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第四節 講義と牧会者の使命

一 講義という牧会者の重要な仕事

1 責任者は口がはれ上がるくらい講義しなければならない

 皆さん、舌を一度出してみなさい。舌、これは一日に何時間働きますか? 御飯を食べる時に働くでしょう? それは、誰のためにそのように働きますか? 誰のために? 御飯を食べる時は誰のために働きますか? 私のためにするのです。ですから、舌はいつ他のために働くのでしょうか。いつ働くのですか? 自分のために働く時間よりは他のための時間が多くてこそ、初めてその人が善なる人になるのです。ですから、教授でも何でも、先生でも何でも、働く人たちはみんな自分のために御飯を食べる時間よりも、他のためにたくさん舌が苦労している人たちです。その人が有名な人です。立派な人なのです。

 その次に、皆さんは誰のために涙を流してみましたか? 自分のためにはよく泣くでしょう。自分のためにはそうでしょう? それでは、他のためにはいつ涙を流してみましたか? 涙も二種類があるのです。自分のために泣く人は地獄に行きます。他のためにたくさん泣く人は天国に行くのです。

 それゆえに、この舌をちょっとこき使いますか、こき使いませんか? (こき使います)。うちの神学校を出たお嬢さん、話すのが嫌でしょう? 人と話すのが嫌でしょう? しかし字を書くことは好きでしょう? 読んで、考えてしまいます。それが怨讐です。ですから、自分が好きなことの反対をしなければならないのです。発展しない人たちは、自分が好きなことの反対をすれば必ず発展するのです。分かりますか、何のことか? 自分が好きなことの反対のことだけをすれば発展するのです。自分が好きなとおりにして駄目な人は、自分が嫌いなことをすれば絶対的に発展するのです。そうするほかはありません。さあ、講義することが好きですか? 講義することが嫌いですか? ですから、伝道が駄目なのです。講義することが好きならば、伝道されるのです。(九六―一七二)

 講義をする方法を知っている人、手を挙げてみなさい。下ろしなさい。講義のやり方を知らない人は手を挙げてみなさい。みんな、やり方を知っていますね? するのです。聴く人がいないのなら、公園へ行って十六時間してみるのです。人がいないなら「神様! きょうは家でせず、公園へ行って十六時間やります」と言ってでも、そのようにやるのです。六カ月間毎日のようにしてみるのです。皆さんは知っている友人を捕まえて講義すれば、三カ月もたたずに講義するのが面倒くさくなるはずです。その先生の言葉が正しいようですか、どうですか? (はい、正しいです)。どれ、皆さん方は、何時間講義をしてみましたか? 先生が先年正月一日の日でしたが、延々十六時間話をしたのです。そのように話をすることが、もう楽で話をすると思いますか? 二十四時間、目を開けた時間から目を閉じる時まで話をするのです。そのように生きてきたのです。(一〇七―二五〇)

 さあ、この唇が裂けるように、血が出るように話をしましょう。今年中にするのですか、しませんか? (します!)。十日から四十日以内でもしましょう! それができないならば四十日間でもしてみようと決定します。あまりにも歩いて足がはれるように……。車は何の車ですか? 小さな村では歩き回って初めて、できます。足がはれて、このように歩くようになるまで一度してみましょう。(九六―一七八)

 話をたくさんしなければなりません。一日中、言葉をしゃべるならば、舌はこのようにはれます。そのようになっても話していたら、舌をしょっちゅうかんでしまいます。こんなことも感じてみなければならないのです。また、口の中がはれたら、唇をしょっちゅうかみます。そのようにして、御飯を食べようとするならば、がさがさしてのどへ落ちていかないのです。

 それが、自分の財産です。そういうことを神様は覚えています。分かりますか、何のことなのか? (はい)。(六〇―三四五)

