P.604

四 教会の発展と牧会者の責任

1 間違った過去を清算せよ

 私たち、統一教会の現在の立場を見れば、今まで責任者たちがしてきたその活動方法をもってしては、今後、革新的な発展を期待できないのです。昔の思考方式と、昔の生活態度、あるいは昔の伝道方法や、信仰姿勢をそのままもっていてはいけないというのです。なぜそうなのですか。今までそのような方法で歩んできましたが、今日期待できる結果をもたらすことができなかったからです。良い結果をもたらしたなら分かりませんが、そうでない立場にいることを、私たち自身が公認した立場で見る時、過去と同じような信仰姿勢、生活態度、伝道方法から外れ、新しく、変わった姿にならなければいけないというのです。それゆえに私たちが、新しい信仰姿勢、新しい生活態度、新しい行動を示さなければ、新しい発展をもたらすのは難しいと見ます。(三〇―一二〇)

 先日までは、私たちはそれなりに生きてきましたが、それなりに生きていくことによって、歴史的な勝利は私たちの前にもたらすことはできないということを、皆さんは知らなければなりません。

 習慣的な弊害を一掃してしまった革新的な信念の前に、新しい自我を自覚された基盤を確立させて、主体的な強い姿を現し、天と共にぶつかるようになる時、ここから新しい創造の歴史は現れるようになるのです。どの時代でもこのようになる時、新しい創造の歴史が現れたということを、皆さんは知らなければなりません。

 それゆえに皆さんは、弊害的な習性を打破してしまい、新しい意味の主体的な内的因縁を確立して、主体的な開拓者として、環境を打開するにあたって創造者となり、犠牲者とならなければいけないというのです。そうしなければならない時ではないか、ということを感じるのです。(五六―三四三)

 発展は、私たちに一番必要なものです。しかし、その発展を追求する前に、自分の中の純粋性を、どのように達成するのかということが、より問題です。ゆえに、皆さんには祈祷する時間が必要なのであり、精誠を尽くす時間が必要なのです。祈祷はただしてはいけません。過去を清算し、ささげなければなりません。過去の意識が残っているなら、その意識が、私をどこに引っ張っていくのかという考えをしなければいけません。過去の意識に私が陶酔し、どれほど強い立場に立っているのかという問題において、過去が純粋だったのかと、批判しなければならないというのです。純粋な立場に立っていれば善だったかということを批判しなければならず、現在そのような立場に立っているのかということを批判しなければなりません。また、私が望む願いが純粋なのかということを批判しなければならないのです。

 では純粋な善の立場とは何なのでしょうか。自分のためにある立場にあっては、純粋な善は存続されません。善は自分を強化させるところには、存続されないのです。なぜ存続しないのでしょうか。善というものは神様に侍るための一つのパターンであるからです。善の中で、神様に侍るということは、善の主人として神様に侍ることなのです。善の主人は堕落した人間でなく、神様なのです。(三六―一〇六)

2 教会は牧会者にかかっている

 皆さんも、地方に行って伝道する時、まずその村の人たちと、内的な面で一体を成さなければなりません。内的な一致とは、心情統一をいうのです。その次には、生活統一、理念統一の基準を連結させていかなければなりません。

 皆さんは、現実的な舞台で、神様を中心に、心と体が一つとならなければならないということを知らなければなりません。すなわち、神様と心が一致したそこに、体が屈伏しなければならないというのです。そうしてこそ蘇生、長成、完成の三点を連結させられるというのです。個人的にそのように行くだけでなく、この民族をそのように引っ張っていかなければなりません。

 皆さんは、この時代について、神様のみ旨があることを知って、この村について責任をもったならば、そこで終わると考えずに、一段階高めて、その面に責任をもつと考えなければなりません。その次に、その面に責任をもったなら郡を引っ張って越えていかなければならず、郡に責任をもったなら道を率いて越えていかなければならず、道に責任をもったなら国家を率いて越えていかなければなりません。一段階前において、進まなければなりません。戦いの舞台は個人的な戦いの舞台ではあるが、心と信念は国家を中心として越えていかなければなりません。そのような立場に立ってこそ、霊的にでも天の今後の道を準備する場に、とどまることができるというのです。天が準備した基台の上に、相対的な条件でも立てられるというのです。

 それゆえに、皆さんが発展するかしないかということは、皆さん自体にかかっています。皆さんが個人的な戦いをする時には家庭を考えなければならず、家庭的な戦いをする時には氏族を、氏族的な戦いをするときには民族を、このように国家、世界的な戦いを展開していかなければなりません。このように、戦いを前に置いていく人、一段階前に出た戦いの舞台を考えて、準備する人は絶対疲れることはできないというのです。私たちは、そのような精神をもたなければなりません。(一三―三〇二)

 統一教会が、今まで発展できなかった原因も、全く同じです。教会がなぜ、発展できないのですか。各教会に責任をもった者が、激動するその環境で、主動的な役割を成せなかったからです。環境を消化して未来に向かうことのできるイメージを、植えつけてあげられなかったというのです。「彼らを探していくことによって、韓国に理想が訪れるであろうし、神様の摂理の中に勝利の基盤が教会に来る」というビジョンを確実に、植えつけてあげられなかったというのです。それは人格不足です。(一九八六・五・六)

 地方に出ている皆さんが、開拓者の使命を成さなければならない立場で、不平を言ったなら限りがないのです。不満を感じようとするなら限りがありません。み旨について半信半疑なら限りがないのです。反抗しようとすれば限りがありません。限りがないので悪いのです。それゆえ、不平不満を言わず、半信半疑でなく、反抗せず、絶対に信じて、絶対に順応しなければならないのです。そのようにするのが、神様の代わりに事を成せる場を守ることになるのです。

