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第三節 食口指導の要素

一 食口指導の要素――他のために

1 お父様と「ために生きる」という思想

 今回、韓国に大会を開きに行った時、韓民族がレバレンド・ムーンに対して「歴史始まって以来、五千年歴史にいなかった偉人が現れた」とかいろいろと言っていました。米国でもそうです。(拍手) 自由世界でもそうなのです。「世界でこんなに迫害を受けるレバレンド・ムーンがこういう仕事をするのを見ると、人類歴史にいなかった人物として現れた、生きて聖人となる人だ」という話をする見通しがあると見たわけです。それゆえ、全世界の人々に「セカンド・アドベント」(Second Advent:再臨)という言葉が共通語になったようです。(拍手)

 私が微賤な位置からこのように出てきたところには、どんな思想があったからですか? 何がそのようにつくり上げたのですか。「他のために尽くす愛」これ一つしかありません。私が通り過ぎる時には負債というにおいはにおわせませんでした。負債をなくしてきました。もしある国と民族があれば、その国と民族のために涙を流してあげ、福を願っていこうとしました。サタンを、そしてサタン圏を完全に占領したところで生命の道をわきまえるのですから、避けようがなく、そうせざるを得なかったことをはっきりと知らなければなりません。

「足よ、あなたはいつ部落のために、国のために、世界のためにやってみたのか? この目よ、鼻よ、口よ、いつそのようにしてみたのか? 手よ、いつしてみたのか?」と言うと、「命令さえあれば、いつでもいたします」と答えるというのです。私の目が、私の精神がそうだというのです。最後の死が来たとしても、私が死という名詞を前にして、負債を負って行きはしないというのです。負債を清算して行かなければならないのです。(拍手)(一三一―三六)

 皆さんはイエス様が弟子たちの足を洗ってあげたことを知っているでしょう? 皆さんもそのような伝統を立てなければ、彼らを糾合することができません。先生はそのようにしてきました。先生は怨讐の息子たちが飢えているといううわさを聞いた時、パンツとねんねこはんてん一つだけを残して、全部持っていってあげたことがあります。そして、パンツだけをはいて、ねんねこだけを寝る時にかけて、一週間生活してみました。そうしているうちに、一つだけ残っていたねんねこまでも、彼らのために売ったのです。

 どうしてそんなことをするのですか? 先生ができが悪く生まれついたからではありません。復帰の道を行こうとすれば、怨讐を愛したという絶対的条件を立てなければならないためです。この世の中には、そのようにできる人間はそんなに多くいません。しかし、先生は怨讐の子供たちのために持ち物をすべて売り、甚だしくは、パンツ一つとねんねこ一つが残っているうちで、ねんねこまで売ったというのだからやるだけのことはすべてやったというのです。「怨讐を愛せ」という聖書のみ言を実践しなければならないので、そういうことまでしたのです。(二三―三二〇)

2 教会指導者は食口のためにある

 私がイエス様を信じているからといって直ちに「イエス様!」と言っては駄目だというのです。橋を架けていかなければなりません。私たちの平面的生活において橋を架けるために、教会ならば教会に行くようになる時、その教会には必ず指導者がいます。教会の指導者は自分の目的を達成しようとする人間ではありません。もし、そのような人がいたとすれば、その人は指導者にはなれないということを、皆さんは知らなければなりません。指導者には自分と教会員との間に橋を架けてあげなければならない責任があるので、訪ねてきた信徒たちのために与えなければならないのです。

 教会の指導者は信徒のために存在するので、神様のみ旨を中心として、信徒の精神的問題とか信徒の生命の問題までも責任をもっています。その指導者は、そのような自分が責任をもった分野を中心として、信徒たちを指導するのです。そうなれば、神様はその人を見て高い位置にいるというとき、信徒たちがその人と一つになっているとすれば、その信徒たちも高い位置に上がることができるのです。その人が私の代わりに精誠を尽くしてくれて、私の代わりに私の罪の贖いのための祈祷をしてくれるとすれば、私はその人の祈祷のお陰でその人が立っている所へ同席することができるのです。人々が恵みを受けている人の祈祷を受けようとする理由がここにあります。このようにして橋を架けて探していくのです。(三二―一六五)

