなければなりません。

 その次に二十一日修練会は何ですか? それは新約時代に該当するのです。そうすることによって、イエス様を救世主として侍ることができなかったのですが、救世主として侍ることのできる人にならなければなりません。すなわち、実体的メシヤの前に、洗礼ヨハネ的人格を完成するのです。分かりますか、何のことか。すなわち、それは、養子の資格を完成することです。

 この二十一日修練会が峠ですが、二十一日修練会さえ越えれば食口になるのです。「献身するな」と言ってもするのです。ですから「修練会! 修練会! 修練会!」これが頭にびしっと詰まっていなければなりません。

 その次に四十日修練会を受ければ、成約時代に該当する位置に立つので、接ぎ木する位置へ入るのです。分かりますか? メシヤを迎えて一つになって入っていく位置なので、初めて天国の代を継ぐことができる息子の位置に接ぎ木されて入っていくのです。こうして、堕落しないアダムよりも高い位置へ上っていく、神様の息子の資格を引き継ぐのです。

 普通四十日修練会さえ受けるようになれば、「ああ、どうせ行くなら責任者になって蕩減復帰の数の道を行かないといけないな。ホーム・チャーチをしなければならないな」とこうなるのです。責任者はこういう道を行かなければならないのです。こういう訓練をさせておいて……。その前には絶対に仕事を命じてはいけません。仕事を命ずるなら伝道をさせなさい。こうして四十日四十数、四数を中心にしてサタンと闘える訓練を全部経なければならないのです。

 そうして、心情基準がサタン世界のその誰よりも高くて、天と関係した心情基準をサタンが公認できる立場から出ていかなければなりません。自分に所属したすべての所有と自分の心情基準が、天と関係をもたなければなりません。今までは、堕落してサタンを中心にしてサタンの所有、サタンの体、サタンの心情を中心にしてこうなったが、神様を中心にして神様の心情、神様の体、神様の所有に、次第に結ばれて蕩減しなければなりません。そして神様の前にささげなければなりません。それは自分のものではありません。所有というものが、本来神様のものになるようになっているのであって、自分のものになれないというのです。

 四十日修練会まで受ければ、大概自分がみ旨のために生命を懸ける覚悟をする段階になります。一週間修練会までは原理を聞かせ、自分の過去を清算し、み旨の前に仕事をしなければならないと決心させるのです。そして一週間の修練中に、献身的に歩むことを決意するように目標をぴしっと定めたのです。ですから過ぎし日のすべてのことを清算できるよう、全部面接し、「清算して献身的に歩みますか?」と言えば決意しますから、決意したのちに、二十一日修練会では何をするのですか? その時は「み旨のために死ねるか」ということが問題になります。「み旨のために一生をささげられるのか」という問題を中心にして教育するのです。そうして二十一日修練会が終わることによって、自分が神様の息子であることを自覚させるのです。こういう基準まで引き上げるのです。

 その次に四十日修練会は何をするのかといえば、「お一人であられる神様の代身者になろう」と言えば、それこそ完全に出て闘わなければならないというのです。神様が復帰摂理をするために、今まで歴史時代の先頭に立って闘ってこられたのと同じように、すべての責任を負われたのと同じように、四十日修練の時は、自分が神様の代身者だということを自覚するように修練しようというのです。すべての過程をそのように組むのです。ですから公式化、教育制度において、公式をつくろうというのです。いろいろなことをしてみて、一番良い方法を中心として公式化させるのです。東部の教育制度や西部の教育制度、その次にはアメリカ全州の教育制度も全部同じです。

 こうして食口修練は全部で七十日なのです。二十一日修練と四十日修練をすれば六十一日になり、その次には七日修練をすれば六十八日、そこに二日修練を合わせると全部で七十日になります。

 七十日修練を教会でしてあげなければ、霊界の讒訴を受けます。七十日修練さえしてあげれば、統一教会の一般的歴史を大概概括的に知るようになるのです。原理の深さも知るようになり、統一教会の動きも知るようになります。「この道を行くのにどのように行くべきか」ということを自ら知るようになるのです。そうなれば、大概統一教会へ入ってみ言を聞き、内容を知らないという立場には立てないのです。内容を知っているといえる人をつくるのです。そうして終われば、教会は責任をすべて果たしたのです。教会としての責任を果たしたというのです。

 教会が責任を果たしたというのは、教会の責任者たちが、責任者として、自分の所属内にいる人々に対し――霊的世界で見る時――条件に引っかからないようにしたということです。そう、原理的数字が七数です。神様と一致するためには、必ず七数を越えていかなければならないのです。七数は完成数です。ですからそういう観点から七十日は責任をもたなければならないのです。四十日と二十一日修練をするので六十一日、七日と二日を合わせるので? (七十日です)。二日修練会をするようになれば、大体、話は全部できます。

 そして私が米国でどうやったかといえば、土曜日と日曜日にしました。西欧社会は土曜日と日曜日は休むので、その期間にはどうやってでも伝道して修練会をするのです。韓国にも明洞に講義所があったでしょう? (はい)。食口たちを動員し、行き交う人を伝道して教育するのです。そして二日だけ教育すれば、大概この道は普通の道ではないということを知り、方向をとらえ始めます。それで二日修練会がぱっと終わると、その次にはすぐ七日修練会に入れなければなりません。七日修練会さえ聞くようになれば、大概この道を行かなければならないと考えるのです。既成教会の信徒たちが七日だけ聞けば、大きな[藤が起こります。「私は誤って信じていたな」と思って、心情が複雑になります。

 そうして二十一日修練会に入れなければならないのです。一次に原理を聞くようになると整備され、二次に修練を受ければ昔のことは過ぎ去って、新しい観が生じます。その次に三次に聞けば決心するのです。「この道を行かなければならない」という決心をします。四十日になれば、自分がサタン分立をして天の側に立つ者となることによって、蕩減復帰に入るようになることを知ります。

 そうなれば、出て行って七年路程を行かなければならないのです。七十日修練を受けて、七年路程を行かなければならないのです。これは公式です。行かなければ駄目なのです。そういう観点において、そういう観が今、皆さん責任者たちと統一教会員にはできていないのです。ですから既成教会を何だかんだと言っては駄目なのです。必ず七年路程を行かなければなりません。今後も行かなければならないのです。(七五―九四、九九―二六七、一〇七―二四一、一七二―四七から総合)