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1 指導者はまず与える者である
指導者とはどういう人間でしょうか? 与えなければならない人です。受けなければならない人間ではないのです。与える時に、いつも同じものばかりを与えてはならないのです。新しいものを与えなければならないのです。皆さん、説教をしようとすれば難しいでしょう? 原理のみ言はそのまま話せばいいのですが、説教は大変なのです。それは同じものを与えてはならないからです。そうでしょう? 同じものを与えてはいけないというのです。父母が愛する子供に、あれこれと良い物を選んで食べさせなければならないのと同様に、同じものを与えては駄目だというのです。
皆さんに与えるものがないのならば、神様からもらわなければなりません。神様からもらったものを食口たちに食べさせるのです。そうでしょう? 神様と共に相談して……。結局、皆さんは明らかに神様の代身になるというのです。皆さん、自分が祈祷をしながらも祈祷する言葉に自分が感動を受けるのです。そのような境地で祈祷をすれば、聴衆はすべて神様の前に虜になってしまい、「神様は生命の原動力であり、本体だ」ということを体得するようになるのです。人々はそのような経験をするようになる時、神様は絶対に必要であると感じるようになるのです。このような内容を連結させて、聴衆を魅了させるための祈祷が絶対に必要なのです。
歴史に現れる立派な人々は、立派な学者ではありません。立派な人とは、それこそ心情の飢えを感じる人です。その心情の飢えがいやされる時にその喜びを感じ、喜悦をしみじみと感じることができる境地に入っていくようになれば、聴衆はそこで虜になるのです。それを知らなければなりません。
与えなければならないのに、与えようとすれば補給を受けなければならないのですが、補給はどこから受けますか? 本部で先生の説教を聞いて補給を受けることもできますが、皆さんが一人で離れた所にいる時には神様から補給を受けられる補給路を持ち合わせなければならないのです。
そうしようとすれば、能力を養わなければなりません。どこかへ出ていくとすれば、一人で行くのではありません。啓示を受けなければならないのです。真の父母を伴って、お母さんお父さんを伴って、神様を伴って、世界が皆さんによって審判を受けるのだという心情をもたなければなりません。自分の前にあることは神様の摂理を左右するのだという気持ちをもって、どこに行っても審判の盾として行ったり来たりしないといけないのです。そういう気持ちで三回だけ行ったり来たりして功を積むようになれば、それが一つの契機となり、私が行けば神様が行き、私が来れば神様も来るということを自然と実感することができる境地に到達することができるのです。そのようになれば、皆さんが立っている所は発展するのです。(四六―二九九)
2 与える時の心の持ち方
父母の心をもって与えなければなりません。自分の欲望と野心をもって与えてはいけないのです。お父さんがそうするので、皆さんもそのようにするのです。このみ言は涙を通して出てきたものゆえに、皆さんも涙を通して与えなければなりません。真がないこの世に、真を植えなければなりません。(一一―二六八)
ここから統一教会の原則的な神髄の教理が出てくるというのです。与える時にはどういう気持ちで与えなければならないのですか? 友達の気持ちで与えるなというのです。また、主人が僕に与えるというような気持ちで与えるなというのです。父母の心で与えなければならないのです。父母の心で僕の体を使って、涙は人類のために、汗は地のために、血は天のために流すという立場にいなければならないというのです。この話は何を意味するのかといえば、与えたのちも、それ以上与えることができないことを涙ぐむことのできる心をもたなければならないということです。神様はそうだというのです。
与えたあとも恥ずかしくて頭をもたげられない心、少しでも良い物を与えたいのにそうできなくて、与えたあとも申し訳なく思う情、これが父母の心情なのです。子供にしてあげたあと、「これでいいのだ」という父母がいますか? 「もっと与えてあげたいのに、これだけしかなくて。この次は、もっと与えなければ!」というのが父母の心なのです。それゆえに、その子供が強盗をしたとしても、父母はその子供を愛し慕わしく思うのです。そうでしょう? (はい)。(三九―一九六)
与える時にはどのように与えなければならないのでしょうか? 食べて残った、残りかすを与えてはいけないのです。分かりましたか? 食べたあとの残りをあげるとすれば、食べたあと気分が悪くてつばを吐くのです。もちをあげるとしても、五つあったとして五つのうちあれこれと取っては置いて取っては置いて、あげる時にはむしろあげないことよりも気分が悪くなるというのです。そのようになっているのです。あげなかったことよりも悪いというのです。人にあげる時には、五つがあれば半分ほどそのままつまんであげれば、それで「ありがとう」と言うのであり、あれこれとつまんで見てあげたとすれば、世話を受けた人が世話を受けたあと批判するというのです。そのようになっているのです。それゆえ、与える時にはどのように与えるのですか? 神様と共に与えなさいというのです。(六〇―一七〇)
神様と共に与えるとは、どういうことですか? 父母の心情をもつということです。父母の心情をもち、僕の体を使って……。どうして僕の体を使わなければならないのですか? 僕を求めようとすれば、僕以上の僕にならなければならないのです。この世の中の人々は、僕の子供たちではありませんか? そのような僕を神様は救おうとしており、神様が僕を愛そうとしているのだから、どれほど難しいことなのかというのです。(六〇―一七一)