 そのように進む道には必ず復興があり、必ず繁殖が起こるというのが原理的な見解です。それならば、神様のみ旨を多く代行し、神様の仕事を多くの分野で身代わりできる立場はどのような立場でしょうか。その立場は、とても難しい立場です。難しい立場から極めて大きいことのためになっている立場が、神様のみ旨を多く成せる立場ではないだろうか、このように見るのです。(四四―一三)

 教会が発展する原因はどこにあるのでしょうか。また、神様がこの地上に摂理の役事をしてこられる中において、踏み台を築いて現れる、原則的な基準はどこにあるのでしょうか。もし、それが教会長にあるとするなら、教会長はどのようにしなければならないのでしょうか。祭物的過程を経ずしては行けないのです。自分と一つになった相手があって、彼らが代わりに苦労し、犠牲となるならば、彼らを通じて祭物をささげることができます。(四七―二九四)

3 原理講義についての計画と、実践が重要だ

 今まで私たち統一教会が発展できない、その原因はどこにあったのでしょうか。第一の原因は、地域なら、地域本部が拡張されないところにありました。なぜなら、地域本部が、都市や村の中央に場所を借りていても、契約期間が過ぎれば引っ越さなければならなかったからです。ところで経済的実情をおいて見るとき、年が変わるにつれて、お金の価値はだんだん落ちていきます。それゆえ、三十万ウォンで得た所が、一年後には五十万ウォンでなければ、そのような所を得られなかったというのです。このように年ごとに一度ずつ家賃が上がるので、経済的な負担が加重され、そうしているうちに地域本部を移さなければならなくなったのです。ところが、移る場所がより良ければ幸いでしたが、市内から外れた所に行ってしまうというのです。市内にいる時に食口たちを確保しても、町外れに引っ越せば、従っていた多くの食口が離れてしまう結果をもたらすようになるのです。これが、教会が発展できない第一の原因でした。(二九―一八五、一九七〇・二・二八)

 二番目は何ですか。皆さんの実力不足です。もう一度言えば、指導者として計画性ある生活体制をもてなかったというのです。自分が置かれている郡に十個の面があれば、その十個の面を中心として自分なりの計画がなくてはなりません。また面なら面の所属された部落を中心に計画がなければなりません。それで、郡なら郡に影響を与えることのできる面、あるいは、面なら面に影響を与えることのできる部落を中心にして、数を増やすための、すなわち伝道をするための計画を立てなければならないというのです。それゆえにその計画を成すために努力をしなければならないのです。

 では、その計画を実践する方法とは何なのでしょうか? 一番目は原理講義です。私たちのみ言を宣布しなければなりません。ところで、今まで皆さんが講義するのを見れば、部落部落に行って部分部分、少しずつ講義していますが、大多数の人が講義する範囲が限定されています。すなわち、皆さんが原理講義するのを見れば、前編の創造原理を少し講義し、終末論と再臨論を少し講義するようにしています。そのようにしてはいけません。自分が計画した方法を遂行するために、どこどこに行ったなら、どんな講義をするのかという計画を立てて、『原理講論』の前半後半、全部を講義することができるようにしなければなりません。このような計画を立てて実践しなければならないというのです。これが、皆さんに全般的に成されていないことです。

 一年なら十二カ月、そのうち一カ月なら三十日、その三十日の中に十カ所なら十カ所、十カ所が駄目なら七カ所でもいいです。とにかく自分が計画した所に行って、原理講義をしなければなりません。講義をするのに、内容を互いに変えていきながら講義をするのです。そのようになれば、一年、十二カ月、一カ所で同じ講義をしなくてもいいし、他の所で他の講義ができるというのです。このようにお互いに数を変えて講義をすれば、『原理講論』全体を講義することができます。このように、『原理講論』の前編、後編を十二編なら十二編に分けて計画を立て、その計画に合わせてずっと講義をしなければなりません。そのようになれば、皆さんの原理の実力は相当につくのです。

 ところが皆さんは、習慣的方法と態度で講義をしています。自分の得意な分野だけ自信をもって講義して、それ以外の分野と連結して講義できなかったので、おしなべて発展できなかったというのです。

 それなら、このような欠如した分野を補うため、郡なら郡、特定地域を中心に、計画を立てて講義しなければなりません。原理を宣布するにあたっても、作戦計画を立ててやらなければなりません。原理の一節で、全体を応用することのできる講義方法を模索しなければなりません。そのためには、『原理講論』の前編、後編について、よく通じていなければなりません。そうしようとするならば、講義をたくさんしてみるしかないのです。

 いつも、同じことだけ言っていては駄目です。講義する時、対する相手が、その地域が違えば、そこについての題目を決め、話す内容も別にしなければなりません。そのためには、そこに関連したすべての本を購入して、研究しなければなりません。ゆえにそこについての深さと、広さと、高さをどのように補強するのかという問題を中心に、計画を立てていくなら自動的に発展します。このように計画的な方法で講義できないことによって、大多数の人たちが、発展できず停止状態にいます。このように数年ないし十数年過ごしてこなかっただろうかというのです。

 皆さんが今回帰ったら、過去に活動した方法や認識観念を、完全に新しくしなければなりません。地域長たちは、その郡の地図を見て、郡内に自分が行かなければならない所が、何部落になるのかということを把握しなければなりません。大体二百部落、多ければ三百部落くらいになるのです。その次に計画を立てて、部落部落にみ言を伝えなければなりません。そうすればその部落には、神様が既に準備しておいた先祖の功労で成された基盤の上に、私たちのみ旨の前に連結される人が必ずいるというのです。ゆえに、このような人は神様の前に立てるための責任をもち、皆さんがそこに奉仕している間、必ず三回以上は行ってみなければなりません。このような計画を立てて、どのような困難があっても時間を取って、巡回講義をしなければなりません。