 皆さんは縦的な神様との関係は重要視しますが、横的な人間との関係を無視する時が多いのです。原理の中で講義しなければならない内容を見てみるとき、これは「貴い福音であり真理である」と言わざるを得ません。ですから、神様に対する縦的な内容が、横的なカイン・アベルの関係において一致しなければ復帰されないのです。真理を表象するすべての内容がここに盛られており、十字架が表象する意味もここに盛られているということを皆さんは知らなければなりません。

 それゆえに、誰でもみな、良い時や悲しい時やどんな時でも、神様を考えなければなりません。縦的基準の前では、良い時も神様を考え、困難な時も神様を考えればよいのです。どうしてそうするといいのですか。それは、全体が神様と一つになるためにそうなのです。それゆえ自分が悲しい時、横的な環境で食口たちと共に悲しむことができる基盤がつくられていなければならないのです。また、うれしい時も食口たちと一緒に喜べる基盤が成されていなければなりません。

 したがって、神様のためにする分だけ、人のためにもしてあげなければなりません。弟子たちがイエス様に直接してあげられなかったけれど、「あなたたちが非常に小さい者の一人にしてあげることが、すなわち、私にしてくれることである」と言われたイエス様のみ言の意味を、皆さんは知らなければなりません。(三四―二二九)

 皆さんは今、何かといえば、平面的な面においてカイン・アベルの戦いをしているので、絶対的に食口たちのためにやりなさいというのです。神様と同じ位置で、食口のためにやらなければなりません。(七六―三三七)

 責任者自身を見てみると、いつも幸福な人間ではないのです。不幸な人なのです。どうして不幸な人なのですか? いつも負債を感じるためです。ただひたすら、食口たちに私がよくしてあげなければならないと思えば、いつも負債を負ったと感じなければならないということです。そうでなければなりません。あるかわいそうな人を見たなら、その人の生命を気づかってあげて、夜通し話をしてあげるということが天職だというのです。その人が死んでしまうようなことがあれば私が犠牲になって、その人の死の道をふさいであげるのが霊的指導者の責任ではないでしょうか。そのような立場に立たなければならないというのです。

 ですから、その話は何の話ですか? どのくらい食口のためにしてあげられる立場に立つか、という話だというのです。そうではないですか。どのくらいためにしてあげるかというのです。その人は他人ではないのです。私の延長ということになるのです。自分の枝になるのです。分かりましたか? 自分の枝になるというのです。自分が成長しようとすれば、よく保護してあげなければなりません。それゆえ、伝道すれば「信仰の息子、娘」という言葉があるでしょう? それは何ですか? 自分の枝です。枝だというのですから、どれほど補給しようとし、昼も夜もなく努力しましたか? そうだとすれば、自分が幹になるか、あるいは根にならなければなりません。根になっていれば、その幹が、あるいは枝が多ければ多いほど、その幹や枝が必要とする栄養素を土地から、自分は休まずに、要求する以上に供給してあげられる、余裕の条件があればこそ発展するのです。そうであればこそ大きくなるのです。すべての部分が栄養素を要求しているのに、それを補給してあげられずに限界線が存在するようになれば、てっぺんは乾いて死んでしまうのです。そうでしょう? そのようになるのです。(七〇―一四七)

 皆さんは国のために、食口のために、兄弟たちのためにどれほど涙を流してみましたか、真実に愛してみましたか? これが問題です。このような問題を中心として、統一教会は心情的な歴史を追求してきたのですから、歴史時代のイエス様の心情よりも低くてはいけないのです。神様の心情を中心として、もっと高くなければならないのです。(六〇―一四五)

 「ために生きる」人は負債をつくらない人です。そのように「ために生きる」ようになれば、間違いなくその三代の血縁関係が栄えるというのです。明け方、鶏が「コケコッコーッ」と鳴く時、私が門を開ければ、既に人々が来て待っているのです。夜眠らずに、夜中に垣根を越えてでもやって来るのです。そうなればこそいいのではありませんか。こうやって来ては、神様の公義のために夜が更けていくのも知らずに、この民族と世界に関する話をするのです。この世の中で恋人同士が恋愛すれば、これ以上にするでしょうか? 問題ではないというのです。

 神様の愛の観念と、神様の理想世界を中心として話をすれば、夜が更けていくのも分かりません。別れることを千秋の恨みのように感じ、時間がいつ過ぎたのかも知らず……。そのような時間が連結されて、心情的な基盤を築き上げていくというのです。何の話か分かりますか?

