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第二節 主体・対象とカイン・アベル

一 主体と対象

1 統一教会の主体思想とは

 今日統一教会の主体思想とは何といいましたか? 愛を中心にした主体思想ですが、愛の内容が何といいましたか? 神様、その次は? (真の父母)。真の父母です。この世界が一つの国になれば、真の父母思想を、全部父母を身代わりにして立てるのです。真の父母は霊界に行くのです。人間たちは真の父母の代わりに地上で父母と一つになり、妻子と一つにならなければなりません。この愛、これを壊してはなりません。ここにひびが入れば大変なことが起こります。ここにひびが入るようになればすべてがどうなるのですか? 宇宙の力の世界から追放されるのです。

 愛の包括的な力の圏内から離脱するようになるときは、粉々に砕けるのです。どこかに行って存続し得る、歓迎を受け得る余地がありません。社会でもそうではないですか? 親不孝な子供になります。こういうことを見てみれば西欧社会は全部反対です。東洋に隷属させようとするので神様はそうするのです。

 キリスト教文化圏を中心にしてはそうすることができないのですが、終わりの日にすべてそうなっているということは、今日東洋を中心にして隷属させ、東洋が主体になるようにするためです。すべてそうです。分かりますか、何の内容か。

 私たちの主体思想が何ですって? (愛)。愛が何ですか? その中に神様がいるのであり、その中に真の父母がいるのであり、その中に自分のお父さん、お母さんがいるのであり、その中に理想的な夫婦がいるのであり、その中に理想的な子供がいるのです。理想的家庭がここから起こってきます。

 この家庭を中心にして、その家庭が核になって無限に発展させ、世界まで拡大させることができるのです。その家庭は、ただそのままで軸です。その家庭は、どこに行っても、神様の真の愛に包括された環境の世界では、全部排斥を受けません。保護されます。そこで不合格になれば追い出されるのです。宇宙力が反発します。それで父母がいなくなれば悲しいのです。妻が死んだなら夫が悲しむのです。宇宙の力が保護しません。子供が死ねばなぜ悲しみを感じるのですか? 欠如したからだというのです。

 愛を完成することができる道に一組の夫婦が欠如しているために、宇宙愛理想完成圏に符合できる要素が欠乏し、欠乏に比例してこれ自体が宇宙の運勢から追い出されるというのです。そういう人たちは上っつらを行くのです。因果法則において自分の父母から、自分の先祖から、良くないものがあるならすべて外部に持って出なければならないのです。こういう作用は、肺が作用するのと同じように、良くないものがあれば自然に外部に流れ出るのです。分かりますか?

 私たち統一教会の主体思想とは何ですって? (愛)。愛、皆さんその内容が分かるでしょう? (はい)。皆さんがどこに行ってもぴたっと立っていれば、そこから世界的に拡大します。

 こういう主体思想のもとで、愛を中心にして家庭的一つの確定内容を全体に適応する立場で、生涯を経ていかなければならないというのが、私たち統一教会の生活観です。このように見るとき、皆さんが今日まで生きてきた生涯自体は何のためですか? お金のために闘うでしょう? 経済問題のために闘い、その次に知識のために闘います。「あーあ、うちの女房は学校も出てないから離婚しなければならない」という親の子供たちは、これからすべて五体をちぎって死ななければなりません。天の愛の法には許しがありません。

 このように見るとき、今日統一教会が主張する愛は、理想的内容を備えた家庭と社会と世界と連結することのできる、神様が願う創造理想的思考方式から出発したものです。これが出発と同時に終わりまで行くようになれば、拡張されたので帰ってくるのです。集約されているというのです。集約されてまた拡散され、そうしながら発展するのです。

 皆さん、生活にこういう概念を植えて、そういう生活的な環境にこういう因縁を結ぶために努力しながら生きるようになるときは、神様のみ旨が皆さん自身の生活背景に成され、発展するのです。こういうことを知っているために、こういうみ言を話すのです。こうやって一度生きてみますか? (はい)。(一六四―九五)

 今日統一教会で主体思想を教えるでしょう? 主体思想がいったい何かというのです。全体に責任をもち、全体に与え、全体の行く道を開拓するためのものが主体思想です。これが原理観です。分かりますか? 皆さんは主体者になりたいですか、対象者になりたいですか? どちらになりたいですか? 郡にいれば郡の責任者にならなければならないのです。そうでしょう? (はい)。責任者たちではないですか?