 そのようにして、一次巡回講義をすると、次の二次巡回講義は、一次巡回講義の時より多くの時間は必要ではありません。二次講義からは具体的な内容が必要です。組織を編成するのです。すなわち講義を聞いて、反応を示す人がいれば、帰って、その人たちに手紙を出すのです。手紙を通じて関係を結んだのち、私が前にうかがった時は世話になりましたが、今回はいついつうかがいますから村の人を集めてくださいと頼むのです。そのようにして、再び講義をする時には、前に講義した内容は講義せず、他の内容をもって講義するのです。(二九―一八六)

4 蒔く責任者より育てる責任者となれ

 私たちの教会が、発展できないもう一つの原因はどこにあるのでしょうか? それは伝道した人に、最後まで関心をもってあげられないことです。伝道した人たちについて、時が過ぎるにつれて、少しずつより関心をもたなければならないのにもかかわらず、伝道する時は関心をもつけれども、伝道をしてからは、無関心になってしまうというのです。これは伝道した人を殺す立場です。殺す立場だというのです。少なくとも三年までは、どんな時でもいとわず関心をもってあげなければならないというのです。

 なぜそうなのでしょうか。その人の心霊程度が徐々に発展するというのです。初めて原理を聞いた時と、一年後の立場が違うというのです。一年が過ぎていけば、原理の内外についての立体的な内容を理解するようになります。それを理解すればするほど原理について知りたい気持ちが、より性急になってきます。ゆえに自分を指導できる人と接近したくなるのです。このように食口になったことを考えれば、ここに時間をもっと投入して、細かい計画を立てて、内面的に渇望する、その心を解決してあげなければなりません。ところが、そのような努力はせず、食口になったから、「もう、あなた一人で勉強しなさい」と言ってはいけないのです。食口の因縁を結んだ人には、少なくとも三年間は関心をもてというのです。一年たった食口と二年たった食口が、み旨に従って正常的な道を行こうとする時、一年たった人よりも二年たった人が、より細部的に深く入っていくというのです。細部的に熱烈にすべての分野に加担したがります。そのような彼らを見守って育ててあげなければなりません。

 この本部教会も、それを成せませんでした。今まで多くの人が来ては去りました。初めは彼らに教会員になれと、原理をさっと紹介しておいて、その次に来れば無関心だというのです。伝道されたその人は、原理が素晴らしくて、み言を聞いた余力によって、大体六カ月から一年くらい教会によく通います。ところが、自分を指導してくれる人、責任者がいないというのです。これを、原理講義をする人が加わって教えてあげなければなりません。一年くらい過ぎれば、原理を理解する範囲が広がるというのです。体恤する範囲がだんだん広く、深くなるというのです。それで、原理についての内容をより知りたいのだけれど、これを教えてあげられる主体者をもてないので、これについての気がかりが詰まって、ここにおいて、教会員たちの自分についての無責任性を感じるようになるのです。これが一つ、二つ、三つと増えていけば、自分自身を再批判するようになるのです。そうして、多くの人を落としてしまう結果をもたらすようになるのです。

 地方でも、これと同じような現象が起きてはいないだろうかというのです。伝道する時は一生懸命したけれども、いったん伝道され、教会と因縁が結ばれれば、無関心になってしまうというのです。しかし、彼らを少なくとも三年間は連れて歩きながら、教えてあげなければならないというのです。それで、彼らが疑いをもつことや、環境的に難しい立場に立つようになれば、これを原理的に解説してあげ、原理的に理解させ、公式的な発展がこのようになっているということを理解させてあげなければなりません。そうすれば彼らは、この原理が深い意味をもっており、偉大で、とてつもなく素晴らしいということを感じるようになるのです。それにもかかわらず、関心を与えないために、そのような刺激的な体験ができる環境をすべて失ってしまうというのです。それで、最初に原理を聞いて受けた感銘が、長く続かないというのです。これは、朝御飯を食べたけれど、昼食の時間になればおなかがすくのと全く同じ道理です。感動を受けたことが長く続かないというのです。それゆえに、継続的な指導をしなければなりません。自分が責任をもてないのなら、今までその人を育てた心情基準以上に連結されているという、自分の代身者を立てて、彼につなげてあげなければなりません。

 この実際の例を挙げてみれば、今回婦人たちが、地方に伝道に出掛けていって、報告する内容がこれでした。ある婦人の報告を聞いてみると、前にある村で、高校出身の青年男女三十余名が、死ぬか生きるかして、み旨についてくるようになったというのです。この人たちに火がついて伝道しようとするのですが、四十日くらいたつと、帰ってきてしまったというのです。そののちにも、手紙を一カ月に一回ずつでも出して尋ねながら活動したなら、一人も失わなかったのです。ところが約十年くらい、ほっておいてから行ってみると、みな落ちてしまっていたというのです。また、そこに後任者たちが行ったり来たりしたのですが、開拓者に連絡して、誰々はどういった立場で、誰々はどのように指導しなければならないのかを調べず、すなわち心情的なすべての事情を知るために開拓した人に問うこともせず、地域長という人が、自分勝手に今までしてきた習慣的な観念で「これはこうし、それはそうしろ」と言うというのです。このようにどこから来たのか分からない鬼が来て、主人のような顔をしているので、昔自分を育ててくれた人とは違うというのです。

