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第三節 名講師になる道

一 まず原理の実力をつけなさい

1 毎日原理のみ言を読まなければならない

 皆さんがどれだけ原理のみ言を愛したのか尋ねてみたいです。これは、先生の一生で骨を溶かしながら探したものです。百回千回覚え、また覚えてもその内容に報いる道がないのに、原理の本を棚に上げておいて小説なんか読んでいるのですか? 隣近所に何のおせっかいをしますか? 遊び歩きますか? 私はそんな道を歩んできませんでした。私が今しているすべてのことを天的に見たとき良心の呵責がなく、またそうすることのできる場に来たので、そうしているのです。ところで、できそこないたちが自分のしたいことをみなやって、それでいいのですか? とんでもありません! もう一度修練して、もう一度教育を受けなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。(六八―一八一)

 原理を習ったと言いながら、原理を全部奥にしまい込んで、自分がしたいままに、自分は自分なりに、原理は原理なりに……。一つになっていないのです。そうでしょう? それで伝道してうまくいくでしょうか? 駄目なのです。駄目です。神様が共におられないので、そんなのは偽物です。原理どおりにしなければなりません。皆さん、原理の本を見れば、そこには神様の六千年の心情があるのです。先生の一生の血を流した闘争の歴史が、そこにあります。皆さんの知らない内容がいくらでもあるのです。そんな原理の本を一ページ一ページ見るたびに、夜を徹して祈祷しながら、ここに神様の心情を探すことのできるはしごがあるのではないかと思いながら覚えましたか? 線を引きながら、この一言の背後にどんな歴史があるのか考えてみましたか? この者たちめ。みんな原理の本を棚に上げておいて……。毎日のように原理の本を読みますか? どれ、毎日のように原理の本を読む人は手を挙げてみなさい。この者たち、全部よた者どもめ。それで何、神様が協助してくださらないと? ですから新しい制度をつくらないわけにはいかないのです。今からみな体質を改善しなければなりません。神様の仕事をする聖職者の業が、どれほど神聖なものであるかを知らないでいるのではないかというのです。(六八―一〇一)

 皆さんが原理のみ言を読んだ時、夜眠れず涙を流してみましたか? 劉協会長の素晴らしいところは、原理を全部ノートしながら、一ページごと涙を数百回も流したということです。自分は知識人として大学に通った頭の良い人間として、真理を探究して疲れて落ちていたのに、どうしてかこんな深い世界を知るようになったので、涙を一滴二滴ではなく滝のようにふり注いだのです。それに接するようになる時、その真理の前に恍惚を感じ、涙なしに記録できなかったというのです。一ページを記録するのに一週間かかったということを私は聞きました。ですから涙をどれほど流したか分かりません。本然の心情と通じることができる真理のみ言は、愛を爆発させても再爆発させる力をもち、その作用は歴史を通して成就されたのです。(一四一―七〇)

 皆さん、原理の本は恐ろしい本です。原理の本を劉協会長が書いたといって軽視する人が多いです。もしこの本を私が書いたとしたらどうなりますか? みな引っかかってしまいます。再び言うまでもなく、一遍に引っかかってしまうというのです。霊界に行ってみなさいというのです。もし間違って書かれてあったとしても、軽視したなら引っかかるのです。何のためにそのように書いたのかを知らなければなりません。分かりますか、何のことか。

 経典は絶対視しなければならないのです。明らかに違っているようなのに、なぜそのように書いたのかと言う人がいます。それは全体を前において見るとき、そのように書くようになっているからです。そのように書かなければならない他の事情があったのであり、飛躍しなければならない内容があったということを知らなければなりません。そのように考えなければなりません。そのように理解できなくて、自分が分からないことは間違っていると思っているのです。しかし原理は千年たっても変わらないものです。(三三―一〇一)

 原理は生命のみ言が入っている倉庫です。原理を聞けば、大きな倉庫にゴムホースをつけて生命の水を供給されるのと同じです。この生命の水の味を一度知れば、その味に夢中になって口を離そうとしても離せなくなるのです。口を離そうとすれば口が落ちてしまって、行くなら行くでしょうが、離せなくなるというのです。これはちょうど蜂が蜜を吸うとき、ピンセットのようなもので尻をつかんで引っ張れば、尻がとれてしまいますが、蜜から口を離そうとしないのと同じです。このように原理には蜜よりももっと甘い何かがあります(九〇―一九九)

 教会長は原理のみ言を、どんなにできなくても十ページ以上読まなければならないのです。皆さん、御飯を食べるでしょう? 一日に三度御飯を食べるでしょう? (はい)。三度御飯を食べるならば、それに合わせて霊的呼吸も共にしなければなりません。皆さん、原理のみ言を全部知っていますか? その原理のみ言をみな知っていますか? その原理のみ言を中心として、実践の復帰路程を現在身もだえしながら行く先生がいるのです。その先生の骨髄に流れる深い心情の谷を少しでも分かりたかったならば、そこに自分の根を深く深く下ろさなければなりません。