 それなら、この東西南北区域を中心にして早朝の道を涙と共に何回歩いてみたのですか? その町内、その村の山に登って止めどもない涙を流しながら、誰がこの人たちを守ってやるのかとどれほど祈ったのですか? 問題はそこにあるのです。皆さんが涙を流すとき、霊界の先祖たちが涙を流してくれ、聖賢、賢哲たちが涙を流してくれ、そうなれば神様も涙を流してくれるのです。そのようにさえなれば、皆さんが行く道には、生きた役事、証拠的な役事がいくらでもあるのです。それで、皆さんが昼夜を分かたず三年続けて、一つの村とか一つの郡、一つの都市に影響を及ぼすことができなければ、その人は偽者だと見ています。(八一―三一五)

2 縦的主体とは

 縦的主体とは誰ですか? 神様を抜きにしては縦的主体は出てきません。良心の本郷の基盤が神様です。良心を根拠にした、個人の良心を中心にして神様を根拠にした家庭、神様を中心にした氏族、神様を中心にした民族、神様を中心にした国家、世界、天宙、このようになってこそ縦的基準に一致することができて、神様が上がったり下がったりすることができるのです。この縦的基準も授け受けする運動をしなければならないでしょう? 上下に回らなければならないのです。これが回れば球形になるのです。

 学校に行けば、学校の縦的代表者とは誰ですか? 縦的代表者は自分の教室に現れた先生です。その時間においては学生たちは、その先生の言葉を絶対に聞かなければなりません。横からこそこそする者たちは、全部破綻分子です。そういう人は落第する者たちです。落第生です。くず箱に入らなければなりません。

 皆さんはもうこの看板を一度知ったのですから、自分がどんな基準にパスすることができる資格者なのか分析してごらんなさい。縦横の原則を一致化させた位置に、家主として、または族長として、民族の代表として、世界の代表として、行ったり来たりすることができるのですか? 神様は宇宙の代表として行ったり来たりはしないというのです。千年万年、行ったり来たりしないというのです。変わるものがないのです。(一四八―二五)

 私個人が良心を中心として率いなければなりません。統一というこの「統」の字は何の統の字ですか? (率いる統の字です)。統一する統の字でしょう? どのように統べるのですか? (率いてです)。率いるということは、自分が絶対的な縦の位置で率いるのです。縦的基準なくしてどのように統一しますか? 皆さんは統一教会の信徒でしょう? 統一教会の信徒は手を挙げてみなさい。ここに統一教会の信徒でない人がいるためにこのように言うのです。分別も何もつかない老人たち、左手なのか右手なのかも分からずに、ただやたらに挙げるのですね。

 率いなければなりません。率いるということはどういうことでしょうか? 絶対的に変わらない縦的基準に立って春に率いることや、夏に率いることや、秋に率いることや、冬に率いることや、春夏秋冬は変わるけれども率いることは変わってはなりません。「あーあ、春になって縦的な位置がつまらない。ああ横の位置がどれほどいいか、縦的位置は嫌だ。横的位置に行く」と思ってはいけないのです。責任者はそうすることができません。(一四八―二二)

3 主体者の責任

 主体というものは生命の力が強くなければなりません。そうでなければ主体になれないのです。また主体というものが何かといえば、愛を内包しなければなりません。愛を内包しなければ主体になれません。相対を率いることができないというのです。同じです。中心になるためにも真理と誠にならなければなりません。中心になるためには愛がなければ駄目なのです。また、その次に責任者というものは、発展させ永遠を引いていくことができなければなりません。そうであるから誠でなければ駄目だというのであり、真なる生命と真なる愛と関係を結ばなければ責任者になれないのです。そうだと思いますか?

 ですからこのすべてのものを一度に選別することはできませんが、無難に直行することができる道を行こうとするなら、「ために」存在しなければならない、という結論が出てくるのです。「ために」生きるようになるとき、私がプラスのために生きようというのならば、マイナスの位置に従うこともでき、また、プラスの位置にまで上ることができるのです。いくらでも連結するのです。(一三三―三一)

 主体になるためには愛さなければなりません。分かりますか? 愛するために狂おうというのです。男性が女性を愛することでなく、男性は国を愛し、国の保障を受ける位置で女性を愛しなさい、世界の保障を受ける位置で女性を愛しなさいというのです。そういう立場にいる私たちの境遇であることを知らなければなりません。