 責任者として新しく人事されていった人が、そこに食口が約三十人くらいいれば、公的な権限をもって、自分のために体制確立をすると、自分の観念的な示達方法で、「こうしろ、ああしろ」と言うのです。そうすれば、食口たちをみな失ってしまうようになります。前回の開拓者から、これを受け継いだ責任を成せませんでした。今まで、地域長たちがそうだったというのです。心情的であり内在的なすべてのことを計画し、継承した立場において自発的な立場で、自分たちに指示してくれと、要求することのできる立場に立てておくこともせず、また彼らが、望みもせず、理解もせずにいるのに「こうしろ、ああしろ」と言っては駄目なのです。新任責任者は、そこに行って少なくとも三カ月以上は、食口たちから批判を受けるのです。食口たちが自分を見ているのに、自分が信じるままに推し進めて、食口たちに「こうしろ、ああしろ」と言ってはいけないのです。自分が育て、指導した人にも、三年以内にそのように言えば副作用が起こるのに、今まで関係を結ばなかった新しい人が、その地域に配置されたといって、どんな人物かも分からないうちに「こうしろ、ああしろ」と言うなら、問題が起きるというのです。少なくとも三カ月は精誠を尽くさなければなりません。

 ですから、継承方法においてこのような失敗があったし、また伝道した人は、新任責任者に、自分が伝道した人を紹介しなかったというのです。責任者がこのようにしていくことによって、その人たちが寂しがったというのです。ところで、新しい責任者がその寂しさを補強してあげ、慰めてあげ、彼らの難しい事情を全部言わせて、ひもといてあげ、あすの希望を中心に新しく動くことのできる立場に立てておくことができずに、また寂しい立場に追いやってしまうので、これも寂しく、それも寂しいゆえ、落ちてしまうしかないのです。教会に三回だけ来ないようになれば事故が起こるのです。一週間だけ来ず、二週間来ず、三週間まで来ないようになると、よそよそしくなってしまうというのです。責任者を前にすれば、既に「ああ、あの責任者がなぜ教会に来ないのかと問うだろう」と考えるのです。問われれば、自分自身が寂しくて来なかったのだけれど、心中の言葉は言えず、うそを一言言うようになります。このようなことが反復するようになれば、教会からだんだん遠くなり、のちには完全に落ちてしまうようになります。(二九―一九二)

 このように伝道はしておいたけれども、その後の収拾方法において、欠如した活動体制をもってきたので、多くの人を犠牲にしました。それゆえ、原理講義をして因縁を結ぶことよりも、因縁をもった人を結実させることが、私たちの責任です。ゆえに、責任者は、いつも何を考えなければならないのか、責任者の使命はみ言を伝えて、蒔くことではなく、刈り取ることです。これを知らなければなりません。み言を伝えることは蒔くことであり、蒔いて刈り取ることが、責任者の使命です。例えば、大きくなった芽に水をあげ、手入れをし、除草作業もし、花が咲くようにし、実を結ぶようにしなければなりません。これがある期間が過ぎたあと、完全に育って収穫するとき、初めて責任者としての使命を完結するのです。ところで他人が植えておいたところに、再び植えようとしては駄目なのです。それをよく手入れしてあげなければならないのです。たとえ、他の人が植えたとしても、よく手入れして収穫をするようになれば、それは天の倉庫に入庫されるのです。ところがそのような考えをもたず、過去の指導者の性格や、彼についての全体的な方法を把握もせず、これを再び植える業をするので死ぬのです。そうしては駄目だというのです。

 このように、私たちの体制の中で、前任者と後任者の間に継承がよくなされなかったので、多くの人を犠牲にしなかっただろうかというのです。このような観点から見る時、責任者たちは、み言宣布も宣布だけれど、彼らを必ず育てることができる責任者になれというのです。蒔く責任者にならず、蒔いてから、刈り取る責任者にならなければなりません。刈り取るまでは三年以上かかります。一遍に刈り取ろうとしては駄目です。ゆえに、イエス様が、十二弟子を率いて、三年以上歩んだのです。それは原理です。ゆえに三年は苦労しろというのです。

 それで、先生が伝道地を設定して派遣しながら、「皆さんは、三年間服役するという立場で、そこに売られて雇用生活をするという立場で、部落なら部落に行って忠誠を尽くしなさい。そして彼らに何を教えてあげるのか。忠誠の道理を教えなさい。それだけでなく、実践して見せてあげなさい。そうすれば、必ず、皆さんが言わなくても自分たちができることを引き継ぐというのです。君も私も、このように出るとき、皆さんは、その部落で、完全に基盤をつくるようになります」と話しました。

 それにもかかわらず、地方に行って、その責任をすべて成せないがゆえに、まるで天国に家を建てて、なくなってしまうような基盤を立てたというのです。その上に家を建てるというのは、家を新しく建てることよりも、もっと難しいことです。過去に伝道しにいって、失敗して、食口がみなバラバラになって、現在一人しか残っていない所に行って伝道するようになれば、最初に行って伝道するより、二倍三倍の苦労をしなければならないというのです。これは多分皆さんが、実際に開拓してきながらよく感じたはずです。こういうことを見るとき、私たちが果たさなければならない責任を果たせなかったという結論が出ます。

 このような、すべての問題をおいて見るとき、私たちはこれを再び評価しなければなりません。最初は地域本部の解決問題であり、二番目は、原理講義においての実力問題、三番目は、食口たちを伝道して育てる問題です。生んでおいて、ほっておいてはいけません。生んで育てなければいけません。自分の継承者として育てなければいけません。私たちは今まで、このような問題をいい加減にしてきました。それで、皆さんが、今やあすにでも責任をもった所に行くならば、このような問題を中心に計画を立てなければなりません。

