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1 人は刺激を受けてこそ発展する
人が発展するためには、また、ある目的を達成するためには、必ず刺激を受けなければなりません。一〇〇という目的を達成するためには、一〇〇ほどの決心がなければならず、それほどの時間的距離を通じなければなりません。すなわち、ある期間を経なければならないというのです。その時間を経ていくには、推進力がなければなりません。その推進力は、時々刺激を与えてこそ生じます。(三一―二七三)
人は刺激がなければ発展できません。人には刺激が必要なのです。現在の立場で、刺激を受けられない人は、発展しないのです。刺激を受けようとすれば、新しい熱意がなければなりませんが、その熱意は、一人でいれば生じませんし、相対的関係が成されていなければ生じないのです。皆さんは、それをはっきり知らなければなりません。主体と対象の関係をもたなければ、熱意をもつことはできないのです。(三六―一三一)
いつでも、刺激を受けなければなりません。刺激は、今よりもいい刺激を受けなければなりません。それはどこで補充されなければならないのでしょうか。食口たちでなければ、神様から補充されなければなりません。国民でなければ、国王であるとか、天からしか刺激を受けるところがありません。それゆえに、天に食口と両手をつかんで行かなければなりません。そうでしょう? それ以外にどこにありますか? そこに食い違うようになれば、み旨に背反するようになるのです。
大きな目的を達成するにあたって、十年に成されることならば、それを十年間引っ張っていこうとすれば、十年間毎日のように刺激させてあげられる原動力を補強できなければ、疲れてしまうのです。そうでしょう? ある人は、三年ももたず疲れてしまうのではないですか。それは何かといえば、刺激が切れてしまってそうなのです。(五六―五七)
2 神様を中心に新しいものを刺激できなければ
今日統一教会の食口たちが、日常的生活感情から外れ、毎日のように新しいことを追求していき、その基盤の上で、神様が協助してくださるということを実際に体験する人がいるならば、その人は無限な発展をするのです。(三〇―一三一)
皆さんが、環境的な面で、善の実績を積み、新しい感動の実を喪失せず、常に新しい場を培っていけば、そこには必ず無限な発展がついてくるというのです。
そうするところには、男性、女性は問題になりません。もし探す人がいないならば、幼い子供たちでも集めて、童話を聞かせてあげ、童謡を歌いながら、その環境に酔うことのできる新しい刺激を感じなければなりません。それを感じれば、その場にも、神様が共にあられるというのです。そのような新しい刺激をもつために皆さんは生活の中で、続けて新しい分野を開拓することのできる仕事をしなければならないのです。そうしなければ、新しい発達をもたらすことはできないのです。(三〇―一二四)
神様だけを中心にして自分が、新しいことを刺激できる生活を直接経験しなければなりません。そのような心情を感じながら活動をするようになれば、そこには必ず繁殖が起こるのです。そうすれば、発展するのです。生きている木には新しい芽が出るのです。きのうときょうは違うというのです。そこには必ず生命力が躍動するのです。反面、根がない木は死んだ木です。きのうときょうは違って発展するのです。(三〇一―一三三)
新しい分野に、新しいことを創造する創造主の心情を身代わりする立場に立って、無限なる価値を高める、新しい基準を模索していくのに、自分が功労者になると決心し、行かなければなりません。そのような人になるなら、彼は決して滅びないのです。彼は天が共にあるので、常に発展するのです。分かりますか? (はい)。(三〇―一五五)
先生が自信をもったことは、「私が決定して判決したことは、私個人の立場だけではない。これは成されるのが当たり前だ。いくら反対しても、反対するところには順応する男ではない」ということです。そのような歴史的な伝統をもっている男だということを、皆さんは知らなければなりません。何のことか分かりますか。