 さて、今までは侍ってもらおうとして「あーっ、私が責任者だから、私の言うことを聞け」とこういう具合だったでしょう? 侍ってもらうことに力を注いでいたけれど、これからは侍ることに力を注ぎなさいという話です。分かりましたか? (はい)。負債を負うなというのです。そのようにしてごらんなさい。負債を負わせなさいというのです。町に行っても負債を負わせるのです。一番簡単なことは、町の子供たちに負債を負わせることです。その次には年寄りたちに負債を負わせるのです。(六八―一一五)

 偉大な指導者は、悲しむ者と共に悲しまなければならないし、困難な人を指導しなければなりません。困難な人を指導しようとすれば、困難な立場に入っていかなければなりません。その次に、苦痛を受けている人を指導しようとすれば、苦痛を受ける立場以上のところへ入っていかなければならず、死の立場にいる人を指導しようとすれば死の立場以上のところへ入っていかなければならないのです。

 皆さんは新しいこと、できそうにない仕事が出てきた時、それをどのようにしなければなりませんか? 「やあ、おもしろい。私の人生の一ページに記録され始めた」と言って関心をもたなければならないのです。そこでよくやれば、乗り越えていくし、失敗すれば後退していくのです。(六五―三〇九)

3 自分のためにやれという時には宇宙が讒訴する

 皆さんは例えば、ブロードウェイのような所をある夫婦が歩いていて、その夫婦が「あの人たちはどこに行くんだい?」と言われた時、彼らが喜んで「国に向かっていくのです」と言う時には拍手をしてあげなさいというのです。国に向かっていくのだという時は拍手をしてあげなさい。国を捨ててそのカップルが二人で行く時には、「ブーブーブー」と文句を言うのです。スケールの大きいカップルになり、大きな所へ行く人は、宇宙が拍手するのです。天も地も、すべての空気も、全世界が拍手するというのです。

 しかし、大きなものを訪ねることをせず、自分のためだけに行こうとする時には、宇宙全部が讒訴するというわけです。なぜそうなのですか? 愛を中心として、愛の原則を中心として宇宙を造ったため、宇宙はその拍子を合わせるようになっているのであって、個人に拍子を合わせはしないのです。宇宙はそういう力をもっているというのです。さあ、はっきりと分かったでしょう? (はい)。(一三一―一二四)

 父母の愛も良いけれど、父母の愛が父母のためにしろという愛であれば、子供はその父母の愛を必要としないのです。子供の愛もいいけれど、子供が自分のためにしてほしいというならば、その愛は父母も願いはしないのです。私もあなたのために、あなたも私のためにという、その愛に……。自分が十をあげたとすれば、「ために」という愛は必ず十一になって返ってくるというのです。「ために」という愛はそうなのです。

 相手が小さなことで私を愛してくれて、何かしてくれたとすれば、私はそれ以上のことをもって返してあげたいというのです。これはしきりに拡大していくのです。拡大、拡大して、歳月が過ぎ、一生涯そのようにしてみれば、これが国を越え、世界を越え、永遠なる世界を、天国を越え、天上世界を越えていくのだというのです。

 自分のためにしてほしいという所はすべて削減です。マイナスです。一度したあと、その次の二回目をする時には、十だった愛が削減されて八に減ってしまうのです。昼夜、自分のためにしてほしいというのは、心が反対に乾いて縮こまっていくということです。愛はどこから来るのですか? 相手から来るわけですが、「ために」してあげようという道だけをたどって、純粋な理想的な愛が往来するのです。アーメン! 一度、してみなさいというのです。(アーメン!)。(一一九―三二六)