 皆さんは今まで、伝道した人がどれくらいになりますか。もし皆さんが今まで十人伝道したならば、十人を自分の所管の中にいる人たちと共に、最小限一年に一回くらいでも、総会をもたなければなりません。全羅道、あるいは慶尚道、あるいは江原道に分かれているとしても、一年に一回ずつは集まらなければなりません。全体が集まることができなければ、呼んで会うとか、でなければ、機会をつくって会いにいってでも、一年に一、二回は、会わなければなりません。親子の関係のように、今まで過ごしたことについて、お互いに話せなければなりません。子供が、親から離れて他地方へ行って帰ってくるようになれば、その間過ごしてきたことを報告して、父母は、それを励ますのと同じように、昔の心情的な関係を中心に、うれしいこと、悲しいことをお互い話し合いながら、良い時間をもたなければなりません。これが長ければ長いほど、その人たちは、皆さんが忘れられないようになります。ところが皆さんは、そのようなことをしませんでした。

 では、今まで、どのようにしたのでしょうか? 全羅南道地域の責任者だった人が、他の所に行くようになれば、どのようにするのかといえば、全部手紙を書いていくというのです。そうしたのでは駄目です。必ず後任者に彼らを紹介させなければなりません。紹介をするのでも、人格的な紹介をしなければなりません。「私はこのように動いたのですが、この責任者が、このようにして動いて、ぶつかり合うようなことが起これば、このようにしなさい。しかし、それでも難しいことがあるときには、手紙を書きなさい」と言わなければなりません。自分がいる所に連れていけというのではありません。新しい後任者に彼らをつなげ、今まで自分から育てられた、その基準を中心に、より良くなせる基盤を成してあげなければならないのです。新しく来た責任者は、その教会の食口一人一人について、よく分からないゆえ、そのようにしなさいというのです。私たちは今までこのようなことをよく成せませんでした。(二九―一九一、一九七〇・二・二八)

5 九五パーセント人のために生きる責任者となれ

 誰が一番高い霊界に行くのでしょうか? 人のために生きれば、神様の胸の中にさっと入っていくというのです。皆さんもそのように、先生の話を聞いて、実践しながら生きてから、霊界に行くようになれば「先生のそばに来るな」と言っても、宇宙が自然に引っ張っていくのです。

 きょう、ここに教会の責任者たちに集合せよといいましたが、皆さんの教会がなぜ発展しないのでしょうか。それは、その責任者が、このような内容をもって生きられなかったからです。それは間違いない事実です。神様が、そういう眼鏡をかけて見る時、その眼鏡にかなう人がいないというのです。ですから、霊界では協助しないのです。またそうするので発展しないのです。責任者たちが、食口たちにさせることはできても、お使いに行ってあげることを知らないというのです。問題はそこにあるのです。九五パーセント、人のために生きようという、そのような責任者がいないので発展しないのです。

 今から、皆さんのそのような思考方式を振り返り、先生のみ言のとおりに九五パーセント、人のために生きようとする時、復興しないなら先生は偽者です。先生が、うそつきだというのです。人のために生きる人が三人だけいれば、四方に広がっていきます。それは何のことだか分かりますか?

 イエス様も頭の手拭いで、弟子たちの足を洗ったでしょう? 「私は、侍られることを望むのではなく、侍りに来た」と言ったのです。それを拒否した時、私がこの足を洗わなければ、お前と私は関係がないと、最後の宣言をしたのです。そのことが分かりますか。イエス様もそのように生きたというのです。その言葉は、数としては成せませんでしたが、九五パーセント人のために生きる生活をしたというのです。分かりますか。今、はっきりと分かりましたか。(はい)。九五パーセントを話すとき、自分の心に引っかからない立場で話をしなさいというのです。そうすればすべてのことがOKです。分かりましたか? 何のことか。(はい)。

 ですから、寝るのは少なく休み、食べることを超越して、時間を惜しんで「ために生きる」活動をし、訪ねていって見本を見せてあげ、時には手を握って涙も流し、祈祷もし、身もだえし、「この国を誰が守るのか」と言いながら愛国思想を吹き込まねばならず、天の思想を吹き込まなければなりません。それは父母の愛、孝子の愛、忠臣の愛、聖人の愛、聖子の愛と通じるのです。

 さあ、そのように生きて死ねば、彼が、「ために生きた」すべての群れが痛哭しながら死んだことを、心から哀悼する涙を流してあげられる地上の基盤ができるというのです。同志ができるというのです。枝が伸びるというのです。それで、皆さんの娘、息子たちが、そのような父だといって自慢できるのです。天と地に、私たちの父は真の父だったと、自慢できる先祖にならなければならないし、夫にならなければならないし、その国の国民にならなければならないし、世界の人類にならなければならないし、天国の民にならなければなりません。「天国を代表した愛する聖子であった」と言わせるためには、人のために愛をもって涙を流し、身もだえする歴史がなければなりません。

 皆さん、伝道しようとすれば、その村で一年が過ぎ、二年が過ぎるほど、無感覚な男になることができないというのです。岩にすがって痛哭しなければならないし、木にすがって痛哭しなければなりません。人に会わなければならないけれど、人に会えず、木や石にすがって事情を話すことのできる資格もないけれども、私の事情を話し、涙を流す時、山や川が後援できるようになれば、そこで育った草と穀物を食べて生きる人は、自然についてくるようになるというのです。

 皆さんが、責任を負ったその地域を思う時、どこへ行くにも涙がついて回り、「私が精誠を尽くしたことは、天が忘れようとしても忘れることができない」と言えるくらい、心の中には、いつでも宝として残っていなければなりません。(一三四―二五三)

 神様が、皆さんのために生きるのと同じように、皆さんも、神様のために生きなければならず、また先生を知ったなら、先生が皆さんのために生きるのと同じように、皆さんは食口のために生きなければなりません。それが、元に戻って皆さんにも行くのです。そうでしょう? そのような問題において、皆さんが何になったのかといえば、どろぼうのような人が多いのです。取って食べてしまう人が多いのです。天のものも取って食べるし、食口たちのものも強奪して食べる一番恐ろしい立場なのです。このようにしたなら、皆さんの後孫が全部七代を越えられず、絶滅するというのです。