 それで、反省してみなさいというのです。私は愛を受けるためにいるのではありません。統一教会の信徒も愛を受けるための輩ではないのです。愛するための輩です。分かりますか? 愛するための輩ですから、世の中の人々は愛を受けたいために、私たちをどこに行っても歓迎しますか、しませんか? どちらですか? 世の中の人々は愛を受けようとする輩であり、私たちは愛そうとする輩であるので、世の中の人たちは歓迎するようになっています。そこで優秀な人は愛するようになっています。私たちが行くところについてくるようになっています。(五九―五八)

 今日皆さんを見るとき、み旨を身代わりすることができる主体性をもって、責任をもつことができる人になっているのかというのです。皆さん、そうなっていますか? そういう人格をもつために、皆さんはもう一度生まれ変わらなければなりません。そうでなければ、皆さんは勝利者になることができません。全部が引っかかるようになります。(一七―五一)

 皆さんは責任者として自主的な主体性をもち、神様の牧者として心情的な主体にならなければなりません。神様を動員しながら活動する、そこに発展がないはずがありません。私は以前にも韓国を助けてあげましたが、アメリカに行っても韓国を助けてあげました。こういう信念をもって今まで生きてきて、そういうふうにしようとしました。今でもそうです。(六八―一一二)

 私はどこへ行っても、工場に行ったとすれば工場長になって働くのです。こういう信念がどれほど偉大であるかというのです。すべてのことに私が対することができるという信念は偉大な思想です。偉大な思想だというのです。「これを間違った、あれは間違っている」ということを知り、直ちに社長に会って「あなたの会社はこうです」と言えば、「おお、それがどうして分かったのですか」と言うのです。

「どうして分かったって? やってみたから分かるでしょう?」、こうなるのです。さあ、私たちの「ワシントン・タイムズ」が新聞オリンピック大会で一等になりました。その時に、私が責任者の立場で全部「ここを直しなさい、そこを直しなさい」と言いながら指導しました。こういう原則を知って皆さんが生活に適用するようになるとき、どれほど膨大な力の世界を自由環境としてもち得るかという、驚くべき事実を発見するのです。弱者になることができないのです。

 これを思うとき、先生が皆さんに「これ、教会に座っていないで地方の責任者に会い、既成教会の責任者に会いなさい」と言うのは、第二人者になりなさいということです。第二人者です。それもやらずにどんと座って、ムーニーでありながら仕事もせずに、責任者だというだけで、相対の前に主体格になれないで「主体だ」と言うので滅びるのです。主体の位置にいて、対象の前に主体の責任も果たせない立場で「主体だ」と言っていては滅びるのです。プラスがなくては発展できないのです。そうであるために、責任者は食口たちよりもさらに努力し、さらに活動しなければならないのが原理です。分かりますか? そうでなければ詐欺です。どろぼうになるのです。詐欺師です。(一三一―二二三)

 先生は八道江山(注:韓国全土)をたくさん歩き回りました。アメリカにも行ってすぐ、これから私が十年後には必ずこの地を踏んで……。国境が問題ではないというのです。ただ四十日を中心にして四十八州を「走れ、走れ、私の足が行かなければならない。山河草木よ、恋しかっただろう? 私がここに来たよ」と言ってすべての谷間、谷間に行き、できるだけ高い所に行って祈って……。そういう業をしなければならないのです。どこかサッと戸を開けて出るようになれば、庭が私を見てうれしがってくれるのを感じながら「来たのか! 私が一度出てみよう。私が行くよ、山にも行くよ」、そういう心にサッとなります。万物も主人を待っています。そうではないですか? 犬がいたならその犬が寒い冬、または暑い夏に飽き飽きするような夜を過ごしながら、主人が出てくるのをどれほど待つでしょうか? そのように寝ていた犬も、主人がすっと戸を開けて出てきたらいつのまにか尾を振ってサーッと走ってくるのです。朝、そうかそうでないか見てごらんなさい。どれほどうれしい表情をするか……。そういうことが分かるでしょう?