そのような、生活基盤がなければなりません。私が一人でいれば、他の空想をしません。一人でいれば、直ちにみ旨を中心として、「このようになり、このようになるだろう」という考えをたくさんします。そして「父よ、この問題は、このようになるのではありませんか。このようにならなければならないのが、あなたのみ旨の前に合う原理的な見解ではないのですか。これは、このように転換させなければならないのに、ここには、このような人がいなければならないのではないですか」という考えを誰よりも多くする人です。皆さんが見るときには、そのようなことを考えない人のようでしょう? いつも考える時間をもつのです。ゆえにできれば、清平のような所にしょっちゅう行くのですが、その時間がとても楽しいというのです。
昔精誠を尽くしたそのような時、天と共に談判し、天が選んでくださるすれすれの境地で戦った気分、そういう気分をいつでも回想しなければなりません。それを忘れてはいけないのです。雨が降る日ならば、雨の降る日の記憶がなければならず、日が昇る日なら、日が昇る日の記憶がなければなりません。歴史的時代に、自分が天と共に関係を結んだ心情を、その時の環境で感じられるように、いつも反復させながら、生活において刺激を受けなければなりません。刺激がなければ、発展できないのです。(五六―五六)
3 間違いも一つの刺激の要素になる
間違いは、悪いことではありません。間違えれば、ここに新しい刺激を受けて、ジャンプできます。刺激を受けて、善良に飛躍できれば、間違いもいいのです。勉強ができなくて、落第をしても、私が一度落第することによって、優等生になることができます。
「こいつ、何をしたら落第して同僚の中で最高になれず、こうしてどうしようもなくなったのか!」と言うのですが、落第をすることによって、それが刺激になり、衝撃になって、他のほうに飛べば、落第したことが、むしろ善なる道に導く結果となるのです。行くとき、直線で行くのは大変です。こうして行くのに最善を尽くさなければなりません。(一〇〇―八八)
4 主体的立場で環境を引っ張っていかなければ
皆さんは、一つの核心的な喜びの刺激を通じ、環境圏の中のすべての要件を吸収し、発展しなければなりません。そのような場では、神様を見て「離れろ」と言っても、離れないのです。ある発展的な要因を経て、時間と現実的舞台を打開していくというときには、神様が離れないというのです。その人は、必ず神様の胸に帰ってきます。また帰ってこなければなりません。そうしなければ、神様のみ旨は成されないのです。(二九―二四四)
環境を革新しなければなりません。子供のいない静かな所とか、そうでなければ、聖地を探していつも祈祷する時間をもたなければなりません。ゆえに、自分の内的分野において、自ら刺激を受けることのできる、主体的な場を決定しなければなりません。そうできなくて、今までの習慣的な生活環境にそのままいたのでは、自分の発展を期待するというのは、妄想だというのです。それゆえに、常に新しい要件を介入させなければなりません。(三〇―一二五)
5 牧会者が発展しようとすれば
先生は今まで、韓国にいる数多くのキリスト教徒、その誰よりも神様の前に精誠を多くささげました。心情的な人は、発展するようになっています。個人的な心情から、家庭的な心情、民族的な心情、世界的な心情へ発展し、体恤するようになっています。ゆえに心情をもって、さらに精誠を尽くす人がいるときに、神様はその人にすがるのです。そうでない人にすがっては、神様は作戦をすることができません。
天国の保衛の命令を受けた立場に立って、自分の位置をどのように信仰的に引っ張っていくのかという問題が、何よりも大きな問題なのです。(二五―三一八)
金イルファン! (はい)。口は治りましたか? うん? 手術したのですか? (しませんでした)。うん? (手術しませんでした)。支障はないのですか? (はい)。ところで声が死んだ者の声のようです。(のどがかれました)。そうか……良かったな、お前の嫁さんがかわいそうだ。だが、このごろはどうですか? (元気でおります)。元気でいるのか? 嫁さんが、泣いて回っていたが……よかったな。一生懸命やりなさい。