 さあ皆さん、世話になる人になりましたか? 世話をする人になりましたか? 世話になる人になりましたか? (世話をする人になりました)。間違いなく、そのようになりましたか? (はい)。そのようになったら、発展しなければなりません。問題はどこにあるのでしょうか。皆さんに神様が協助しないのですが、なぜ協助しないのでしょうか。先生に協助するのを見れば、間違いなく神様は協助するようになっているのです。ところが、なぜ皆さんに協助しないのでしょうか。原則が違うから、思考方式が違うから、方向が同じでないので協助できないというのです。皆さんは、それを知らなければなりません。(七〇―一四九)

6 強力な神様の愛をもって生命を動かしてこそ

 いくら強い人でも、私がもっと強ければ、引っ張られてくるのです。磁石と同じです。神様の愛を中心に愛すれば、寒い冬に、部屋で火鉢が暖かい空気を漂わすようになれば、人は暖かい火鉢の回りに集まるでしょうか、集まらないでしょうか。「集まるな」と言っても集まってくるのです。すべての昆虫が、光がある所に集まるのと同じです。そうすることによって、強力な神様の愛を中心に生命を動かさなければなりません。生命は何が動かすのでしょうか。愛です。その愛の根本は、神様の愛です。神様の愛をもって現れるとき、動かない生命はないというのです。皆さん、そのような実験をしてみなければなりません。

 先生が、南韓に下ってきて、釜山の影島(注:釜山湾内にある島)で出発する時、最高の決定の場に立ったのです。私の一生において一番深刻な場になったので、その誰よりも、同志を愛し、兄弟を愛し、その国の民を愛することのできる一時となったのです。その時は、先生のすべての神経が集中されていたし、神様もやはり、一人の子女を探すために、家庭を成すために、国を探すために、愛した最高の心情的状態だったので、神様が感じる感動と共に私が話したのです。

 その時の言葉は、私の言葉ではありません。マイクを持って放送する言葉でした。その時は、そこに来た人たちは一週間だけたてば、全部霊界に入るのです。一週間が何ですか。何時間内に、霊的世界についての体験の役事が起こりました。それは地上に電波を送るのと全く同じです。神様の愛の電波を送るのと同じです。その電波が世界に広がっていくので、霊界について、そういった恵みを願った人たちは、そこに感電し、また訪ねてくるのです。そういったことが起こったのです。

 それゆえに、皆さんもそのような基準を立てなければなりません。ですから、直接行かず、見ず、会わなくても、既に感じることができる心霊基準と、因縁が、先祖から高い心霊基準を受けた人に、自動的に、朝に太陽が昇れば、遠い所にいても近い所にいても、すべて太陽を受けるのと同じような役事が起こるのです。それで、皆さんが夢の啓示だとか祈祷する中で、そういった因縁を尋ねていって会うようになるのです。

 では、皆さんが神様に会うためと、イエス様に会うために、どれほど目が腐るほどに慕わしく思ってみましたか。それが問題です。先生から言えば、神様が慕わしく懐かしくて、一週間以上寝ずに夜を明かしながら祈る時もありました。そうして、朝に太陽を見るため目をしかめて……。そういう時もありました。そのように、懐かしさがしみ通るようでなくてはならないのです。そうしなければ、皆さんは死んでいるのか生きているのか、私が人間として、生きるのか死ぬのか、という生死の問題を完全に解決できない深刻な場に入るようになります。しかし死ぬことはできないのです。価値なく死ぬことはできないというのです。ゆえに、生死の問題を根本的に、どこで解決するのかという深刻な問題に入って、神様と談判する場に入っていかなければならないのです。(五〇―二八三)

 皆さんは先生が好きですね。時間が長くかかるなら来ないでしょうに。先生がいることが分かればみな、集まってくるのです。(笑い) そうでしょう? (はい)。皆さんもみなそうなります。皆さんも先生とそのようになるのです。先生の言葉なら、どこに行っても同じだ、そのようになるのです。それが分からなければなりません。それが原則です。自分が愛する人よりも、統一教会の食口一人を慕わしく思わなければならないというのです。そうして食口が集まれば、私は絶対立ち上がれないというのです。足が離れないのです。それで草創期には、夜を明かし、奥さんたちも、御飯の準備をするのも忘れ、夫が出勤するのもみな忘れてしまうことが起こったのです。

 それで先生がどこに行っても、夜でも昼でもついて回るのです。私がねずみの穴に入っても、ついて入っていこうとするのです。先生だけについて回るのです。そういう何かがあるというのです。それはなぜそうなのかというのです。愛があるから、神様の愛があるからなのです。愛は目には見えないけれど、光のようなものを発散するというのです。それが必要なのです。分かりますか。愛するお母さんがいるということを考えただけで美しいというのです。すべてのことは同じなのです。それで先生は何もないけれど、これを売って暮らすのです。一番高いものなのです。分かりますか? (拍手) 皆さん、今、分かったでしょう。どのように流れていくかということが、分かったでしょう? (はい)。(一〇二―四一)

7 愛の認定圏を確保することのできる責任者になれ

 死ぬ前に、大韓民国について、世界を越えていけるほど愛したといえるようになれば、その愛はなくなるのではありません。次に私たちが世界の前に行くとき、既にみな与えたので、ないのではありません。既に与え、始まったので、何千倍押すことのできる、何千倍、もっと大きく世界に与え、残ることのできる愛のふろしきは、いくらでも継承して誕生するのです。ですから愛は無限です。分かりますか? (はい)。