 このたび、「来なさい」と言ったのは、皆さんを一定のコースに追い込まなければならないからです。もし講義をして倒れたなら、私が看護してあげますから。そうして死んだら、私が葬ってあげますから。それなら霊界へ行って、話すことがあるのです。先生のみ言のとおりに、のどが裂けるように講義をして倒れたとすれば、その業がどんなに深刻でしょうか? 死なないならば生きることをしなければなりません。そんな業をしたので、神様が先生を押してくれたし、今まで滅び得るレバレンド・ムーンが、世界的に問題の人物になりました。そのように残っているのです。(一〇七―二四九)

 なぜ口を通して、話すようになるのかという問題を見るとき、天と地が調和した口を通して、すべてのことが連結されているからなのです。すべてのものが通じているというのです。舌は宇宙の中に隠されているのです。舌というものは、神様を象徴しているとも言えます。(八六―一六五)

2 御飯を食べるように毎日講義しなさい

 あなたたち、講義するのが嫌いでしょう? 講義するのを嫌いな連中ではありませんか? 講義するのが嫌いですか、好きですか? (好きです)。何が好きですか? どれくらい好きですか? 御飯より好きですか? 御飯を食べるより好きですか? (そんな時もあります)。それならば悪い時もあるということですか? (笑い) 好きならば、どれくらい好きですか? 御飯よりもっと好きでなければならないのですか? 御飯より嫌いでなければならないのですか? (もっと好きでなければなりません)。一日に三食飢えても、み言は三回以上話さなければならないのです。一人が来ても講義しなくてはなりません。それも嫌ですか? そのようにしなければ、どろぼうなのです。そんな者は肥料桶にでもなりなさい。ごみ箱にでもなりなさい。

 それでは、一日に三回以上講義をしてみましたか? 三人にすがって。皆さん御飯を食べる時を見れば、「あーおいしい、あーおいしい、あーおいしい」と言うでしょう。腹がすいている者たちが御飯を食べるのを見ると、すっかりごった返しているでしょう? ところでこのようにおなかがすいている時、御飯を食べようと入ってきたのですが、御飯がなければどんなに困ったことになりますか? 皆さん、家族がいなくて困るでしょう? どんな凶年になったのですか? それゆえにおなかがすいているのですか、すいていないのですか、霊的に? おなかがいっぱいですか、すいていますか? (すいています)。それならば、肉的には御飯がおいしいと言いながら、み言を通した霊的な御飯は食べないのですか? ただ、家族たちに対し、人に対する時、御飯を食べる時よりもおもしろ味が出なければならないのです。朝起きれば、きょうはどこへ行ってみ言を伝えようかと思い、お母さんが乳飲み子を捜すのと同じように心配しなければなりません。この家へ行くか、あの家へ行くかと思い、「神様、きょう伝道しに行こうとしているのですが、どこへ行かなければならないのか分かりません」と祈祷をするのです。本当に分からないのなら、占いをするのです。手のひらに唾を置いて、バシッと強くたたき、一番大きな唾の露が落ちる所へ行けばいいのです。(笑い) それが正しいのです。そのように占うのが正しいのです。そんなことがしょっちゅう起こったのです。あー、私の考えは神様の考えに近いなあ……。私は占い師ではないけれども、私のすることが神様に近いということを発見するようになります。神様が教えてくれます。

 道端で、どの家へ行かなければならないのか分からない時は、ただボールペンを蹴って「ボールペンが左側に行くようになれば、この家だな。右側へ行くようになれば、あの家だな」と決めるのです。(笑い) そのようにして「ポン」と一度蹴ってみるのです。真ん中を蹴るのですが、ボールペンが右側に行くようになれば、右側へ行くのです。(笑い) それが正しいのです。そのように、生活的にみ旨を環境に適用させるようにしなければなりません。このようになって初めて、実感が出るのです。分かりますか? (六〇―三四五)