 同じだというのです。すべての山野を従え、そういう心をもって「あの谷間に私が一度行ってみなければならないのだが。煙立つあの谷間に村があるなら、あの村に一度行ってみなければならないのだが、いつか一度行かなければならないのだが」、そう思って行ったなら、既に霊界の先祖たちが天の貴賓が来るということで、その家の掃除をさせます。そうだというのです。何の話か分かりますか? (はい)。夢の中でみんな見て、何か知らずに「あ! 人がいないか? 誰か来るようだ」と言うのです。

 人心というのは天心と通じるのです。本然の心情世界には橋は必要ないのです。伝令者は必要ないというのです。それが何か知らずに「おや、人が来るようだ」と言うのです。私が考えるそのままに、そうなるのです。「誰か知らないけれど、うちに訪ねてくる人がいる」こういうことを感じるようになるのです。私がそのように心を決めていればです。毎日のように我知らず遠い山を見上げて、あのはるかな経路、谷間から回って出てくる道を見上げながら、我知らず待って……。そうだと思いますか、思いませんか? 父母が子供を待つのと同じように、子供を待つ父母は子供がいる所の地も愛します。同じことです。

 さあ、主人の責任とは何ですか? 主体者の責任とは何ですか? 「ああ、おなかがすいた。御飯、御飯……」こういう思いになるとき、必ずその町内に御飯を食べられない人がいないだろうか? 御飯を食べられない人がいるなら、私が昼食一食だけでも食べずに隠れてその家に行って、その家の子供たちに補ってあげなければならない、こういう心をもちなさいというのです。そういう心をもっていれば、その人は「御飯を食べない」と言っても食べられないようにはなっていないのです。御飯を食べないようにしても、しょっちゅう誰かが食べさせてくれるというのです。天地道理がそうだというのです。この宇宙は一つの中心を探してさまよっているのです。(八一―二九七)

4 原理的生活観においての責任者の立場

 責任者、主体というものは全体に責任を負わなければなりません。全体に責任を負い、その相対となる人たちが良い所に行くことができるように道しるべの役割をしなければなりません。道を整えてあげて、平坦な大路を整えてあげて、相対がまるでハイウェイを走ることができるようにしてあげればしてあげるほど、彼は偉大な主体です。簡単です。道理は簡単なものなのです。何の話か分かりますか?

 家に帰った時、妻がいくら横になってグーグー寝ていても、「私がきょう責任を果たせなかったので妻がこうなんだなあ」、こう思わなければならないのです。「私が責任を果たせなかったために待っていないのだなあ」、そう考えてみましたか? 食事も作らないで昼寝をしていてもです。そういうふうに考えなければなりません。対人関係も全部そう考えなければならないのです。

 初めて対する人が誤ったときは、私がこの人に何をあげ、何を投入したか考えなければなりません。そうすれば、失敗しても許してあげる天理をここから発見することができるのです。私が主体者として喜んで対してあげ、非常にうれしがることを願わなければならないのであって、そうしないでうれしがることを願うのはどろぼうです。どろぼうは別のものですか? 他人が苦労した畑に行って、苦労せずに取って食べるのがどろぼうでしょう? 悪はそこから生じるのです。

 こういう原則的な生活観において、皆さん責任者の立場がどういうものだということがもう確実に分かりましたか? 分かりましたか、分かりませんか? (分かりました)。分かったという人は、手を挙げてみよう。(八一―三〇五)

 責任者、主体者とはどういう人ですか? 全体に責任を負う人です。皆さんがその町内に行き「私がこの村内、この町内の責任者として来ました。天国実現のために神様が送ってくれた特攻隊として来ました。特攻隊として来て私は何をしたのか? この村に来て何を与えたのか? 主体者になったのか? 対象者になったのか?」。主体者になれず対象者にもなれなかったら、風に飛ばされず、落雷に当たって死なないでいるのが幸いだと思い感謝しなければなりません。

「この村が私の村以上の村であり、私が願った希望の故郷のようなので村人に会いたくて、朝に会ったら別れたくなくて、夕方に家に訪ねてきたらただ何かさらに与えたくて、夜を明かしてでも一緒に話をしたくて、行ってしまわなければいいのに」という心をもたなければなりません。心がそうでなければならないのです。なぜそうしなければならないのでしょうか? 何千年前に別れた兄弟たちであるからです。父母は死んだけれども何千年ぶりに、何十年、何百年ぶりに会った兄弟であるので、その情が心性を通じて直線に通じるようになるとき、そのほかすべてのものがみな通じるのです。

 ですから、責任者として人が来るのを「来るな」と言ってはいけません。私は何日もいないで本部に行きますが、そこで人が来て待っているのは事実煩わしいのです。今回も日本から帰ってきて夜も寝ることができないで、きのうの夕方には立って歩いているのか座っているのか分からずに過ごしてきました。時間がちょうど反対ではないですか? ここで寝る時はそこでは起きる時で、ここが起きる時はそこでは寝る時でしょう? 私は目を開けようとしているのに、しょっちゅう目がつぶれるのです。片目を開けていたら、片目がしょっちゅうつぶれるのです。何日間も寝ないからそうなのです。だからといって、寝なければならないと思いもしないのです。夜が早く過ぎてしまえばいいと思うのです。「この一時間にどうやって神様と心情的つながりを結ばさせてあげるのか」という考えをするのです。それが必要なのです。