 愛は与えれば与えるほど生じるのです。終わりがないのです。より加重的に与えることができる余裕が生まれるのです。しかし、違うことは、お金は終わりがあるということです。知識も終わりがあるのです。権力も終わりがあります。世の中の万事のすべての人間の事情、人情を通じたものは、みな終わりがあるけれど、永遠な真なる愛はいくら与えても終わりがないのです。もっと無限に近くなり得る内容が、連続的に継続される、驚くべきことです。それゆえに、この力をもって宇宙を作用させて余りあるという結論が出るのです。分かりますか? (はい)。

 皆さん、自分たちが神様の愛を中心にした決定的な所有権を拡大していますか、それが重要な問題です。皆さん、確実によく理解しなければなりません。自分が一生の間、二つのひざでひざまずいて、固くなった肉が埋まってしまっても、決定しなければ死なないというくらいに、身もだえして、解決しなければならない課題として残っていることを知らなければなりません。

 自分が直接成せなければ、相対圏にいる人を通じて、私の国民が「このようになっている当時の愛する息子」だと、証言できるようになるとき、それを通して認定されるのです。直接的でなく、間接的にでも、認定されなければならないのではないですか。なぜですか? 救援摂理において、神様がカイン圏を探そうとすれば、カインが、「神様の愛する息子」だと証言したとしても「アベル」だと証言しても、神様が受けることのできる、原理の内容がなければならないのではないだろうかというのです。直接的な道に認定を受けられなければ、間接的な道を通じて認定を受けようと努力するのが、今日の統一教会の教役者たちが行く道だと見るのです。

 先生が認めてあげて、神様の、先生の愛を受ける息子の立場に置いておいたのですが、これをもっては通じないというのです。自分が直接的に解決できないなら、間接的にでも解決しなければなりません。この二つの道を通じて、愛の認定圏を確保できる自身を探すために努力しなければならないということを、はっきり知らなければならないというのです。分かりますか? (はい)。

 ですから、奥さんたちは、皆さんの奥さんではありません。子供たちのために行かなければならない、愛の決定権をもって、決定しなければならない課題がまだ残っているというのです。そのような課題をもっている自分たちなので、主体になることはできないのです。

 皆さんがこのような業をする日には、皆さんの教会は発展するのです。発展しなければ、先生が言ったことはうそだというのです。やってみなさい。皆さんがおなかがすいた時に、食口たちと一緒に食べるために、一固まりの御飯を包んで食べず、どれほどに待ってみましたか。外に出て、遅くまでみんなが帰ってこない時、夜を明かしながら、どれほど待ってみましたか。それが父母の愛です。言葉だけでなく、事実そうしなければなりません。(一二一―二四二)

 ですから、あなたたちは、そういう基準をしきりに立てなければなりません。習慣化されてしまったのですね? 堕落世界での習慣化が。皆さん、天についての思いをどこに行ってもしますか? 座っている時も、食べる時も考えますか? 二十四時間天が中心になっていますか? どうですか? 自分自身がみな知っているのではないですか? 父母様のことを思えば、骨の髄まで溶けて、道を歩いていっても、ふらふらになってしまわなければなりません。責任をもてない恥ずかしい自分を天地が注目するのです。統一教会の名門家の息子だとか、看板を持った姿が、そんなことであっていいのかというのです。

 草を見ても恥ずかしく、流れる水を見ても恥ずかしい、村の犬がほえるのを見るとき、「さあほえろ、私のような者には、犬がほえなければ」という心をもたなければなりません。そういう事情をみな経ていってこそ、この宇宙史に隠された天の悲しみが、はがされるというのです。誰によってですか? 自分によって……。堕落の後孫として、天を探していくという、天の父母に侍るという人たちが涙がかれてしまっていてはいけないというのです。

 教会がなぜ発展しないのかというと、ここに一体化がなされなかったからです。考えがそうであり、目がそうであり、鼻がそうであり、口がそうであり、耳で聞くことがそうであり、感じることがそうであり、生がそうである前には、駄目なのです。食口が来ることを……。自分の奥さんより食口を慕わしく思わなければなりません。自分の子供より、より慕わしく思わなければなりません。そのようにしなさいというのです。夜も寝ず、身もだえすれば、既に、人が何をしてもほのぼのとして見えます。そして、向こうにも、霊界の先祖たちが全部みな因縁を通じて役事するのです。来るようになれば、既に「何かあったんだな」とみな分からなければなりません。分かりますか、そのようになっていますか? この偽者たち! 祈祷をして、朝の何時までに来るといえば来るのです。それが分かるのです。時間まで分かるのです。来ると思えば来るのです。そのように偉大な力が、愛の力です。分かりますか、思慕の心情は偉大なものです。(一七一―三一)

 心情圏というのは、何かといえば、天上天国と地上天国が愛によって連結された中央に、位置をつかんだ神様の主管圏をいいます。これを理論的にぴったり合わせなければならないのです。それだけ成せるようになれば、サタンが侵入できますか。自動的に屈伏するようになります。この者たち! ここがどこだというのですか。これは宇宙が保護します。なぜ宇宙が保護しますか。これはすべてのものが理想的主体なので、全部がここにおぶさろうとするのであって、持ち去っていこうとはしないのです。ですから保護圏にあるというのです。

 皆さんの教会が発展するのか、できないのかということは、何から測定できますか。この原則をもって、この角度がぴったり合うのか合わないのかということをもってです。問題が、そこにあるのです。それが駄目ならいくら努力しても駄目です。今日、教会の基盤を自分の生活舞台として、自分のすべての生活方便で考えれば、それは大きな罪です。世界を代表し、国を代表しなければなりません。そうでしょう? 世界が大きいでしょう? 私が世界に行くためには、どのようにしなければなりませんか? 私個人が犠牲になって、家庭を通じ、家庭を犠牲にし、国家を通じ、国家を犠牲にして世界に行くようになっています。そうして、帰ってくるときには、どこに帰ってくるかというと、垂直には帰ってきません。一回り回って帰ってくるというのです。(一七一―一六)