 講義することができるならば夜昼、講義するのです。御飯を食べるように、講義をしなさい。人がいなければ探しにいって道端でもして、本当にいなければ、食口たちにすがって、泣いてもして、それでもいなければ、自分のお母さん、隣近所、友人を呼んでもしなさい。遊んでいてはいけないのです。分かりましたか。(はい)。(九六―一四一)

 すべての我々の団体長たちは、講義ができなければ駄目です。あの、ニューズ・ワールド社の社長も講義しなければならないのです。ポールも講義するために、事業をしている人たちを組織して人を呼びなさい。それゆえに統一教会傘下のすべての団体は一つの軍隊です。軍隊には砲兵もいるし、騎馬兵もいるし、歩兵もいて、海兵もいるのと同じです。教育方法はみな同じです。方向が違うだけで同じ教育をしなければならないのです。その人員たちを歩兵からみな管理しますか? 自分の所属から管理するのです。そうしてこそ地上天国が起こるのです。(九六―一五九)

 皆さんは責任者でしょう? 責任者として毎日のように講義している人、手を挙げなさい。毎日のように講義している人。皆さん、全世界的に決まったこととは何かといえば、我々の責任者としては、毎日八時間は講義しなければならないということです。一般の人たちが、八時間労働しているならば、統一食口は八時間以上働かなければなりません。公式的に全部時間表を作ってあげています。皆さんからも時間表を作ってもらうはずです。自分の教会で一緒に住む人が一人でもいるならば、朝一緒に起きるのです。統一教会は六時に起きるようになっているのです。そうでしょう? (はい)。十二時に寝て、六時間寝るのが統一教会の規定時間ですから、六時に起きて、洗面して何かするのに六時半まで、三十分あれば十分です。六時半から八時半まで二時間は講義! 既存の食口たちを育てなさい。講義するのです。その次に、食口たちが一人、二人生じるならば、連れて伝道をしに(外へ)出ていくのです。八時半から三十分間御飯を食べて、その次に伝道をしに出かけていくのです。一緒に連れて出かけていき、街頭で伝道するのです。

 人と会って精誠を込めて伝道をするのです。そうして人と会えば、連れて入ってきて講義をするのです。その時間は十二時から二時半までです。分かりますか? 何のことか? その次に四時半から六時半まで講義して、八時から十時までまた講義するのです。八時がとても遅いならば、それは調整するのです。三十分を繰り上げて七時半から九時半まで、一日に四回は講義しなければなりません。一人もいなければ、自分の妻でも連れてしなさい。しなければ駄目なのです。教会には二人以上いるので講義しなさい。

 精誠を尽くしながら、毎日のように一人でも連れてきて講義しなさい。そういう時、百人、千人あるいはその部落、その群れ、その道の責任を負ったならば、責任を負ったその人口に比例する数を中心として、その人たちの全体に相対するように考えて、代表的な一人のために講義するようになれば、その人たちの霊界の祖先たちが協助してくれて、聞くことができるという心をもって講義しなければなりません。分かりますか、何のことか? (はい)。みんなその時間をつくるのです。教会長たちは一日に四回は講義しなさい。そして基盤だけを築くようになる日には、その次からは六時間はいつでも講義をしなさい。そのようにして、二時間はこれから育てる人たちに時間を割いてあげて、特定の時間をあげて講義をさせなさい。分かりますか、何のことか。書きましたか、書きませんでしたか? (書きました)。(六八―八三)

3 壇上の席というのは多くの生命に責任を負う席

 どんな指導者になったとしても壇上に立ち、数万の大衆の前にみ言を伝えるその時間は深刻な時間です。指導者が壇上に立ちみ言を伝える時は、どのようにして多くの人へ生命の因縁を加えて、天と連結させてあげるかということを考えなければなりません。それが指導者の責任です。(四二―七六)