 太い枝になろうとすれば深い根から来る液と関係を結び、それを吸収できる力がなければなりません。外側がうまく育った枝は見掛け倒しです。それは干からびた枝になり、あとから死んで落ちていくようになります。分かりますか? 深刻だというのです。ですから毎日のように祈祷し、精誠をささげなければなりません。(四六―一七一)

 み言と伝道、皆さん、統一教会の人たちがみな原理を知らないでいるのです。み言で武装するのと同時に伝道しなければならないのです。み言で武装するのと同時に、伝道の必要性をいつも強調しなければならないのです。心情の体恤というものは自分一人では駄目です。伝道しなければなりません、伝道。どうやって? 何で伝道をするのですか? 『原理講論』の本をみな覚えるほどに朗読しなければならないのです。どのページには何があり、全部……。(九六―三一八)

 皆さんが原理を学ぶ時に、創造原理から堕落論、復帰原理を学ぶ時にそれは他人事ではありません。私の骨肉にしみ通る立場で学ばなければならないのです。すなわち、アダムの家庭を学ぶ時は私がアダムになり、ノアの家庭を学ぶ時にはノアになり、アブラハムの家庭を学ぶ時にはアブラハムにならなければなりません。彼らが実体的な復活体として失敗したために、皆さんも犠牲を繰り返す痛みを感じ、神様の悲しみを感じながら、講義を聞くことができなければなりません。アダムをはじめとしてみなそんな立場なのです。ですから私によって神様もアベルの神様になれるようにしなければなりませんし、アベルのアダムになれるようにしなければならないのです。(六六―二五)

 神様を探し出すために、歴史的にした仕事を見ても探し出すことができます。動く神様を探し出すためには原理の勉強をしなければならないのです。そんな原理の勉強を皆さんができるようにするために、先生がこの地に来たのです。皆さん、夢の中で先生をたまに見る人は手を挙げてみなさい。そう、下ろしなさい。一〇〇パーセント見るようになっています。一〇〇パーセント見なければならず、困難な時はみなコーチしてあげるようになっています。(六〇―一六九)

2 講義ができなければ読んであげるのもよい

 統班撃破において教育方法は全体を集めておいて、講義の実力がなければ原理の本をもって教育せよというのです。原理講義ができなければ堕落論を全部読めというのです。何か質問がありますか? 集めておいて原理の中で一題目を中心として三度に分けてしたならば、三分の一をいちいちチェックしながら、自分が本の中で強調することをちゃんと決めておいて、演説式に読んでいけばいいのです。講義が特別なものですか?

 そのように一度やり、二度やり、三度だけやれば、既にそこで選ぶものが分かるようになります。簡単に要点を選ぶことができるようになります。十回もやるようになれば、その次には創造原理を中心として、十時間でするのを五時間で講義できるようになり、五時間でやるのを三時間で講義できるようになるのです。だんだんうまくなるのです。二十分、三十分でするようになれば、一時間以内に骨子を全部圧縮させることができるのです。そのようにするのです。

 見なさい。教育学部を出て中高等学校の先生になる時、彼らの心境がどんなであるか分かりますか? 先生になるのを誰が願いますか? 彼らも災いを背負って山のような心配を抱いていくのです。スタートする時、壇上にどうやって自分が着陸するのかというのです。基地のない飛行機が空中に浮かんで着陸するような、そんな心なのです。ですから自分にあるすべてのものを総動員して、着陸のための準備をして、着陸を見事にしなければならないのです。そうやって着陸するのです。

 そうやって、公認されたその立場に立つようになれば、自分の実力を発揮できるのです。全部要領よく選んでどのようにうまく使うのかという問題が残ります。その次からは、経験的な土台を中心として骨子を選んで教えよというのです。講義をたくさんせよというのです。講義ができないならば、たくさん読んであげよというのです。そうしながら論説をしていくのです。何の心配がありますか、本があるのに。本はみなあるでしょう? (一六六―一九六)

3 まず原理でもって講義の枠を立てなければならない

 皆さんは全部統一教会に入ってから十年を越えた人たちですが、どこに連れていって立てても、原理の前編を講義しても後編を講義しても、さっと開いて詰まってはいけません。それ自体が一つの公式にならなければなりません。それで、これをすべての現象世界に公式として活用することのできる人間になれば、どれほど膨大な知識圏をもつことができるでしょうか? 皆さんは原理がおもしろくて夜を徹して本を読み、それに酔って内面的な面でも発展をもたらさなければならず、生活面でも発展をもたらさなければならないのです。それにもかかわらず、今までこのような基盤を喪失してしまったことは、皆さんには莫大な損害なのです。私はそのように見ています。