十を与えて百を得ようとする者は亡びます。そのような人間は心情を中心とした世界に入っていくことができないのです。天の世界は与える世界です。物質が問題ではありません。積善とは、すなわち与えることなのです。与える時には、私の心に物質をプラスして与えなければならないのです。神様の心情をもっていってあげることは、誰も止めることはできません。
神様は旧約時代には僕の立場で与えられ、新約時代には兄弟の立場で与えられました。これからは父母の立場で与えられなければならない時なのです。神様が父母の立場で与えてくださったものを私たちが受けたのですから、私たちも父母の立場に立って、父母の心情で与えなければなりません。そのような人になれば、神様はその人から離れることができないのです。
与える時には怨讐を片づけて与えなければならないのですから、戦いがあるようになっているのです。私たちは、与えようとなさる神様の心情を知らずしては行くことができないのです。与えるために六千年間戦ってこられた神様の心情を知らなければなりません。
幸せな人とは、与えたい時に与えることができ、受けたい時に受けることができる人です。不幸な人は、与えようとしても与えることができず、受けようとしても受けることができない人です。このような側面から見るとき、神様は不幸な方なのです。(一一―二三五)
人を愛する時に何を投入したとしても、それを考えるな! もったいないと思うな! 何を投入したかと記憶するな! もっと与えてあげたい……。それゆえに、皆さんが食べるのに良いものが出てきたとき、隠れて一人で食べる人間ならば、死んでしまわなければならない責任者だというのです。食べる物があればそれを食べないで取っておいて、ああ私が食べられなくても与えてあげたいし、一人で食べるわけにはいかないと、食口のことを思うことができる人になるように、という話です。そのような父母の心情を備える責任者にならなければならないというのです。(七〇―一六六)
お母さんが息子、娘たちに乳を飲ませて育てながら「私が乳を飲ませるのは、その何倍もの代価を得るために飲ませるのだ」というように考えますか? もっと与えることができず、切なくてたまらないのです。与えたあとも、より良いものを与えることができずに涙ぐむ父母の心が、永遠に存続するものだというのです。してあげたあとも、再びもっと良い物を与えてあげたいのに、それがなくて与えられないという切ない気持ちをもち、後ろを向いて涙をのむことのできる父母は、その息子を孝子に育てられないという法はないのです。そのような心情の場が復帰の路程です。その心情を離れては復帰は絶対にできないのです。(四六―一七三)
3 授けて受ける原則
先生は今までアメリカに来て、自分の家をもっていることが問題ではありません。すべての面で皆さんに負債を負わない生活を今もしているのです。そうしているのですからアメリカも発展するのです。それは原理がそうなのです。原理がそうだというのです。それで先生はいつも神様のようにアメリカの食口たちに与えなければならないのです。精神的に与えなければならず、物質的に与えなければならず、知識的に与えなければならず、どんなものも与えなければなりません。
では、十を与えて十二をもらう人が善なる人ですか、十を与えて八をもらう人が善なる人ですか? (十を与えて、八をもらう人です)。もらわなければどうなりますか? 神様と同様になるのです。神様はどこにおられるのですか? 神様は、そういう場に存在されるのです。(七六―三三七)
皆さんがまず最初に完全に与えて、三つをあげて一つを受けなければならないのです。分かりますか? それが原則です。三回与えれば、一回その三分の一を受け取りなさいというのです。
そうであるにもかかわらず、一つを与えて三つを返してほしいということが多いのです。多いと思うの、多くないと思うの? そうだとすればサタンです。神様の復帰摂理は、その三分の一、すなわち、三時代の摂理をして、三分の一を探すというものです。三つを犠牲にして、一つを探し出すというものです。旧約、新約、成約時代、この三つの時代を与えて苦労しながら、一つを探すというのです。三時代を与えて、一つの時代を探すのです。そのようになっています。それが原則です。
神様がそのように探してこられたので、私たちは三つを与えて一つを探そうというのです。一つを探し出しても皆さんがそれをもっていってはいけません。それは神様に返さなければなりません。
このような伝統が皆さんと先生の……。皆さんが一つ受け取れば、それを先生に返さなければなりません。また、先生は天に返さなければなりません。このように返さなければならないのです。このような伝統になればこそ、またこのように返してこのようになればこそ、皆さんの前に発展するのです。入ってきた人もそのようになれば、このように発展するのだというのです。(六六―三〇一)
神様を愛そう。神様を愛して神様の愛を受けてみてこそ、人を愛し、人から愛を受けることができるのです。それを知らなければなりません。分かりましたか? 先生を中心として……。先生が愛を受けようというのではありません。先生の自慢ではありません。原理原則がそうだというのです。父母を愛することができてこそ、愛を受けてみてこそ子供を愛し、愛を受けることができるというのです。同じ道理です。
このような問題を知って、皆さんがこの二つの原則をいつも考えなければなりません。神様を愛した分だけ人間を愛するようになるときは、神様が私を愛してくれるように、また人間が私を愛してくれるのです。それゆえに聖書にも、人の前で私を知っているというようになれば、イエス様も神様の前で知っているという話があったでしょう? 同じ道理です。同じ道理だというのです。神様を愛するように人を愛しなさいというのです。(七〇―一六五)