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四 講義に対する牧会者の姿勢

1 講義をする「味」を感じなければならない

 皆さんは今反共講義をしているのですが、反共講義と原理講義の中で何がおもしろいですか? 私が尋ねてみたいのです。何がおもしろいですか? (原理講義がいいです)。原理講義をしたいというのですか? 皆さんは本当にそうですか? 反共講義がおもしろくありませんか? (外的には反共講義のほうがおもしろいのです)。(笑われる)私もしてみましたが、人を復活させる講義が一番いいというのです。死ぬ人間を生き返らせることが一番良いというのです。それは良くありませんか? 

 ここに教会長を演壇に立たせて復興会を……。その時はどれくらいしたのですか? 何日ぐらいですか? (約二十日ぐらいになります)。二十日だと、二十日の間、その時は続けてするのです。御飯を食べるのが惜しく、小便をするのが惜しくしてこそ、その人たちも救われるのです。分かりますか、何のことか。私はそうです。動機がなく結果があるという法はありません。分かりますか? 御飯を食べるのが惜しく、寝ることが惜しく、トイレに行く時間が惜しく、寝る時間がもったいないと思わなければなりません。

 そうして、天の心情を吹き入れなければ、その環境では眠ることができないのです。寝ることを忘れるのです。動機があって結果が生まれるでしょう? その動機が完全なプラスであれば、結果は完全なマイナスになるのです。そうではありませんか? 寝ることが何ですか。寝ることがいったい何だというのですか、食べることが何だというのですか、食べることが……。

 そうなれば、その雰囲気が充電されるのです。何日間かしてから、その場から出るというと、自動車が走っているのがおかしく見えるのです。スーッと空中で走っているかのように。橋を渡ってみると、私が太平洋にいるような、霊界に行って霊魂になったかのような気分になるというのです。そういうふうになるというのです。これは、そのような神秘境に入るようになるというのです。

 そのような動機をつくろうとすれば、そのような動機、麹にならなければなりません。主体性をもたなければならないというのです。心情は麹のようですが、溶けてしまわない人はいますか。そのような人たち、小麦粉に麹を入れると、一日が過ぎれば全部、麹になるでしょう。それと同じことです。皆さんが良い材料をもって、活用できなかったというのです。原理を学ぶのだといっても、原理どおりに生きることはできなかったというのです。原理原則の生活態度に対して忘れてしまっていることが多かったというのです。どうですか? そういうことを感じますか? 地区長たち、どうですか? (一五七―二五八)

 聞く時には一生懸命聞いて、話す時も血と汗を流して、涙を流して話すのです。それを話すと恐ろしいというのです。そのように皆さんは仕向けていかなければなりません。皆さんは最近、原理講義をする時、本当に儀礼的にしているというのです。会社に出勤するように時間を守って「何時に来て講義をしよう」。それは駄目だというのです。ですから、私が韓国で指令を出したのですが、原理講義をする時は、汗を流してしなさいと言いました。韓国では、古い三十六家庭たちは講義をすべてそのようにしているというのです。教育をそのように受けたというのです。(九六―三二三)

 皆さんが原理講義をする時、前に報告を聞いた何種類かの内容を筆記したものだけをぶつぶつ覚えて、聖書の句節がどうで、何はどうだというふうにしてはいけないというのです。皆さんは必ず、どんな骨子を話す前にも全体的な内容を知って、そこに心酔して新しい味を感じなければなりません。

 皆さんが聴衆を感動させるためには、自分がまず原理の本にしっかりすがって、涙を流さなければなりません。その原理の本にしっかりとすがって夜を明かして読みながら、時間が過ぎていくことを残念に思い、ページごとに神秘的なものを体恤する人にならなければなりません。それを感じたあとには、原理に酔って説教をしなさい。聴衆に感動の役事がどのように起きることか、そうすれば必ず、新しい感動の役事が起こることでしょう。ですから、死んだもの、すなわち、命がないものは退化し、生きているものだけが必ず発展するというのです。発展すれば、新しいものが生まれるというのです。原則はそうなっています。(三〇―一三〇)

 講義をする時は、講義の時間に自分は何を残すのですか? また、話をする時には、その言葉を通して何を残すのですか? 手が行く時は、私の手が行って、何を残すのですか? 私が行動する時には何を残すのですか? 全部、これを固く決意しなければなりません。ですから苦しい道を行きながらも、へとへとになるような道を行きながらも何を残すのか、何を残すのかを探さなければならないというのです。苦しくつらい道をいくたびも歩きながら、何を残すかを考えなければなりません。興味津々とならなければなりません。くたびれることができないというのです。難しければ難しいほど、そのような考えにならなければなりません。それが必要だというのです。(九六―三三一)

 講義をせずにはいられないというのです。その言葉はどれほど素晴らしいでしょうか。ですから味を知っている人は、原理のみ言を語るなといっても、どこに行っても話さなければ死んでしまいます。信仰の基準が低くてふらふらしている人を探していき、夜通し話をしてでも、そういう味をもう一度感じなければ生きる味わいがないというのです。