 我々の統一教会のみ言はこれを一言で聞くなら、イエスかノーか二つに一つを決定するみ言なのです。それゆえに人間が死ぬか、生きるかという問題が、皆さん責任者の言葉によって左右に分かれるのです。こんなことを考える時に、死ぬか生きるかという問題を左右してしまうこのような立場に立つ責任者というものが、どんなに恐ろしい席でしょうか。有名な医者であるほど責任が大きいのです。

 有名な医者であるほど、そんなものなのです。有名な医者が執刀したのですが、約三日間毎日のように連続的に人が死んでしまうようになれば、その医者には個々の骨だけ残っているのです。それと同じように、生命を指導する私たちにとっては、医者の中で最高の医者にならなくてはなりません。

 皆さんは、そのような責任者がどれほど重要であるかを知らなくてはならないのです。学校の先生はただ単に本をそのまま教え、それが理解できるようにして、試験にパスするようにすれば、それでよいのです。それは生きるかどうかという問題とは関係がないのです。分かりますか? 分かって試験だけ通過すればよいという実際が問題になるのではありませんか? そこでは、「知」、知ることで終わるのですが、今日霊的な指導者の教えは、知だけで終わるのではありません。知ることに実績が添えられなければならないのです。これが問題なのです。違うのです。

 それゆえに、責任者が手本にならなかったなら、駄目だというのです。責任者が手本になって初めてなるのです。そのような責任者の立場がどれほど恐ろしい立場であるかということを、皆さんは知らなければならないのです。(七〇―一四五)

 皆さんが公的な壇上に立つようになる時、その心は刑場に出ていく心情と同じものです。それは公判廷で判事の峻厳な判決を請うている、そんな瞬間に立つ男性と同じような心情です。すなわち、祭物ということです。数多くの生命をこの時に、私が責任を負っているのです。一言上手にやれば生かすこともできるのです。一言失敗するならば殺すこともできるのです。医師が注射を間違って打てば、その生命を犠牲にさせることと同じです。最も恐ろしい席だというのです。その席には天が共に働かれるというのです。(五八―三〇二)

 私が壇上に出ていく時にはそれは正に、死刑囚が刑場に出ていく気分です。死刑囚が死の前日を恐れて眺めながら、その刑場に出ていく気分なのです。数百名の生命を責任もって……。「この席にあなたのみ意があって、何千年前から天の摂理のみ旨のために準備してきた後孫がこの夕方来たならば、その後孫を逃さないで、間違いなく私によって因縁をもつように助けてくださいますように」。こう祈るのです。もし私が、天が送った人を殴って送るようになるならば、その人があの地獄に行ってサタンになり讒訴するということを、皆さんは知らなければなりません。

 ですから、汗を流さなければならず、涙じみた心情をもち、叫んでこそ、そのように叫んでいってのみ、心は安らかなのです。それはしてみたことのない人には分からないのです。「あー、先生! アメリカ社会では言葉を穏やかに、穏やかにしゃべってもよいのです。静かに静かに話しても大丈夫です」それは理解できない意見です。のどが裂け、この席に来たすべての人々が気絶し、倒れる境を行き来しなければ、神が共になされないということを知っているので、そのようにするのです。皆さんはそんなことを体験してみましたか? おなかがすいたらすいたと、「あー御飯!」。非常に疲れたら疲れたと、「あー、疲れた! ああどこかでせしめて食べよう」。そんな連中たちが行く道が発展するとしたなら、それはうそです。私はそのように知っています。

 皆さんは、射撃場へ出かけた射手が銃を撃つのと同じなのです。その全部が、三点が一致しなければなりません。精神が統一されなければならないのです。少しだけ動いても間違ってくるのです。そんな境地を連結させることのできる心情の因縁が必要だということを、切実に感じなくてはなりません。