4 「ために」する立場の結果

 より「ために」なさなければなりません。より良く「ために」するとは何でしょうか? より「ために」してあげる人が責任者になるというのです。十人の中で誰が中心になるのかといえば、その十人を愛して、「ために」してあげる人です。その人に、十人の人々が訪ねていくのです。そうでしょう? そうですか、そうではないですか? その「ために」するということを悪いことだと思っていたのだというのです。「ために」するということにおいて、中心者になり、責任者になるということを知らなければなりません。そうして主人に、中心者になるのだということを知らなければなりません。国の大統領は、より国のためにする人がなるというのです。そうでしょう? 会社を相続できる人は、会社のためにより犠牲になり、より「ために」する人です。天理がそうです。「ために」生きることが良くないことと思っていたけれど、これがつまり中心になるためのものであり、責任者になるためのものであり、すべてのものを相続するための道であるわけです。それゆえに、「ために」生きなさいということを知らなければならないのです。良くないことではないのです。損害が出るものではないのです。商売の中で、こんな商売はないというのです。(一三二―二七六)

 本来、人間が生まれたのは人のためなのです。人のために犠牲になるために生まれたというのです。人のために犠牲になるとどうなるのですか? 愛の伝統が立つばかりではなく、その人が愛の中心者になるのです。何になるのですか? 間違いなく愛の中心者になるのです。

 学校を例に取って言えば、その学級全体のために仕事をする人が級長になるのと同じです。同じ立場にいながらも、人のためにする立場に立つ人が級長になるのです。大韓民国であれば、韓国の国民を誰よりも愛し、誰よりも韓国の国民のために生きているならば、その人は自然と民族的な中心者になるというのです。そのようになっているでしょう? それは否定することができません。

 愛の中心者になってから何をするのですか? てっぺんに上るのです。中心者はてっぺんに上るのです。てっぺんに上れば自動的に群れを指導することができるし、主管することができます。主管者になるのです。これが天理原則です。これをはっきりと知らなければなりません。(五七―二六)

 人はなぜ高いことを好むのですか? 多様な事柄と因縁を結ぶことができるから、高いことを好むのです。なぜ低いことを嫌がるのですか? 単純になってしまうからです。多様な関係から遠のいてしまうからです。人の中で一番尊い人は、高い理想、高い観(注:考え方)、高いことと関係を結ぼうという人です。そういう人が貴い人だという概念を、ここに見いだすことができるのです。(一二九―三〇八)

 皆さん、なぜ「ために」生きるのが良いのかというのです。それは、中心者になるからです。中心者というのは責任をもつことができなければならないということを知らなければなりません。責任をもたなければならないというのです。すべてのことに責任をもち、影響を与える者が中心者です。そうですか、そうではないですか? アメリカはどうですか? 自分のためにという人間が中心になりますか、全体のためにという人間が中心になりますか? このような観点から見たとき、全体のためにするのだという人が、その分野において中心者になるのです。中心になるのですね? 「ために」してあげようという気持ちがなければ、中心にならないのだというのです。(一二九―三〇九)

 神様の立場と父母の立場はどんな立場ですか? まず先に考えてあげることです。まず最初に考えてあげるのです。神様は、私よりも先に考えてくださるのです。父母は、私よりも先に考えてくださるのです。ですからいいのです。ですから主体なのです。二人して生活している時、「あー、あの食口がしなければいけない仕事を私がしてあげなければ」と思うことができればいいのです。神様はそういう方なのです。その人が中心です。「ために」してあげる人が中心になるのです。

 さあ、私はアメリカから反対されているけれど、アメリカのためにしてあげたので、アメリカ人たちは私を尊敬しないわけにいかないのです。尊敬しなければ駄目だというのです。そういう人間が主人になるのです。世界のために犠牲になれば、世界の主人になるというのです。それは何の話か分かりますか? (はい)。神様の立場と父母の立場を占めようとする人は、必ず中心存在になるというのです。それ以上の何がありますか? 今後統一教会の主人になる人は、神様のように、父母様のように、先生のように、教会の信徒たちを愛してあげる人です。その人は必ず主人になるのです。そうできなかったとすれば、すべてがひっくり返るのです。その食口たちが反対するのです。

 簡単だというのです。分かりましたか? 私がその人に勝ち、その人を屈伏させる方法は、その人とけんかをして勝とうとはせずに、その人のために私が神様と父母の立場で先に考えてあげるという方法です。三年間だけためにやってあげれば、間違いなく私の言うことをよく聞くようになるのです。心はそうです。自分の奥間の戸まで開けて「あなたの好きなように私の家に入ってきてもいいです」。全部がそうなのです。そのような宇宙の原則的作用が、この本心を動かしているということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。(一〇三―一三九)