8 教会を愛のふろしきで包め

 人というのは、日常生活で、事理が明らかでなければなりません。鈍くてはいけません。その次に情がなくてはなりません。事理に明るいというのは、道理に合っているということです。前後左右を見ることができなければなりません。鈍くてはいけないということなのです。上下、前後、左右をわきまえることができなければなりません。その次に、それを包括できるものは情です。情のふろしきは全部包むのです。おじいさんおばあさんも包み、赤ちゃんも包み、みな包むのです。そうですか、そうではないですか? 理論のふろしきは一方的ですが、情のふろしきは包括的です。ゆえに、先生は八十歳になるおばあさんも好きだし……。このごろは、ここがおばあさんたちが住む本部になったのですね。幼い赤ん坊もそうですし。愛のふろしきで包めば、みな喜ぶのです。お互い寄り添い合って、割れずに永遠に寝床に入って休みたく寝たいところが、愛のふろしきの中だというのです。

 そのような心を皆さんがもたなければなりません。そうしてこそ心が安らかなのです。皆さんの横に来れば、なぜか良くて、その家に行って御飯を食べれば、いくら粟飯を食べてもおいしく、布団もなく、ただ横になって寝ても良く、祈祷しながら夜を明かしても良い、そうならなければならないのです。皆さんの教会がそうですか、そうではないですか? 教会を発展させなければなりません。家を建てておいたので、家の主人が、責任者があなた方なのに、その部屋の隅を見て、どのように寝、どのように遊び、どのように御飯を食べるのかというのです。それだけではありません。教会の責任も成さなければなりませんが、国の責任も成さなければなりません。その次に世界の責任も成さなければなりません。それが、私たちの人生の行くべき道なのです。(八一―三三八)

9 苦労する食口のために祈祷してあげなければならない

 今後、地域長たちや地区長たちは、自分たちの地域内で、全体を代表して模範的に苦労した食口がいるのに、その人をまた飢えさせ、苦労させれば、地域や、地区の発展がなされないということを知らなければなりません。

 私は地方の地域や、地区のために祈祷する時、その地域の責任者たちのために祈祷しません。責任者のために忠誠を尽くし、その責任者と相対基準を造成し、一生懸命仕事を成す、食口たちのために祈祷します。そうしてこそ、私たちのみ旨が少しずつ発展していくのです。

 地区長が責任をすべて成したといって、地区長を褒めるのでなく、地区長を褒められるようにした、一人一人の食口を褒めなければならないというのです。今後、責任者たちは、自分たちを協助した食口たちのために祈祷をしてあげなければなりません。心情的な面で、借りをつくってはいけないのです。一線で戦っている、苦労する食口たちがいれば、御飯を食べる時にも彼らを思い、涙と共にはしを持って、涙と共に御飯を食べられるようでなければなりません。「天よ、彼らを守りたまえ」という祈祷が自然に出なければなりません。このような心情が、欠如されれば発展しないというのです。このような地域長は、ずっと苦労するのです。

 このような原則で、私が三千万民族を眺めなければなりません。この民族の中に悲惨な人たちがいるということを、肝に銘じなければなりません。一さじの御飯を食べながらも、一さじのつゆを飲みながらも、「この民族の中にも、これも食べられない人もいるので、天よ、彼らに与えてください。この宇宙のすべてのものは、あなたのものなので、与えてください」と、切実に祈祷しなければいけません。このように与えたい心情が民族の隅にまで広がらなければいけません。そうしなければならない皆さんが、受けるために動いてはならないというのです。(一三―三〇〇)

10 父母のように責任を果たせ

 あの(ダースト)夫婦は、まず夫婦が一つになっているというのです。お互いに協助し、すべて成すので、見本になるということを知らなければなりません。そして全体が、父や母のような責任を成そうとし、また、新しく入ってきた人たちに、そのような責任を全体食口がしようとし、新しい人がみ言を聞いたなら、どこに行っても、御飯を食べることよりも、服を着ることよりも、その人が食口になったのかという関心をもち、そのようなニュースをまず聞こうとする雰囲気にならなければなりません。そうではないのかというのです。それが発展する原則です。それ以外にはありません。(九四―一五二)

 教会が発展しようとすれば、老人を愛さなければなりません。若者も愛さなければならないけれど、まず老人を愛さなければなりません。いくら服がどうであっても、他人として考えるなというのです。父母の心をもとうというのです。そのような心で、「私が神様のみ旨を中心に生きる者にならせてください」と祈祷しなければなりません。(二三―六八)

11 同役者の同情を受けられなければ

 先生が今日、統一教会の全体の食口たちを見るとき、今まで発展現象を展開させなければならないのが、この時代の私たちの責任であるにもかかわらず、沈滞の一途をたどっているのは、何ゆえでしょうか? 地域長たちは、地域長自身を中心に、自分の周囲にいる地域長の同情を受けられない立場に立ったのであり、あるいは、本部や先生の同情を受けられる立場に立てず、より進んでは、天と地、今日このすべての人類が、皆さんについて同情できる基盤になっていないゆえに、皆さんはここで疲れ、皆さんが立っている所は寂しく、皆さんが立っているその基盤は荒廃していくということを知らなければなりません。

 それゆえに、責任をもった人たちは、いつでも天の同情を残すことのできる基盤に立ってこそ、彼らに従っている後孫たちも、天の前に忠臣になれ、天の前に孝子になれるのです。このようなことを皆さんが肝に銘じ、今や地方に行くようになれば、この時代に適応できる皆さんになって、天が望む基準の前に、食い違いのない基盤をつくり、三年間皆さんが、最後の力量を発揮し、活動してくださることを望みます。(一五三―二八一)