 それでは今日、我々の統一教会の教会長の中で、祈祷のためにひざをたくさん屈して穴が開いたズボンをはいたことのある人はいますか? 畳が全部すり減るぐらい、そのようにしてみるのです。その教会が空っぽですか。寝ても覚めても夢の中でもぶつぶつと言い、行きながらも、ぶつぶつ、どんな席でもすべてがそこに集中している生活をして、初めて天が動いてくれるのです。それは先生が今までの生涯の体験を通して言う言葉です。(七一―一四三)

 皆さんは、今までの精神生活を根本的に変えて、新しい感動の要因を一日の生活圏の中でつくっていかなければなりません。このように実質的な体験を通した生活の基盤を広げて行くところにおいてのみ、新しい発展をもってくることができるのです。行かなければならない所が、まだ遠くにあるにもかかわらず、今と同じ方式で続けていくのでは駄目なのです。皆さんが一時間話を聞いたならば、三時間話をしなさいというのです。のどがかれるようにしなさい。皆さんが責任を引き受けた者としてみ言を伝えなければならないのに、のどがかれてみ言を伝えることができないのならば、どうやってしなければなりませんか? 目ぶり、手ぶりなど@の真似をしても、感動を与えることができなければならないのです。そういう覚悟をして進まなければなりません。

 正常に、一日に御飯を三回食べてから余裕のある時間に、生命を育てようと考えてはいけないというのです。誤ったことは切り捨てなければなりません。一つの生命を育てるということは、絶対に簡単なことではありません。精誠を尽くさなければ、駄目だというのです。残りものを使っては駄目だというのです。食べ残しのかすみたいなものをもってしては駄目なのです。そういうものは、果敢に切り捨てなさいというのです。神様はそういう場所に共にいらっしゃるのです。(三〇―一三二)

 皆様は彼らにしがみついて、涙を流して祈祷してあげなければなりません。私があなたよりも、もっとしなければなりません……。そうすれば、良いのではないですか?「私が寝て、私が休む日でも、弟のようなお前を平安にしてあげるためには、私が、お前の仕事を代わりにできるとするなら、すべてしてあげなければならない」と言うのです。これが、伝統的な道だというのです。時には夜を明かしながら、話をするのです。夜を明かしながら……。

 また、原理のみ言を伝える時、神様に談判祈祷をして引っ張っていこうとすれば、磁石のように引っ張られてくるというのです。このような運動をしなければならないのです。皆さんが祈祷する時、涙が乾いていては絶対的にいけないということです。絶対に駄目だというのです。そのようなことが起これば、絶対に荒野にはならないのです。絶対に砂漠にはならないというのです。(九四―一四六)

 個人指導をしなければなりません。お母さんが一遍に双子を生みますか? 一人一人生むでしょう。そうして汗を流して精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。「あの人はある程度までになった。だからこの人に一時間、二時間、また十二時になり、一時になっても二時間だけ話をすれば、峠を越える」という時には、ためらわずに三時、四時になっても話をしてあげなければならないというのです。一人の生命を貴く思わなければならないのです。それが何のことか分かりますか? (はい)。精誠を尽くさなければなりません。

 決闘する人が、先に刃物を出さなければならないように、銃で誰が先に撃つかというのと同じだというのです。深刻だというのです。注射一本で生きるか死ぬか、という医者と同じ立場に立ったというのです。生命をそのように貴く扱うことができなければなりません。皆さんはそれを考えてみましたか?「ああ、原理のみ言」ただ考えもせずしているのです。それは何ですか、それは。責任を取らずにすれば、刃物を持って切ってしまうのと同じことだというのです。多くの人々を殺すということです。(九六―三二四)

 これからは講義の実力なく、新しく来た人たちの前で講義が不足だというときには、辞退したほうが良いというのです。第二の生命たちを殺してはいけないというのです。(一四五―一〇四)

 皆さんは、原理講義をするのに汗を流さず、涙を流さずしては、あの世に行って引っかかるというのです。先生が原理を発見した時に、ただ座ってできたと思いますか? とんでもない話です。血闘戦に激闘を重ねた上で探し出したものです。