 先生がこれからは有名になって、忙しくて原理のみ言を……。昔、食口たちを育てたことが一番良かったです。今は退屈です。ただ、夜遅くまで座って、十二時になって食口たちが行きたくても、話をすることに酔って続けているのです。けれども、私はこくりともしません。ところで、この者たちは「夜の十二時が過ぎたので、先生は二階に上がって、休まれてください」。そうしているうちに一時になり、先生が立ち上がらないので、先に立ち上がるというのですか。それはどれほど考えられないことでしょうか? そういう者を連れて何ができるかというのです。一時、二時、三時になっても味が出てきて、おもしろいのですが、この者、こっくりこっくりとしているというのです。それはどれほど差がありますか? そこで笑うのを見ると、そうだというのです。そういうことは、統一教会の教会員でなければ分かりません。講義をしながら酔って、講義しながら涙を流し、講義しながら感謝し、講義しながら考えるのです。あの者たちは地獄に行く命であり、逆さまに落ちていくのですが、注射を一本、サッと打てば、ぱっと上がってくるのです。それはどれほど素晴らしいことでしょう。それはどれほどエキサイティングなことでしょうか?

 皆さんは講義をせず、講義するその味を知らなければ死んでしまうということができますか? そういうことが分かりますか?

 天が共にされるので、そこには大きな電流が通じるというのです。何億ボルトが通じるのと同じような力が共にあり、この世を揺するとすれば、行ったり来たり揺することができる、そのような気分がするというのです。どんなに痛快かというのです。そのような時は目を閉じようとしても閉じないのです。寝ていても、ぱっと目が開くのです。そういうことがあるというのです。そういう人をつくってあげるというのに嫌ですか、いいですか? (いいです)。欲が深いですね。(笑い) そうするためには、御飯を一週間断食して、一食食べて、また、一週間断食をして、一食食べなければならないとしたら、そういうふうにしなければなりませんか、そうしなくてもいいですか? (そうしなければなりません)。(一六七―三二九)

 いつも話すことは、我々統一教会のために話をするのではなく、アメリカのために、韓国を救わなければならない、このような愛国的な思想を訴えているのです。その思想で雰囲気をつくっているのです。アメリカは現在、青年たちは腐敗し、ますます滅んでいくので、これを私たちの手で救おうというこのような愛国的な思想をもって、全部話をして、そのような思想を教えてあげるのです。そのような講義をする時、さらに強調するのです。講義をしてはただ帰すのではなく、必ず証をさせるのです。「自分はヒッピーでどうしたこうした、このように麻薬を打っていた精神病者だったのだが、こうして講義を聞いてみると……」。このように証をさせるのです。講義を聞く時間が長くなって便所に行く時でも、その時間が惜しくて走りながら「この時間は講義の時間だけれども、講義を少しでもしなければいいのに」。このようになるようにつくらなければなりません。ダダダと走っていき、ダダダと駆けてきて、「私が便所に行っている間にどんな話をしたのか」と、このぐらいまで聞きたくなるほど、雰囲気をつくらなければなりません。こぶしを握り締めながら講義を聞いている人が、「ああ、自分の友達を連れてこなければならない。自分の父や母、妹や弟を連れてこなければならない」。このように考えるようにしなければならないというのです。そのようなことを考えると一遍に火がつくというのです。「自分はこのように素晴らしいみ言を聞けなかったのだ」と言うのです。

 講義が終われば、一遍に「生活的な環境の雰囲気がいいな。これこそ正に一つになっているな、ああ、出ていきたくない」そういうふうになり、十二時が過ぎて、四時になってもこの世を知らずに座って、「ああ、四時になったのだなあ」という、そういう雰囲気になるのです。ある時はそういう雰囲気になって全体が夕御飯を食べられなくて、二時、三時まで聞くことになります。夕御飯を食べるのを忘れてしまうのです。何のことか分かりますか? そういう雰囲気になるというのです。

 それで、家に行くのもすべて忘れてしまい、それこそ神仙境になって、世の中のことを何でもかんでも忘れてしまうのです。そのような雰囲気の中で目を開けて、霊界とみな通じるのです。その時、居眠りをするなら、天使が来て頭の後ろをぶつのです。そういうことが起こるのです。そういう位置で、神様はいないとそういうふうに考える余地がありますか? 祈祷しようとするなら、泣いて涙を流すことを恥ずかしいと思っていた人も、我知らず恥ずかしいという思いもしないで、ワンワン言って泣かざるを得ません。(一〇七―二四三)

2 気違いのように講義を続ければ、霊界と接触するようになる

 一つだけ話をすると、深刻な心情の位置で話をし、汗を流して戻ってきて飲む水の味は、世の中の普通の人々は知ることができないのです。その味はどうだったのですか? コーラだとか蜜の味なんかとは比較にもならないのです。味が違うのです。毎度毎度違うのです。何のことか分かりますか?