 そうであるので、責任者が責任を全部果たせなかったら世の中にそれ以上恐ろしい罰がないのです。刑務所に入って、足かせをはめて座っているよりも恐ろしいことを知らなければなりません。責任を果たせずにどのようにして壇上に立ち、責任を果たせずにどうやってその村の人に厚かましく話しますか? 涙のほかに流すことのできない心情になってみなさい。そこから本性的因縁が出発するのです。(八一―三一二)

5 中心存在としての主体の使命

 主体は何をしなければならないのでしょうか? 主体には保護の責任があります。またその環境で位置と方向を設定してあげます。そして、決定し防御し責任を負わなければなりません。(一九七八・三・一九)

 中心存在とはどういう者でしょうか? 第一に保護の責任、第二に保護の能力をもっているのです。ある醜い男性がすてきな女性の前に立ったとき、危ない目に遭ったなら、そのすてきな女性の脇にサッと隠れますか? 考えてごらんなさい。ああ、美人で背も高い女性が危ない目に遭ったなら、醜い男性の後ろに隠れますか? 女性たち、どちらですか? 女性がいくら大きく美人だとしても男性の後ろに隠れます。それは保護を受けるということです。それが自然的表現であり、順理的表現です。中心存在は責任を負わなければならず、保護しなければならないのです。

 また中心存在は第三に、動くにあたってリードするようになっています。道を選んであげるようになっています。そうでしょう? 知っている人が道案内をしないで、知らない人が道案内をしますか? そうではないですか? さあ、女性は博士で男性は小学校しか出ていません。ところで、山に登るとき博士である女性が先に立とうとしますか、小学校しか出ていない男性が先に立とうとしますか? 普遍的に十人ならば十人がすべて、博士である女性を無視して、男性が先に立とうとするのです。そうなっているでしょう? 中心存在はリードする責任があるのです。どこに向かってですか? 正しいところに向かってです。

 統一教会の中心存在は誰ですか? (真の父母様)。真の父母は先生です。同じ道理です。文先生という人は統一教会に対するすべての責任を負います。良くても悪くてもです。統一教会の信徒たちの中には、私より年が上で立派な人が多いです。そういう意味で、良いことや悪いことを直ちに誰に話さなければなりませんか? ある人が責任者だといって、一人でするならそれは偽者です。四肢の中心は頭ですから、頭を全部通過しなければなりません。通過しないものは死んだものです。存在価値がないというのです。

 ですから中心存在は第一に責任を負わなければならず、第二に保護することができなければならず、第三に指導することができなければなりません。(一七三―二四六)

 

 中心というものはすべてのことに責任を負うものです。中心というものはすべてのものを与えられなければなりません。中心は責任を負わなければならず、保護してあげられなければなりません。(一三四―三一七)

 女性と男性を中心にしてみるときも、夫と妻は同じ位置に立ちます。二人がいいと言いさえすれば同じ位置に立つのです。しかし横的基準においては同じ線に立ちますが、縦的基準においては誰が平行基準を合わせなければならないのでしょうか? 女性ではありません。男性です。ですから男性は右側に立ち、女性は左側に立つのです。

 主体は副体(対象)を保護しなければなりません。保護する責任があるのです。その次にはどのようにしなければならないのでしょうか? 導かなければなりません。正しく行くことができるように方向性を提示しなければなりません。それで妻は夫の言葉を聞いてはいけませんか、聞かなければなりませんか? (聞かなければなりません)。夫が雑種の犬のようになって全く横的基準しか知らず、自分の下腹だけを神様以上に信じて絶対視するなら、そんな種類の夫は信じなくてもいいです。しかし良心をうんぬんし、家庭を心配し、社会を心配し、国を心配する心をもった夫なら、その妻はその夫と歩調を合わせなければならないのです。夫に従っていかなければなりません。(一四八―一七)

6 主体を中心にした対象圏の創造

 見なさい。統一教会に入ってきたある人は「私は大学を出て知識階級で鋭利で賢明であるために、統一教会のレバレンド・ムーンのように愚直な苦労は絶対しない。こうやってスルスルと行く。レバレンド・ムーンは愚直な人だ」と言ったけれど、誰が鋭利で、誰が知識があって、誰が賢明な人かというのです。今になってみれば彼らはみな転がって落ちてあの落葉のようになりましたが、転がり落ちると思っていたレバレンド・ムーンはあの頂に実を結んだ枝になっているというのです。彼らは転がり落ちてしまいましたが、レバレンド・ムーンは世界が欽慕することのできる人物になっているのです。