 それで皆さんが活動しなければならない、面や郡を中心として、計画を立てて活動しろというのです。そして講義をするとき、自分が得意な講義はするなというのです。できない題目をとって精誠をささげて、一遍読むところを十遍読みなさいというのです。そうしてから講義をするのに、一遍に郡内で一番の部落で講義するのではなく、郡内で一番水準の低い所に行って、幾人かの人を相手にしてやってみるのです。それから一流級の部落でせよというのです。一回二回とやってみる中で不足なところを補強することもできるし、今まで自信がなかったところも自信をもつようになるというのです。自信がなければ発展がありません。このような観点から、皆さんが原理のみ言を宣布するにおいて、対象区域に対して計画を立て活動して、皆さんも発展しなければなりません。(二九―一九〇)

 皆さんが講義をするためには、必ず原理を勉強していかなければなりません。二時間講義するならば二時間以上勉強しなければなりません。祈祷は二倍以上しなければなりません。そうでなければ聴衆を感動させることができません。

 ここには講義することにも目的がありますが、自分が発展しなければなりません。講義の回数が増えるにしたがって、私自ら強固にした基盤をつくり、天的な心情の因縁をさらに強固にしなければなりません。その土台を中心として、全体に影響を与えることができなければなりません。そうすることのできる源泉と原動力が増進されることでやりがいを感じ、活動の価値を感じるようになるのです。ですから、このような活動を継続すればするほど、相対的に対する範囲もだんだん広がり、自分自身の実力も向上されることを感じるようになるのです。(二九―一八八)

4 原理の本を全部覚える計画を立てよ

 統一教会のムーニーたちは原理をはっきり知らなければなりません。米国人の中には、原理をはっきり知っている人は一人もいません。原理がよく分かっていません。私が見る観点では、みんな分かっていません。しかし、分かっているみたいにしています。どうなっているのかというと、自分式に原理講義をし、自分式に考えるのです。そうではありません。違うのです。米国教会長が講義するのを見ても分かります。私が聞けば答えられないことが多いのです。(笑い) ですから皆さんは言うまでもありません。

 皆さん、原理の勉強はみなしたでしょう? 何ページに何があるのかみな知っていますか? 全部で五百五十六ページですが、何ページに何があり何があるのか、またその文字の意味をみな知っていますか? それは私の体と同じです。私の体のどこにそばかすがあり、ほくろがどこにあるのか、それを知らなくてもいいのですか? (一六七―三二八)

 皆さんが講義をしようとするならば、原理の骨子を、どのようにしてもつかみ出さなければなりません。原理講義ができないという言葉は、先生の前では適用されないのです。皆さんが多くの講義を聞くようになる時、「ああ、あの人はあんな講義をするのだな」と言いながら、そんな方面の表情だとかすべてのことを見るのです。堕落論ならば堕落論、創造原理ならば創造原理のある題目に入って講義する時、感銘を与えなければならないところでは、感銘を与える言葉を語らなければなりません。「いい」という言葉を言うときには「アイゴー、素晴らしい」と言いながら、ここに顔を和合しなければならないのに、そのまま「アイゴー、いい」と言えば……。そのすべてのことが内外にかみ合わなければなりません。

 その原則を知って、どれくらい多くの講義をするのかによって、その人の力量とその人の実力が増えていくのです。ですからそう知って、皆さんが原理の本を全部覚える計画を立てよというのです。まず全部覚えよというのです。一日に一枚ずつ覚えるのです。そうすれば一年以内に全部覚えることができるのです。ところで皆さんはそうしませんでした。問題にしなかったというのです(五四―一八二)

 皆さんが原理講義を勉強するにおいて、一題目一題目ずつ練習する訓練をするのが一番早いと考えています。そうではなく、創造原理から堕落論、復帰原理まで一遍にしなければならないという考えをもてば、講義をするのが本当に大変です。もし皆さんが講義するにおいて、創造原理ならば創造原理一題目をもって全部同じ講義をすれば、それに対して明らかに開かれてくるのです。

 私の経験を通して見れば、そんなふうに訓練すれば、一年半あれば原理講義を完全にやることができると考えます。ですから最初からずーっと全部しようという考えは、初めからもたないでください。講義は誰もができることなのです。講義ができないという考えは初めから……。若い者がそんな考えをすれば、脳髄から引き抜いてしまわなければなりません。

『原理講論』の原本を見れば五百五十六ページからなっています。もし皆さんが一日一枚ずつ覚えていっても、これが二百七十八枚ですから、一年以内にみな詰めることができるのです。(五四―一七四)

 私が皆さんに話したでしょう? 『原理講論』の一ページから五五六ページまでするするみな覚えようとすれば、頭のいい人は六カ月以内に全部覚えられますが、それだけ覚えれば世界のどこに行っても食いはぐれることなく、婦人と子供を勉強させる道が明るく開けると、そんな話をしたことが思い出されますか、出されませんか? せよということはせず、みな浮ついて病気になり……。それを誰が認めてくれますか、風が吹けば飛んでいくようになっています。そういう時が来たのです。(一二六―六五)

 私があなたたちに講義をしきりにせよと言いませんでしたか? 原理の本を全部覚えてでもやりなさい。若い者たちが何ができないというのですか。今もそうです。講義ができなければこれから絶対出世できません。(一七〇―三一六)