 それを発見しなければなりません。そういうことを感じないなら、霊感を感じることはできません。霊界に対するすべての物事を感応することができないのです。そういうことを感じるようになれば耳が鋭敏になって、既にそこで話せば何の話をしているのか聞こえるのです。分析できるのです。目をつぶっていても、何が通り過ぎるのか、良い人なのか悪い人なのか選り分けるわけです。霊感が来るのです。それを知らずには、霊界の悪神なのか善神なのかを見分けることができないのです。それを知らなければなりません。見て分かるものではなく、心が分かるのです。心の目は見て知る目よりも、高次的な位置にあるのです。分かりますか、何のことか。

 私がこの話をなぜするのでしょうか? 皆さんはまだ行く道が遠いからです。それを知らなければなりません。自信をもってはいけません。それで聖書では「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ五・三)とイエス様はおっしゃいました。同じ道理です。すべて通じるのです。分かりますか?

 ところで皆さん、講義をしていないではないですか。講義をしないではその世界を探し求める道理がないのです。講義する時間に皆さんは霊界と接触できるのです。そうなると夢うつつのうちに皆さんが講義するわけです。創造原理から堕落論を一気に講義するようになると、夢うつつのうちに講義したそれが、現実的にただそのまま起こるのです。

 ですから、誰かに講義をしたのですが、初めて会った見も知らぬ人に何かの講義をしたのですが、その人が現れるというのです。その人がその日に来るのです。その時それを繰り返すならば、間違いなく回っていくのです。そうして感動さえ受ければ、どれほど追い払ってもそういう人は出て行かないのです。その境地に入らなければなりません。

 それで、霊界で行う業が現実にどのように合うのかということを、皆さんは知らなければなりません。見て感じなければなりません。皆さんがその位置まで行こうとするならば遠いですか、近いですか? 遠くないのです。目の前に、皆さんの目の前にあるのです。ですから気違いのごとく、気違いのごとく講義を続けろというのです。(九六―一七〇)

3 多くの人が必要なのではなく、責任者一人が問題

 皆さんだけでも先生と同じ姿勢をもって、そういう決心さえするその日には、アメリカはあまりにも小さいです。とても小さいのです。私はこう考えるのですが、皆さんは、八時間を全うできないならば、十八時間の間ビデオテープをかけて人を連れてきて、見聞きできるようにしなさいというのです。その運動をするのです。三回聞いて、四回聞けば教育されるのです。二日修練会、四十日修練会のテープを作れと言いました。今年中にすべて終えなさいと指示したのです。その準備をしなければなりません。

 今やたたいて追いやるのです。それしかありません。統一教会の信徒は誰であろうとすべて、二日修練会から七日修練会、二十一日修練会、四十日修練会のテープを、ファンダレイジングをしてでも買えというのです。全部買えというのです。そして皆さんから八時間の講義をするのです。二日に一回ずつすべて講義するのに、一回り回りなさいというのです。何日ぶりかで講義するのですか? いつ講義するのですか? そして、寝る時間には食口を立てて、夜に教会で声を出して祈るようにするのです。講義の代わりに祈る人を立てて寝るのです。そういう伝統をもたなければなりません。そういうことをしなければならないというのです。こうしてでもアメリカを救い自由世界を救わなければなりません。

 さあ、そうすればうまくいくと思いますか? (はい)。では、一度やってみなさい。なるかならないか、どれほど大変か、やってみなさい。とてもきついです。祈祷しなくては成し得ないのです。カープだろうと何だろうとみな同じです。その思想をもたなければなりません。このように訓練されれば皆さんは絶対……。先生はアフリカに行こうがどこに行こうが、御飯に飢えたり寂しくはないのです。四十日以内に数十名を集めるのです。

 今に分かります。アメリカは私の前に屈伏するのです。世界は私の前に屈伏するのです。世界が動揺するのがひどければひどいだけ、私の時が近づいてくるということを知っているから……。唇が割れて、血が出て……。話をたくさんすれば、あとで舌が痛いのです。御飯を食べようとすると舌がうまく動かないのです。のみ込めないのです。御飯がしきりに外に出ようとするのです。話をたくさんしたから。その口が神様は大好きです。何のことか分かりますか?

 皆さんが約束したとおりに、本当に実行する日には寂しくありません。絶対に心配するなというのです。年数がどうで、どうしてこうして、代表して伝道に行くのはすべて同じです。多くの人は必要ありません。責任者一人が問題です。世界に人間は多いけれど、レバレンド・ムーン一人の責任問題です。皆さんは州責任者です。灯台です。灯台は二十四時間灯を照らしてあげなければならないのです。灯台が消えることができるかというのです。簡単です。問題は簡単なのです。これをどのようにしてであろうと、東部のニューヨークでしなければならないでしょうし、その次にはワシントンでしなければならないでしょうし、フィラデルフィアでしなければならないのです。その次にはボストンでして、ボルティモアでして……。このように東部でするようになれば、その次には幾可級数的に広がっていくのです。(一〇七―二五〇)