教会が随分復興しました。哀切な思いをもたなければなりません。哀切な思いをもって、人の分からない涙をたくさん流さなければならないのです。皆さんが道を歩いていても、さっと見れば、自分の心を抑制することができないように、電柱にすがって、自分を制裁していく生活が連続されなければなりません。先生がそうなのです。アメリカの五十州に出入りしながら、そういった祈祷をするのです。そのような祈祷をすれば、天の軸が花を咲かすのです。それゆえ、祈祷をするために続けてするようになれば、その戦いは、どっちみち神様が勝利で刈り取るのです。(一四五―一一九)
原理的に動かなければ、発展しないのです。それゆえに統一教会の原理は、妄想的な原理ではありません。科学的な原理です。現実にそのようにならないのなら、発展しません。神様が運行されないのです。(五六―三四六)
率直でなければなりません。ぐずぐずして、隠そうとする人は、発展しません。しかし、率直な人は発展します。この宇宙が押してあげるので、発展します。どこに行くのにも宇宙が押してくれるのです。そのような東洋や西洋や過去や現在や未来を問わず、率直な人はみな、友人になるのです。(一〇〇―八八)
どういう人が発展するかということは、周囲からその人に、どの程度関心をもつのかということから分かります。その人に周囲の関心が消えてしまえば、いつか彼は折れてしまい、いつの間にか関心を受ける第二の人物が登場します。(一七―三三三)
人は意欲がなければなりません。仕事をする時にも、きのうよりきょう、もっとやり、きょうよりあす、あすよりあさってに、よりやらなければならないという意欲がなければなりません。そうしてこそ、発展できます。(二一―九一)
すべての努力を自分の発展のために投与するのが目的であって、他のことが目的ではありません。責任遂行の過程で他人が分かってくれるのを望むのは、愚か者です。お祝いごとをしている家に行って、もちをくれるかくれないかも分からないのに、「先にキムチのつゆをくれ」と言っていいのですか。考えてみてください。御飯をくれるのかくれないのか分からないのに、はしから引っ張り出していいのですか。人は礼儀をもって生きなければならないのです。皆さんはそれを知らなければなりません。(二三―一四六)
秋になれば、春を迎えるために準備する心をもった人は、発展し、育つのです。死んだ人は、秋になったといっても、春を迎える準備をしないのです。しかし木は、秋になり、葉が落ちれば、春を迎えるようになるのです。分かりますか? それを知らなければなりません。いくら、寒い冬が来て、冬の風が吹いてきても、それに耐えてこそ、新しい春を迎えることができるように、私たちにいくら大きな迫害があったとしても、それは問題ではありません。死地に生命のいかりを下ろすことのできる自信がなければなりません。そのためには、私を自ら否定しなければなりません。(四一―一五〇)
復帰しようとすれば、一つから二つ、それゆえに、一番下から出発しなければならないと考えなければならないのです。もしそれが駄目ならば、早くして上らなければならないと考えなければなりません。「早くしてニューヨークに入らなければならない。ニューヨークに行こう」と思わなければならないのです。行くのに三年なら三年、五年なら五年以内に行くと、各自が定めなければならないのです。そういうものをもっていますか、もっていませんか? そういう何かがなければならないのではないですか。「七年という歳月がかかっても私は行く、その時になれば、私が七年間準備したそれを使うだろう」という信念をもたなければなりません。「七年間かけたすべてのことは、私のこの時を得るための準備だった」。こういう人は勝利する人です。その間、私が戦って勝ったことをみな条件として立てて全部合わせ、集中攻撃すれば、爆発して出ていくのです。これを知らなければなりません。
早く成功しようという人になるなというのです。成功して、後始末をできない人になってはいけません。しかし遅く成功しても、成功したのちに、子孫にそれを続けられる人になれというのです。そういう成功を望めというのです。そうするためには、着実に磨いていかなければなりません。着実に磨いていかなければならないのです。(六六―一一一)