 どうしてそのようになったのでしょうか? 環境には主体・対象関係があるという事実を知っており、主体、対象にプラスすることのできる発展的な変化過程を経ていくからです。こういう哲学的な生活観、宇宙作用観をもっているので、滅びるようですが発展するのです。発展しないわけにはいかないのです。私の理論が間違っていない限り発展するのです。

 それで本心は知っているというのです。強力なプラスが誰かといえば神様です。そうであるため神様を探していくことができる中間媒体にレバレンド・ムーンを立てたなら、その良心は自然にレバレンド・ムーンを考えずにはいられないのです。しきりに行くのです。体はこうしてしきりに行くというのです。そういう作用をするのです。(一三一―二二二)

 先生のような宗教指導者が酒屋に行っても反対しないのです。そこにいる人たちを全部料理しようとすれば、そこの主体を料理しなければなりません。また主体が必要なものは対象ですから、その人たちを引っ張り出すためには、その中で一番上を行く人以上の業をすれば、自然に引っ張り出すことができるのです。社会学的哲学観というか、こういう観点で見るとき、統一教会はどのようにして発展するのでしょうか? こういう原理の適用を通して発展してきたということを、皆さんは知らなければならないのです。

 神様が再創造歴史を通して主体と対象の関係を連結させていくので、私が主体的な一人の男性として神様を代表する位置に立ったというときは、再創造をしなければなりません。これと同じような原則を通して再創造をしなければなりません。それではどうしなければならないのでしょうか? 一つの相対圏を再創造するのです。誰かに会ってもてる精誠をすべて注いで、自分の分野に該当する環境の対象圏をつくるなら、それは永存することができる理論的基台の上に立つようになるのです。

 さあ、それではその過程において何を中心にするのですか? レバレンド・ムーンを中心にするのではありません。創造した神様の心情、愛の理想を完成させて、愛の目的を完成させる心情的基準を中心にして主体の位置に立たなければならないのです。このようになれば堕落したとしても、本性の存在はその心が主体の心情圏に吸収することができる自然的な力をもつようになるのです。そのように連結されるのです。何の話か分かりますか? そういう環境でそういう対象圏をつくるためには、二十四時間すべての主力を注ぐのです。神様が創造したのと同じようにです。

 それで個人相対圏をつくり、その次に家庭相対圏をつくるのです。それが原則です。家庭という環境ならば、世界歴史時代においての堕落圏の家庭ではなく、神様を中心にして創造しようとした家庭です。その家庭を中心に据える基準の位置に主体として立てば、それは神様を中心に据えた家庭基盤の上に対象圏、環境圏が造成され、氏族圏を編成することができるようになるというのです。(一三五―一七七)

 統一戦線守護の方法は私を越えて天が協助することができる、すなわち私に天が力を注がれるのでなく、私によって相対に力を投入させることができる立場に立つことによって、私がいる環境に守護圏が起こってくるということを知らなければならないのです。ですから、いつでも神様と一つになっていると考えなさいというのです。伝道しに行っても神様と共に行き、話すのも神様と共にすると考えるのです。御飯を食べるのも寝るのも、全部神様と共に暮らすのと同じ心情をもってやりなさいというのです。そういう生活をしてみた人は、既に悲しい人に会えば悲しくなるのです。神様が感じることを感じることができるのです。それが体恤です。その体恤圏に入らなければなりません。体恤圏に入らなければならないのです。

 ある都市に行くか部落に行けば、その部落がどうだということが直ちに分かるのです。そういう部落に行って、ある高い所に登って精誠を込めて祈祷しながら歌を歌えば、その部落の心ある人たちは探しに上がってくるのです。完全なプラスがあれば完全なマイナスが生じなければなりません。それが原則だというのです。

 皆さんが伝道をするにも何をするにも祈祷し、精誠を込めていくようにすれば、既に見せてくれるのです。どんな人に会うだろうということを、みな見せてくれるのです。皆さんが伝道にさっと出れば、思いもしない所にしきりに行きたいのです。そこに行ってみると、神様が愛する人に会うのです。そういう体験をするので「神様がいる、いない」と話すことができないのです。(六九―二八八)